熊本熊的日常

日常生活についての雑記

株主総会

2014年06月27日 | Weblog

或る人の代理で株主総会に出席した。株主総会というものに株主の側で参加するのは今回が初めてだ。たいへん面白い経験だった。会社側からの説明は特にどうということはないが、質疑応答は株式会社というものが公器であるということがよくわかるものだった。今回出席した企業の事業が公共性の高いものであるという事情はあるにせよ、広く社会から資本を募り、大勢の従業員を雇用し、多くの顧客や取引先を抱えるというのは、程度の差こそあれどの会社組織も同じことである。企業という形態の会社組織であれば利潤追求という根本的な存在目的がある。目指すところは同じでもそこに至る方法や過程については関係者がそれぞれの立場から利害を持ち、それらが対立することもある。関係者の数が増えるほど利害の種類も増え、それらの間で対立が生じる可能性も高くなるのは自然なことだ。株主というのはそうした関係者の一部でしかないのだが、企業規模が大きくなればそれだけ大きな数になる。ちなみに今回出席した会社には株主68,441名、議決権1,244,164個がある。このうち今日の総会で議決権行使をしたのは、郵送やネットによるものや委任を含めて株主21,927名、議決権903,380個とのことだった。このうち会場に足を運んだ人がどれほどなのか知らないが、会場の総座席数は2,150である。最前列に座っていたので、座席がどれほど埋まっていたのかわからない。

質問者は13名。質問順にまとめると以下のようになる。

質問者1. (T線沿線住民 最寄り駅:H)
Q: T線が東京メトロとの相互乗り入れを始めて以降、東京メトロ旧型車両の騒音に悩まされている。原因としては車輪の削り精度が低いことにあるようだが、対策をどのように考えるのか?
A(担当副社長): 再調査の上、適宜メンテナンスを行う。

Q: H駅に「K大学最寄駅」という案内が付くようになり、学生の乗降も増えたが、駅施設の対応がなされていない。
A(同上): 駅は老朽化していることもあり、改良工事を検討しているが、用地の制約等があるため時間がかかる。 

質問者2.
Q: 246号線のバス・自転車共用レーンが狭く危険だ。国土交通省、警察など関係各所に対し事業者として意見して欲しい。また、そうした安全を考えることで、沿線の価値向上につながるはずだ。
A(担当常務): 既に誘導員を配置して安全に務めている。交通体系の最適化へ向け提言・提案は行っている。 

質問者3.
Q: D線の混雑緩和が進まないままF駅周辺の開発が進むことへの対応をどのように考えるのか?
A(担当副社長): D線の地下部分の混雑緩和としてS駅の拡張が考えられるが、現状では無理。そうなると、まだ余力のあるO線をどのように活用するかという考え方になる。M駅まで延伸したときには緩和効果が認められた。今後はさらにT駅までの延伸を考えていきたい。また、ピーク時間の分散キャンペーンなども引き続き行っていきたい。  

質問者4.(「安心して利用できるS駅を考える会」代表)
Q: 事業報告のなかでバリアフリーの進展ということがあったが、駅単位ではエレベーターなどの設置があっても、動線としてはまだ対策が不十分だ。「考える会」としては4月に会社と交渉を行い、調査が開始された。調査で終らせることなく、施策を実行して欲しい。
A(担当副社長): S駅は道路の直下にあるという制約がある。6月から9月まで行う流動調査に基づき、工務部が対応する。

Q: 取締役が男性ばかりだが、女性役員はいつ実現するのか?
A(社長): 女性総合職の採用を始めたのが昭和63年からなので、規定の勤務年限に達している者がまだいない。管理職には既に女性がおり、関連会社には取締役や執行役がいる。 

質問者5.(「画家」)
Q: Tストアはたるんでいる。アタシの言うことをきかず、売上向上に務めない。もっとアタシの話を聞きなさい。
A(社長): 貴重なご意見として承る。 

質問者6.
Q: 株主総会の日程が集中しているが、株主に対する情報発信として集中日を避けるほうがよいのではないか? また、現業現場見学といったものも開催して欲しい。
A(社長): 法律上、決算から3ヶ月以内に総会を開くことが義務づけられており、そのなかで決算から最短で開催となるとどうしてもこのような日程になる。現場見学は既に実施している。 

