熊本熊的日常

日常生活についての雑記

読書月記2018年5月

2018年05月31日 | Weblog

L.S.ポントリャーギン(著)、坂本實(訳)『やさしい微積分』ちくま学芸文庫

旧ソ連で高校生向けに書かれたものだそうだ。全くわからなかったし、そもそも理解しようとする意欲が湧かない。自分も高校時代に微積は当然に履修しているはずだが、この本を読んでおけば、とも思わなかった。ポントリャーギンは全盲だ。微積といえばグラフがつきもので、その概念をグラフでイメージしながら理解したり他のことに応用したりするものだろう。目が見えなくて、どのように理解したりイメージしたりする

のだろうと素朴に疑問と興味があって手にした本だ。なにかと言うと「人は経験を超えて発想できない」とこのブログに書いているが、「経験」とはなんだろうかと考え込んでしまった。五感が達者であっても理解力がなければ宝の持ち腐れであることぐらいは容易に了解できるのだが、そこから先がどうにもならない。見ていても見えない、聞いていても聞こえていない、味わっていても味がわかっていない、そんなことだらけのような気がする。

訳者あとがきのなかで紹介されているポントリャーギンの言葉がよかった。「本は入念に書けば書くほど薄くなり、それだけ書くための労力が大きくなる。おおざっぱに言って、著者が綿密さを2倍にすれば、本の厚さは半分になる。つまり2倍の労力に対して、支払いは半分になる。したがって、著者への支払いは、なされた仕事の2乗に反比例する」実のある仕事をする人は決して金に恵まれないとも読める。もっと言えば、金持ちというのは、、、ということだ。それは即座に納得できた。


中尾佐助『料理の起源』吉川弘文館

このところ落穂拾いのように、家のなかに読まずに放置されていた本を読んでいる。本書は昨年読んだ納豆本の流れのなかで購入したものであり、今年1月に読んだ『栽培植物と農耕の起源』の続編にあたるものだ。納豆本、特に高野秀行の『謎のアジア納豆』は面白かった。その面白さの理由は著者の経験に基づいているところにあると思う。聞きかじったことを思い込みで敷衍させる昨今よく見られる言説ではなく、実地に現物と対面した経験に基づいた言葉の力強さに値打ちがある。そういう点で本書には頼りなさを感じないわけにはいかないのである。

学者の文章なので、論の展開はたぶん一定のプロトコルに従っているのだろうし、その広がりには素朴に面白さを感じる。しかし、読んでいて、眉唾っぽさが見え隠れするのである。掴みはよい。自身が満州国軍の一員として飯盒の飯を食う経験から本書は始まる。飯の炊き方が日本人と漢人とで違い、しかも互いに自分たちの炊き方のほうが良いと思っているというところから「米の料理」の章が始まる導入の妙だ。最終章「果物と蔬菜」も著者の経験で終わる。終戦の年を中国山西省南部の黄河沿岸の県城の守備をしている日本軍の二等兵として迎えたというのだ。城門衛兵として出入りの中国人の荷物検査をするのが仕事で、中国農民の持ち物に少量の野菜が入っていることが多かったことから、中国の蔬菜について推測を巡らすのである。満州国軍にいたのは昭和18年なので、この間約2年。もちろん、その2年間での経験や研究をまとめたわけではなく、料理の起源についての研究成果を展開するのに、米から始まって果物・蔬菜で終わるその前後を自身の経験や研究でまとめてある。

研究といっても、本書は一般書なので小難しいことが書いてあるわけではない。どちらかといえばエッセーに近い。それにしても内容がいい加減すぎやしないのかと思うのである。日本という国民国家の領域に限っても食材の扱いの地域差は、食の産業化が進行した現代においてすら、かなりなものだろう。世界史上、国民国家が当然のように成立するのは19世紀以降のことだ。未だに定規で引いたような国境線が珍しくなく、国内に複数の民族が同居しているほうが当たり前だろう。それを「インドの」「中国の」「アフリカの」などとあたかもそれが文化単位であるかの如くに語ること自体に胡散臭さを覚えるのである。話としては面白くても、それだけのことのだ。『栽培植物と農耕の起源』でやめておけばよかったのに、蛇足のような本を出してしまったように思う。


