L.S.ポントリャーギン(著)、坂本實(訳)『やさしい微積分』ちくま学芸文庫
旧ソ連で高校生向けに書かれたものだそうだ。全くわからなかったし、そもそも理解しようとする意欲が湧かない。自分も高校時代に微積は当然に履修しているはずだが、この本を読んでおけば、とも思わなかった。ポントリャーギンは全盲だ。微積といえばグラフがつきもので、その概念をグラフでイメージしながら理解したり他のことに応用したりするものだろう。目が見えなくて、どのように理解したりイメージしたりする
のだろうと素朴に疑問と興味があって手にした本だ。なにかと言うと「人は経験を超えて発想できない」とこのブログに書いているが、「経験」とはなんだろうかと考え込んでしまった。五感が達者であっても理解力がなければ宝の持ち腐れであることぐらいは容易に了解できるのだが、そこから先がどうにもならない。見ていても見えない、聞いていても聞こえていない、味わっていても味がわかっていない、そんなことだらけのような気がする。
訳者あとがきのなかで紹介されているポントリャーギンの言葉がよかった。「本は入念に書けば書くほど薄くなり、それだけ書くための労力が大きくなる。おおざっぱに言って、著者が綿密さを2倍にすれば、本の厚さは半分になる。つまり2倍の労力に対して、支払いは半分になる。したがって、著者への支払いは、なされた仕事の2乗に反比例する」実のある仕事をする人は決して金に恵まれないとも読める。もっと言えば、金持ちというのは、、、ということだ。それは即座に納得できた。
中尾佐助『料理の起源』吉川弘文館
このところ落穂拾いのように、家のなかに読まずに放置されていた本を読んでいる。本書は昨年読んだ納豆本の流れのなかで購入したものであり、今年1月に読んだ『栽培植物と農耕の起源』の続編にあたるものだ。納豆本、特に高野秀行の『謎のアジア納豆』は面白かった。その面白さの理由は著者の経験に基づいているところにあると思う。聞きかじったことを思い込みで敷衍させる昨今よく見られる言説ではなく、実地に現物と対面した経験に基づいた言葉の力強さに値打ちがある。そういう点で本書には頼りなさを感じないわけにはいかないのである。
学者の文章なので、論の展開はたぶん一定のプロトコルに従っているのだろうし、その広がりには素朴に面白さを感じる。しかし、読んでいて、眉唾っぽさが見え隠れするのである。掴みはよい。自身が満州国軍の一員として飯盒の飯を食う経験から本書は始まる。飯の炊き方が日本人と漢人とで違い、しかも互いに自分たちの炊き方のほうが良いと思っているというところから「米の料理」の章が始まる導入の妙だ。最終章「果物と蔬菜」も著者の経験で終わる。終戦の年を中国山西省南部の黄河沿岸の県城の守備をしている日本軍の二等兵として迎えたというのだ。城門衛兵として出入りの中国人の荷物検査をするのが仕事で、中国農民の持ち物に少量の野菜が入っていることが多かったことから、中国の蔬菜について推測を巡らすのである。満州国軍にいたのは昭和18年なので、この間約2年。もちろん、その2年間での経験や研究をまとめたわけではなく、料理の起源についての研究成果を展開するのに、米から始まって果物・蔬菜で終わるその前後を自身の経験や研究でまとめてある。
研究といっても、本書は一般書なので小難しいことが書いてあるわけではない。どちらかといえばエッセーに近い。それにしても内容がいい加減すぎやしないのかと思うのである。日本という国民国家の領域に限っても食材の扱いの地域差は、食の産業化が進行した現代においてすら、かなりなものだろう。世界史上、国民国家が当然のように成立するのは19世紀以降のことだ。未だに定規で引いたような国境線が珍しくなく、国内に複数の民族が同居しているほうが当たり前だろう。それを「インドの」「中国の」「アフリカの」などとあたかもそれが文化単位であるかの如くに語ること自体に胡散臭さを覚えるのである。話としては面白くても、それだけのことのだ。『栽培植物と農耕の起源』でやめておけばよかったのに、蛇足のような本を出してしまったように思う。
山崎努『柔らかな犀の角』文春文庫
週刊文春に掲載された書評をまとめたもの。米原万里の『打ちのめされるようなすごい本』もそうだったのだが、面白い書評は罪作りだ。そこで触れられている本を読んでみたくなってしまう。新本で買い揃える余裕がないので中古で買おうとすると送料無料になるように余計な本もつい買ってしまう。読まずに積みあがる本が増え、ただでさえ狭い家の中が片付かなくなり、生活がだらしなくなる。いけないことだ。
こんな読書月記など書いているが、別に本を読むことにそれほど興味があるわけではない。たまに面白いと思う、それだけのことだ。ただ、その「面白い」が生活には必要不可欠だと思うのである。もういつ死んでも不思議のない年齢になったが、「面白い」ことは思いのほか少なかった。だから、たまに「面白い」と思うことがあると、素朴に嬉しくなったり楽しくなったりして我ながら馬鹿馬鹿しい。
米原のほうでは自分が読んだことのある本がなかったが、こちらのほうでは梅棹忠夫、山田風太郎、熊谷守一といった私の好きな人々が登場して、妙に親近感が湧いた。