Q: 2月の事故の財務へのインパクトは?保険でカバーされるのか?
A(担当専務): 事故の損害は包括保険でカバーされる。グループ全体の保険を効率的にかけており、今回の事故による料率の上昇は限定的。 

質問者7.
Q: 駅構内にある2月の事故車両をどうするのか?
A(担当副社長): 事故原因の調査中なので現時点では動かすことができない。自社車両は今後どうするか検討中。Y社車両は陸送でY社施設へ輸送する。

質問者8.
Q: F駅東地区開発の社会貢献が低過ぎるのではないか?50平方メートルの区施設しか公共施設が入居しないと聞いている。
A(担当常務):  当該区画だけではなく開発全体で見ていただきたい。一期開発区画には保育施設、公営診療所、区役所分室が入居している。二期分についても、屋上緑化や防災公園の整備などを実施している。

Q: F駅は利用客が多いにもかかわらず改札口が一つしかない。混在も問題だが非常時のことが心配だ。駅構内へのアクセスも遠回りになっている場所がある。
A(担当副社長): 安全対策は地元警察や消防と共に防災訓練を実施しており、非常時の対応準備は行っている。アクセスの件は検討する。 

質問者9.
A: ベトナム事業のリスク管理は大丈夫なのか?
Q(担当常務): リスクについては通常の事業リスクに加えて相手国特有のリスクがあることは認識している。相手国政府100%出資の企業と合弁で事業を行っており、政治リスクについては相対的に低いと考えている。万が一損失が発生しても剰余金の範囲内で対応できる事業規模である。 

質問者10.(J駅利用)
Q: S駅のホームが狭く混雑時には人の流れが止まってしまう。どうしてこんなことになっているのか?自分の近所の人たちのなかには都心に出るのにS駅を利用せずに、O線でO駅へ出てJRを利用している人もいる。自分もS駅は使いたくない。
A(担当副社長): 道路直下の敷地を使っているので、現状でギリギリのサイズ。 

質問者11.
Q: 今回の総会の質問を聞いているとCSR関連のことが多いので、CSRだけの会を設けたらどうか?
A: (直接回答なし)

Q: 自分が利用している駅では通行秩序が確立されておらず、構内の移動に苦労する。なんとかして欲しい。
A(社長): 調査の上、対応する。

Q: 沼津Tホテルでは何故、株主優待券が使えないのか?
A(社長): 諸般の事情で現在は当社との関係がなくなったため。ご不便をおかけして申し訳ない。 

質問者12.
Q: 当社の取締役が同業他社の取締役になり、その会社の取締役が当社の取締役になっているのは問題ではないか?今後どうするつもりか?
A(社長):  情報共有による事業運営上のメリットがある。今後はわからない。

質問者13.
Q: 女性取締役がいない。様々な属性の人が取締役となるボードダイバーシティによってイノベーションが生まれるのではないか?
A(社長): 多様な人材登用については今後対応していきたい。

 

株主になる、ということはその企業に投資をするということだ。投資というのは果実を得ることを目的とした行為である。株主の利益は企業が利益をあげることで、その適正な配分を享受することであるはずだ。つまり、株主は企業に儲けて欲しい、はずなのである。そういう視点からの意見や質問は画家の清水さんくらいではないか。質問の仕方やものの言い方にエキセントリックなものを感じないわけではなかったが、発言の内容は株主として真っ当なものだと思う。自分の生活圏内に自分が株主となっている会社が経営している小売店があり、そこの売上を増やそうとあれこれ提案しているのに、店長が自分の意見に聞く耳をもたないのはけしからん、というのは尤もなことだ。それ以外の質問や意見の多くはコストを発生させるだけで、その対価は自分の不便解消でしかないようなことが多い。混雑緩和を求めるのは利用者の立場からすれば当然のことだが、株主の立場からすれば混雑は喜ぶべきことである。設備稼働率が高水準を維持するということは、それだけ利益率が高くなり配当が増えたり株価が上昇したりすることにつながる。利便性改善についての質問や意見も目立つが、利便性が改善すれば利用率が高くなるので混雑の度は増す。利便性は高くして混雑は嫌だというのは単純に駄々をこねているだけだ。利便性を高めて混雑を緩和して利益は上げる、というのを考えるのが経営の仕事なのかもしれないが、理屈で考えれば無理である。物事の全体を観ることなしに局面だけを取り上げて相手を糾弾するというのは、どういうことなのだろうか。株主なのだから立場としては利益を上げて欲しいということなのだろう。それは言わずとも当然なので、敢えて利用者としての不満を表明しているということなのかもしれないが、株主の集まりというのは本来的にはその企業の応援集会のようなものであるはずなのではないか。総じて意味不明なことの多い世の中だが、この総会に参加した人がどうこうということではなく、人間というのはそういうものなのだろう。これは選挙や政治についても言えることであり、つまりは社会全体の在り方についても言えることだ。今日はそういう勉強になった。