山崎努『柔らかな犀の角』文春文庫

週刊文春に掲載された書評をまとめたもの。米原万里の『打ちのめされるようなすごい本』もそうだったのだが、面白い書評は罪作りだ。そこで触れられている本を読んでみたくなってしまう。新本で買い揃える余裕がないので中古で買おうとすると送料無料になるように余計な本もつい買ってしまう。読まずに積みあがる本が増え、ただでさえ狭い家の中が片付かなくなり、生活がだらしなくなる。いけないことだ。

こんな読書月記など書いているが、別に本を読むことにそれほど興味があるわけではない。たまに面白いと思う、それだけのことだ。ただ、その「面白い」が生活には必要不可欠だと思うのである。もういつ死んでも不思議のない年齢になったが、「面白い」ことは思いのほか少なかった。だから、たまに「面白い」と思うことがあると、素朴に嬉しくなったり楽しくなったりして我ながら馬鹿馬鹿しい。

米原のほうでは自分が読んだことのある本がなかったが、こちらのほうでは梅棹忠夫、山田風太郎、熊谷守一といった私の好きな人々が登場して、妙に親近感が湧いた。

 


…の城下町

2018年05月27日 | Weblog

前日は午後5時過ぎまで野洲にいることがわかっていたので、体験セミナーを申し込む時にその周辺で宿を探した。その結果、たまたま古い町家を改装して宿屋にしたところが見つかった近江八幡にやってきた。さすがに近江八幡という地名は聞いたことがあったが、そこがどのような場所なのかは何も知らなかった。その宿は駅から徒歩25分とのことだったが、実際には40分近くかかった。尤も、宿の近くで鐘楼のある教会とか立派な洋館に足を止めて写真を撮ったり、そこにあった説明書きを読んだりしていたので、ただ歩けばやはり25分くらいなのかもしれない。

近江八幡駅北口から八幡山方面へ向かって通りがまっすぐに伸びている。その通りにはそこそこに交通や人の往来があるが賑やかというほどではない。駅を背にして5分と歩かないうちに左手前方にオレンジの外装の大きな建物が現れる。たねや近江八幡店だ。たねやは都内の主だった百貨店にはたいがい店を出しているし、その菓子を頂いたりすることもあるので店の名前と自分で組み立てて食べる最中は知っている。ここがその本拠地か、と思う。付近にほかに大きな建物がないので、余計にそのオレンジの建物が目立つ。

昨日は、宿へ至る途中で目にしたその店が記憶に留まったというだけのことだった。今日は午前9時過ぎに宿を出て、白雲閣に立ち寄り、コインロッカーがあったので荷物を収めて身軽になり、とりあえず街や琵琶湖が見渡せる八幡山にロープウェイで登る。琵琶湖は地図から受ける印象ほど大きくないと感じた。興味を引かれたのは湖周辺に広がる平地に瘤のように点在する山だ。隆起と侵食の組み合わせでこういうことになったのだろうが、全体に穏やかな印象だ。日本は毎年のようにどこかしらが地震だ台風だと自然災害に見舞われ、建築物は耐震基準がどうのこうのという説明が必ずついてまわる。こうしてちょっと高いところから見渡したときに、木々に覆われた丸っこい山がぽつぽつあって、間に田や街が広がる風景というのは、それだけで貴重な感じがする。

ところで、その瘤のような山だが、かつてはその一つ一つに砦や城が築かれていたそうだ。織田信長の安土城をはじめ、佐和山城、小谷城、観音寺城、などなど。ここ八幡山にも当然あった。八幡山城や豊臣秀次のことをここで書くつもりはないが、築城から数百年を経て今なお城下町の面影を残す町並みに八幡山城の時代の栄華の残り香が漂う。周辺に平らな土地と豊富な水があり、十分に考えられた町割りやインフラや統治があり、そこそこの期間にわたってそれらが機能して繁栄するという時代を経た土地は、ちょっとやそっとのことでは消えてなくなるということはないのではないか。世に都市遺跡はたくさんあるだろうが、遺跡になってしまうところは、どこか力づくで繁栄したところがあるのではないか。奴隷の労働力に過度に依存するとか、社会構成上の格差が大きくインフラが十分に整備されなかったとか、仕組み骨組みの部分に脆弱性があると自律性が確立されないので、権力の盛衰で土地もいっしょに盛衰してしまう。数ある城下町のなかで現在に残るところと跡形もなく消えてしまったところとの違いは、そういうところにあるような気がする。とはいえ、そうした積み重ねも現在の市場経済のなかで機能しなければ、やはりそのうち跡形もなくなってしまうのかもしれない。幸い、この地はほどほどに活気があるように見える。

街中で、たねやの包装紙や紙袋を手にした人が目立つことに驚く。八幡山の麓にある日牟禮神社の周囲にも和菓子と和食を商う建物と洋菓子を商う建物が通りを挟んで建ち、どちらもそれぞれに繁盛している様子だ。私たちは足を運ばなかったが、近くにあるラコリーナはたねやの基幹店、建物は藤森照信設計の個性的なもので、滋賀県内随一の集客施設ではないかとの声も聞いた。「近江商人」という言葉があるが、織田信長の経済政策「楽市楽座」の下で日本で先進的に商業が振興されたのが安土城下をはじめとする近江地域であり、その土地柄が反映されているのだろう。各地の大名が覇を競う、また、競わざるを得ない状況があり、そうした中で醸成された価値創造の知恵と気概が様々な形で現代に受け継がれたということだろうか。

ところで、ここには古い街区を保存している地域がある。景観保存というのは、ここに限らずあちこちにあるが、なぜそのようなことが行われるのか理解できない。民俗的史料としての価値はあるのかもしれない。しかし、単に物理的なものを後生大事にとっておくだけでは史料としては不十分だろう。そうしたものがどのように使われていたのか、作られていたのか、消費されていたのか、つまりそのモノとヒトとの関わりも含めて保存しなければ保存とは言えないのではないか。人との関わりも含めての保存でなければ、いつか必ず忘れ去られる。多少の延命のために使われる労苦なら、もっとほかに使いようがあるのではないか。景観とか文化財とかいったものに限らず、伝統芸能のようなものにしてもそうだろう。保存の意味というものがしっかりと議論されているのだろうか。無理矢理保存しないと残らないようなものは、所詮はその程度のものでしかないということなのではないか。


手仕事の意味

2018年05月26日 | Weblog

国立民族学博物館友の会の体験セミナーに参加する。今回のお題は藍染め。お邪魔したのは滋賀県野洲にある紺九という紺屋工房。この工房は宮内庁や文化庁の仕事を請け負っている。どのような仕事なのかということを個別具体的に開示すると発注側から御叱りが下るそうだ。文化財の保護修復という仕事の現場をどのような人々が担っているかというのは興味のあるところだが、自分が具体的に知っているのはここと木工芸の大坂弘道さんだけだ。ここもそうと知らなければ通り過ぎてしまうような規模の工房だし、大坂さんは練馬のマンションの一室で仕事をしているらしい。「文化財」という言葉の響きとは対照的に地味なスケール感だ。しかし、考えてみれば、どれほど規模の大きなものであろうと、ひとつひとつの作業は人間の手仕事である。「文化」とはそういうものだと思う。

なぜ大事なことは手仕事でないといけないのか。「大事」の表現は一回こっきりということなのである。今この瞬間の自分が持てるものの全てを尽くしてあなただけに捧げます、というのが「大事」なのだと思うのである。そこに規模が関係することもないわけではないだろうが、自分の手をかけること、それが全てであると思うのである。つまり、それは「文化財」という大袈裟なものに限ったことではなく、我々の日常にある多くのことにあてはめられるのではないだろうか。

価値というものの表現として、当然のように貨幣価値による表示がなされる。物事を数字という明瞭な記号に集約して遣り取りをしたり比較をしたりするのは便利なことであるには違いない。しかし、神羅万象あらゆるものの値打ちが貨幣価値で表現できてしまうというのは幻想だと思う。「金で買えないものはない」という。それは「金で買えない」ものを知らないというだけのことだろう。金というものを否定するつもりは全くない。ただ、それがどういう謂われでどう評価された結果なのかということへの思いが至らないままに、表面の数字の多寡だけを眺めているというのは、なんだか滑稽な気がする。多いか少ないか、在るか無いか、それがなんだというのだろう。