殿様商売

2014年06月26日 | Weblog

金策に窮して塩漬けの外貨定期を解約することにした。ネットで満期の扱いを自動継続から自動解約に変更しようとしたところ、エラーになった。満期金を移す先となる外貨普通預金の口座が無いというのである。ネット上でも既存の口座に追加して新たに外貨普通預金を設定できるが書類の遣り取りが必要になるので、口座のある銀行の支店に出向くことにした。そもそも定期口座だけが開設されて、その満期金を受け容れるはずの普通預金口座が開設されていないというのが、気が利かないというか、間抜けなのだが、今更そんなことを言ってもはじまらない。

その銀行は所謂「メガバンク」のひとつだ。その総合口座を開設した頃は関西に本店のある銀行の東京営業部だったが、合併を繰り返した結果、今では東京に本店のある銀行の新丸の内支店になった。昼休み時に訪れたのがまずかったのだろうが、案内係に用件を伝えて番号札を渡された。待つこと30分。新規の口座ではない。既存の口座に外貨普通を追加するだけのことだ。その応対に30分。ようやく開設が終わり、私は自分の職場に戻った。午後2時過ぎ、その応対をした行員から電話が来た。渡すはずの書類を渡し忘れ、もらうはずの署名をもらい忘れたので、その支店まで来いという。銀行側の落ち度で書類の受け渡しが追加で発生したのに客を呼びつけるのである。私のほうも自分の仕事があるので、銀行の営業時間中には行けないと伝えると、午後3時過ぎでもATMコーナーから電話で呼び出せという。結局、午後3時半過ぎに銀行に出頭し、ATMコーナーで担当者に電話をかけた。その担当が席を外しているので、後で電話をするから待てという。さすがにカチンと来たが、腹を立てても事はなるようにしかならないので、今その支店のATMコーナーにいると伝えて、とりあえず店内に入れてもらった。応接に通されたのはよいが、勧められた席は末席だ。ほどなく現れた行員はサンダル履きだ。ただ書類を受け渡すだけではあるが、応接室で客の対応をするのにサンダル履きはないだろう。驚いた。手土産にタオル地のハンカチとキッチンペーパーを渡され、書類を持ってその支店を後にした。ガキの使いとはこういうことを言うのだろう。

民間企業とはいいながら公共性の高い商売というのは、利用者にとってみれば選択の余地が限られる。いわば独占状態だ。独占なのだから楽な商売のようだが、経営がおかしくなって合併を繰り返してきたのは事実だ。商売ができないからそういうことになるのだろう。商売というのは相手のある行為だ。過去の遺産と合併で図体だけは大きいが、客を客とも思わぬ文化が醸成された組織がこのままというわけにはいくまい。店舗があって一見したところ営業活動が行われているようだが、実体としては客に対して門戸が閉ざされている。こんなことでは早晩、さらなる合併という事態になるのだろう。


天の声

2014年06月16日 | Weblog

とかく日本人は、西洋人が感心すると、はじめて鵜呑みに感心するくせがある。この扉ができあがったときには、会社側からはだれ一人お礼をいうものはなかった。技師長のごときは、後で会社へ契約以上の金額を請求しないかと思ってびくびくしていたが、外人客から写真まで所望されて始めて、面目をほどこしたといって、会社側では数ヶ月後に驚くようなお礼をいい出した。もちろん、私はお礼を聞きたさに始めたのでなくて、西洋人に認識させるとともに、近代生活に漆芸の分野を新しく開拓しようと努力したに過ぎなかった。そのために、言いたいことも我慢し、怒りたいところも怒らずにやっただけであった。(松田権六『うるしの話』岩波文庫 276頁) 