自分の身の丈というものがあって、それが及ぶ範囲というものへの認識があって、どういうものに目が届き、その先を推し量るのにどういう経験や知見を用いることができるかを考えることができ、自分にとっての「世界」をしっかりと空想できる状態で生きることが安心であるように思う。自分が実際に身体を動かし自分以外の人と関係し、作用反作用を体感することの蓄積から得られる知見体験の総体だと思うのである。「手仕事」というのは、そういう自分の「世界」を築く取っ掛かりだと思う。「仕事」というと賃金を得るものと思われてしまうが、賃金は得るものの一部で、作用反作用の体験の総体が「仕事」というものだ。つまり、日常を実感を伴って生きることが人間にとっての仕事だと思うのである。だから、ちゃんと仕事ができていれば生きるのに困らないのである。


平等幻想

2018年05月04日 | Weblog

5月の連休は日帰りではあるけれど普段の週末では出かけにくい程度の距離の場所に出かけるのが恒例になっている。4年前は遠山記念館、3年前は鎌倉、2年前は益子、昨年は成田山新勝寺、という具合である。今日は鹿島神宮と香取神宮に参詣した。

まずは鹿島神宮へ。東京駅から高速バスに乗る。ほぼ満席。お参りの人が大勢いるものだと思ったが、バスが高速を降りて停車する度に数名ずつ客が下車し、鹿島神宮へ着く頃には車内はガラガラだった。東京駅を起点にして公共交通機関を利用すると、鹿島神宮までの所要時間は高速バスが最も短い。潮来で高速を降りてから数か所の停留所を経ても約2時間だ。鉄道だと、接続次第だが、それより30分程度余計にかかる。鉄道の問題点は成田以遠のダイヤだ。とにかく本数が極端に少ない。

神社には「神社」「神宮」「宮」「大社」「社」などの呼称の別がある。鹿島と香取はいずれも「神宮」だ。『日本書紀』で「神宮」の記載があるのは伊勢、石上、出雲(現:出雲大社)の三社、その後に成立した『延喜式神名帳』では伊勢、鹿島、香取の三社のみだそうだ。明治に入り神社神道が国家宗教となり神社が国家の管理下になって神仏分離をはじめとした神社の整理再編が行われたときに、天皇・皇室の祖先神や大和平定に功績があるとされた特定の神を祭神とする神社のなかで勅許を受けたところが「神宮」となった。

皇室祖先神を祭神とする
伊勢神宮(三重県伊勢市)
霧島神宮(鹿児島県霧島市)
鹿児島神宮(鹿児島県霧島市)
鵜戸神宮(宮崎県日南市)

天皇を祭神とする
橿原神宮(奈良県橿原市)
宮崎神宮(宮崎県宮崎市)
氣比神宮(福井県敦賀市)
宇佐神宮(大分県宇佐市)
近江神宮(滋賀県大津市)
白峯神宮(京都府京都市)
平安神宮(京都府京都市)
赤間神宮(山口県下関市)
水無瀬神宮(大阪府三島郡島本町)
吉野神宮(奈良県吉野郡吉野町)
明治神宮(東京都渋谷区)

その他の祭神あるいは御神体
熱田神宮(愛知県名古屋市)
石上神宮(奈良県天理市)
國懸神宮(和歌山県和歌山市)
日前神宮(和歌山県和歌山市)
鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)
香取神宮(千葉県香取市)

ほかにかつて日本領であった台湾と朝鮮に台湾神宮、朝鮮神宮があり、日本の実質支配下であった旅順に関東神宮が存在した。戦後、国家管理は廃止されたが、神社本庁においては「神宮」を公式社号とするには所定の由緒を持つものに限られている。神社本庁所属の神社で「神宮」に改称したのが北海道神宮(旧:札幌神社、1964年改称)、伊弉諾神宮(旧:伊弉諾神社、1954年)、英彦山神宮(旧:英彦山神社、1975年)の三社だ。

「神宮」のほかに神社の地位を示すものがあるか、ということだが、結局のところ、格付けとか序列というものは支配する側の指揮命令系統、統治体制と密接に関わる。ここに日本という国家体制の成熟度合と神社の社格が関連してくると見てよいだろう。日本の国家としての体裁が整うのがいつかということについては議論が定まっていないが、聖徳太子が活躍するのが6世紀末から7世紀にかけて、大化の改新が645年、大宝律令の制定が701年といったあたりが学校教育の歴史の教科書に記載されている。『古事記』の編纂が712年、『日本書紀』が720年で、そこには伊勢神宮の記述がある。さらに下って平安時代、延喜年間に律令の施行細則にあたる『延喜式』が編纂される。これは50巻で構成されるが、そのなかの9巻から10巻に「神名帳」があり、政府が運営に関与する官社2,861社が国郡別に列挙されているのだそうだ。ここに入ってる神社が「式内社」と呼ばれ、そのなかでも重要なもの224社が「明神大社」とされる。当初、政府は全国の官社を一元管理しようとしたようだが機能せず、近畿と地方との二系統での管理を目指す。やがて、国家的大事に際し朝廷の奉幣に与る神社が徐々に固定化され、11世紀後半には近畿中心に22社で落ち着く。それは「神宮」であるかないか、また「式内社」とは別の格式だ。

上七社
太神宮(伊勢神宮)
石清水(石清水八幡宮)
賀茂(賀茂別雷神社(上賀茂神社)、賀茂御祖神社(下鴨神社))
松尾(松尾大社)
平埜(平野神社)
稲荷(伏見稲荷大社)
春日(春日大社)

中七社
大原野(大原野神社)
大神(大神神社)
石上(石上神社)
大和(大和神社)
廣瀬(廣瀬大社)
龍田(龍田大社)
住吉(住吉大社)

下八社
日吉(日吉大社)
梅宮(梅宮大社)
吉田(吉田神社)
祇園(八坂神社)
北野(北野天満宮)
丹生(丹生川上神社、丹生川上神社上社、丹生川上神社下社)
貴布禰(貴船神社)

地方においては各地の国司が重視した神社として「一の宮」の格付けを得ていく。「二の宮」「三の宮」というものもあるが、これは国司が担当領域内の神社を巡回する際の順番を表す。これには朝廷からの指定のようなものはなかったので、「一の宮」とされる神社は状況に応じて代わることもある。同じ域内に「一の宮」と称する神社が複数存在することがあるのはこのためである。例えば武蔵一の宮といえば埼玉県さいたま市にある氷川神社を指すことが多いが、ここはもともとは三の宮で、一の宮は東京都多摩市、京王線の聖蹟桜ヶ丘駅の近くにある小野神社だった。

それで鹿島神宮と香取神宮だが、鹿島は常陸一の宮で香取は下総一の宮だ。ここで鹿島や香取の格がどうこう言うつもりはない。そうではなく、神様の世界に社会構造的な格差を持ち込む人間の矮小さに改めて驚くのである。構造を決める尺度は、たまたま支配する側に回ったほうに都合の良いように設定される。そこに付き合う義理などなくても、世間がそれを云々すれば気になるのが人情だ。「聖と俗」などという区分は方便で、時と場合に応じて時の権力に都合の良いように解釈され使いまわされるのは誰しも知るところである。結局のところ、人は経験を超えて発想できないのである。神様の世界が人間社会と変わらないのは、それを空想する主体が人間だからだ。

それにしても、休日に行楽として神社仏閣に参詣するというのもすごいことだと思う。もちろん心に思うことがあって、祈りのため、信心のためにお参りする人はいるだろうが、そういう切羽詰まった感の溢れた人というのはあまり見かけない。楽しそうな様子の人々が多く、心地よい雰囲気なのである。参詣する人の思いはそれぞれだろうが、神仏を拝むということは、目先の損得、表層の善悪、といったものを超えて社会の原理原則的なものがあると暗黙裡に信じているということだろう。そいうものがあることが社会の安定をもたらすのではないか。倫理観と損得勘定とがバランスよく共存するところに社会の安定が成り立ち、社会の安定があってこそ信用創造が円滑に行われ、富の創造と蓄積が進む、ということではないか。そんなことも漠然と思うのである。

ところで、鹿島と香取にはそれぞれに「要石」というものがあり、地震を治めていることになっている。その鹿島の鳥居が2011年3月11日の地震で倒壊した。1968年に竣工した御影石製で、花崗岩の鳥居としては日本一の規模を誇るものだった。再建された鳥居は境内の杉で作られている。この際、日本一とか花崗岩とか言ってはいられない。地震を治める神社の鳥居がいつまでも地震で倒壊したままというのはいかがなものか、と一刻も早い再建を優先した結果の決断だろう。