外国のもの、外国人の言葉を無闇にありがたがるのは今に始まったことではないのは、自分も日本人なので重々承知しているのだが、松田権六が日本郵船の客船の船室の扉に装飾を施すのに、ずいぶん苦心苦労したことに驚いてしまう。人は経験を超えて発想できないのだから、己の評価基準を確立できていないことについては判断を避けたがるのは国や文化を超えて人間の普遍的性向かもしれない。ここに引用したのは、松田が日本郵船が欧州航路に投入する照国丸と姉妹船の靖国丸に漆芸装飾を施すことになったいきさつを記した部分の一部である。松田はこの引用にもあるように、漆芸家として日本の漆芸の素晴らしさを世界に向かって訴えようと外国航路の船に漆芸装飾を売り込んだ。日本郵船側の窓口となったのは技師長だが、始めは相手にされなかったらしい。それでも粘り強く、伝を頼って社長にまで談判し、ようやく採用が決まったそうだ。その結果、欧州ではその漆芸が評判となったばかりではなく、ペンキによる塗装と違って航海中の損傷が無いという実務面での利点も発揮されたというのである。その後、松田に対する郵船側の対応がどうなったか想像に難くない。

日本の伝統工芸を観れば、その感性や仕事の緻密さとか工夫に世界に誇れるようなところがいくらもあるのだが、国全体として見れば、権威に従順で丸ごと軍隊のような観がないでもない。高度経済成長の時代に日本は世界から「Japan Inc.」だとか「Economic Animal」、「workaholics living in rabbit hutches」などと呼ばれていたが、そういう形容が広まることに根も葉もないはずはないだろう。昨今、近隣の国々から我々の「歴史認識」を問う声が喧伝されているが、根は同じところにあるような気がする。自分というものの在り方を想定するときの座標軸の取り方が、日和見に過ぎるのではないだろうか。自分が所属する集団と自己との関係にどれほどの必然と偶然を認めるか、というときに必然に縋りたがる傾向が強い気がする。集合の属性とそれを構成する個々の要素の属性は必ずしも一致しないというのは集合論の基本だが、その基本を知ってか知らずか無視するかのような態度に走るのがこの国の姿に見える。

郵船の技師長が松田に対して懐疑的であったのは、彼が漆芸に対して松田の言葉を理解するに足る知識を持ち合わせていなかったということももちろんあるだろうが、それ以前に彼が当たり前の組織人、日本人であったということなのだろう。卑屈なまでに権威に従順で、自ら物事を考えようとはしない。回遊魚の群のように先行するものに付き従うことを得意とする。 たまたま、今年の1月に国立近代美術館で工芸家の公開鼎談を聴く機会があった。そこに出席していた竹工芸家で人間国宝の藤沼昇も、自分の作品がたまたま米国人のコレクターの眼にとまってから生活が変わったというような発言をしていた。昨日のブログに書いた「自分の感受性」というものへの意識が社会として少し弱いのかもしれない。いろいろ言われながらも世界のなかでは恵まれたほうの生活を送っているのだから殊更に卑下することもないのだろうが、自分の置かれている状況とか自分やその所属集団の性質というようなものは、やはりしっかりと考えながら生きていかないといけないとは思う。


感受性

2014年06月15日 | Weblog

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

(茨木のり子「自分の感受性くらい」『茨木のり子全詩集』花神社 167−168頁) 

自分に対して向けられているようで、読んでしょぼんとしてしまう。詩集など手にすることは滅多にないのだが、家にあるかず少ない詩集の一冊がこの『茨木のり子全詩集』である。なにかで茨木のり子という詩人のことを知って岩波ジュニア新書の『詩のこころを読む』を読んで、それが大変気に入ったので『全詩集』を買い求めたと記憶している。このブログを読めば一目瞭然だが、私はおよそ文学というものには無縁の人間で、言葉というものを深く考えるなどということを考えようともしない。それでもこの新書も詩集も深く心に響くものを感じ、手元に置いてある。

人は経験を超えて発想することはできないし、人は生まれることを選択できないので、その人なりのことしかできないものだと思う。ただ、生まれた環境を構成する要素は無数にあるので、そのなかでどのような人間として生きるのかということは、結局は本人がどれほど意識して己の生を営むかという自分自身のことに帰着する。そう思えば茨木のり子の詩の偉大さというものを感じないわけにはいかない。

今日、世田谷文学館に「茨木のり子展」を観にでかけてきた。詩人が暮らした東伏見の家の様子とか愛用の調度品といったものを眺めているだけで、あれこれ空想が湧いて楽しかった。もちろん自筆の原稿や私信の類はその人の素の一端とか何事かが生まれてくる過程を垣間見る思いがして興味深かった。よく使っていたという陶器の小皿と碗が展示されていた。三島手の朝鮮風の器で、50歳からハングルを習い始めたということや、「昔から心惹かれる仏像は何故か朝鮮半島由来のもの」という趣味嗜好にかなったものだ。ここに展示されているものは詩人の生活の一端を示すに過ぎないが、自分の感受性をしっかり守って生きていた人であることを感じさせるものばかりだった。

 


粛々と

2014年06月13日 | Weblog

今の住まいに越して来て1年と2週間ほどが過ぎた。家財道具はどちらかと言えば少ない方だと思っているのだが、いまだに片付かない。日常生活に困らない程度には片付いているのだが、困らないとなると先に進まないということもあって、片付かないのである。しかし、何も策を講じていないわけではなく、少しずつ身の回りの整理を進めている。先日は自分が作った陶器をゴミに出した。引越のとき、業者の人がひとつずつ丁寧に梱包してくれたものなのに、改めて見直してみて、持っていてもしょうがないと思ってしまったのである。昨日はDVDを少し処分したし、今日は古いパソコンを処分しようとデータの見直しをした。

今使っているパソコンを買ったときに当面必要なソフトやデータは移してあるので、古いほうに残っているのはどうでもよいものだが、そのなかにはこのブログの下書きもかなりある。今は下書きはせずに、直接ブラウザに書き込んでいるのだが、以前はワードで原稿を作ってからアップしていた。それがけっこうな量になっていて、つい読みふけってしまった。最初は観た映画や読んだ本についての雑感を書き散らかしたものだ。おそらく、映像翻訳の勉強を止めた頃にこのブログが始まっているので、その余韻で映画のことなどを書いていたのだと思う。映画や本以外のことが目立つようになったのは離婚してロンドンに渡ってからだ。一人暮らしになっていろいろな意味で余裕ができたことが大きいかもしれないが、やはり異文化の土地に暮らして刺激を受けたところもあるだろう。それにしても、これまでよく書き散らかしてきたものだと呆れてしまった。読んでいて面白いと思ったのは、自分のモノの感じ方や考え方の変化である。ここにアップしているのは2005年1月1日からなので、40代前半から今日に至るほぼ10年間だ。もう変わりようなどない年齢かと思っていたが、そうでもないようだ。こうして書いているときは、以前にも似たようなことを書いたような気がして「俺も相変わらずだなぁ」などと多少の自己嫌悪を感じないわけではないのだが、環境が時々刻々と変化するなかで自分もその影響は当然に受けているのである。たぶん本当に変わらなくなるのは死ぬときなのだろう。

ところで、今日は出勤途上で本を処分してきた。さすがに本の平均買取単価はDVDより一桁小さい。21冊で2,272円だった。


DVDを処分する

2014年06月12日 | Weblog

DVDを処分した。いままで不要になった本とかDVDなどはAmazonのマーケットプレイスで自分で売っていたのだが、ここ数年、相場が下がって送料を賄うほどの値段で売れなくなっていた。ふと、買取業者に持ち込んでみようと思い立ち、出勤途上に立ち寄ってみたのである。7枚持参して査定を待つこと10分弱。3,320円になった。

映像翻訳の勉強をしていた頃は映画館でもDVDやビデオでもよく映画を観たものだが、ここ数年、どういうわけか興味が失せていた。かつて映画を好んで観ていた頃の名残で多少のDVDが手元にあった。昨年秋に近所の大学の学生さんたちが学園祭のバザーに出品するものを集めにきたので、手持ちの半分ほどをそこに出した。今の住まいに引っ越して来て1年が経ったという節目でもあるので、今月に入ってから少しずつ身の回りの整理を始めて、残りのDVDをさらに吟味して今回7枚の処分となった。

結局、手元に残った映画のDVDは
『ローマの休日』
『がんばれ!ベアーズ』
『ペーパー・ムーン』
『Uボート』
『ラウンド・ミッドナイト』
『アマデウス』
『ハード・デイズ・ナイト』
『ヘルプ!』
『小三治』
『瞬間の記憶』
『時と時刻』
となった。この他に映画として製作されたのではないものがある。例えば落語、音楽、陶芸関係などのものである。たぶん、今回でDVDの処分は一段落だ。

 


古寺巡礼

2014年06月10日 | Weblog

和辻哲郎の『古寺巡礼』を読んだ。若い頃に読んだ時は、もっと面白いと思ったような気がする。なんとなく文章が青くて浮ついているように感じられる。これを読んで奈良の古寺を訪れたいとは思わない。この本を手に取ったきっかけは先日読んだ『木のいのち木のこころ』だ。西岡常一と小川三夫という宮大工の語る法隆寺は、日本人として当然に見ておかないと恥ずかしいのではないか、と思わせるような力を感じさせる。もう少し、奈良のことを書いた「名著」を読んでみようとおもって『古寺巡礼』を手にしたら、躓いてしまったのである。この違いはどこから来るのだろうか。

思うに書き手の経験に拠るのではないだろうか。耳学問も立派な学問だとは思うが、妄想や観念だけでは物事を理解できないだろう。経験として、持てる感覚を総動員して得たものがあってはじめて、そうしたものを基礎に妄想や観念の背景や全体像を類推し思い描くことができるのである。耳学問の域を出ない知識と、経験による裏付けのある知識とでは、理解の深さが違うので、そうしたものを誰かに伝えるときの伝わり方も自ずと違ったものになるはずだ。思想家だの哲学者だのと、物事の真理を追求していますというようなふりをしながら、国土を焦土に変えたあの戦争の前も後も体制の側に居続けた人間というものを素朴に信用できない。所詮その程度の人間の書いたものという先入観を抱いてしまうと、その言葉に対する拒絶反応をもたらしてしまうのかもしれない。


梅酒

2014年06月05日 | Weblog

初めて梅酒を作った。まだ出来ていないので、「仕込んだ」と言ったほうが正確だ。瓶のなかに梅と砂糖と酒を入れるだけのようだが、いざやってみると戸惑うことがいくらも出て来る。瓶は熱湯消毒をするらしいが、購入したソーダガラスの瓶は耐熱ではないので「熱湯を直接注がないでください」と書いてある。この瓶が丸ごと収まるような大きな鍋に水を張り、そのなかに入れて鍋を火にかけるのだという。そんな大きな鍋は持っていないので、除菌成分のある洗剤で洗うことくらいしかできない。

梅の下ごしらえが美味しい梅酒を作る鍵なのだそうだ。ひとつひとつヘタを丁寧に取るのだという。これは最初のひとつふたつこそ要領を得なかったが、竹串でほじるのではなしに、逆に少し押し込む感じにすると面白いようにきれいにヘタが取れる。

砂糖は氷砂糖か蜂蜜を使うらしいが、毎年、高知県の黒潮町というところから黒砂糖を20kgずつ調達しているので、その黒砂糖を使うことにする。この黒砂糖は塊なので、これを適当な大きさに割って使えば氷砂糖と似たようなものだろうと考えたのである。しかし、氷砂糖のように意図して塊にしたものではなく、サトウキビの汁を煮詰めた結果として塊のように固まったものなので、酒を入れるとすぐに溶け出した。これで大丈夫だろうかと不安になる。

酒はアルコール度数が20%以上のもの、という指定だったが、近所のスーパーに梅酒コーナーができていて必要な材料が一通り揃えてあった。砂糖で冒険をしているので、酒は無難に度数35のホワイトリカーにした。

とりあえず大きな問題がなければ、1ヶ月ほどで飲めるようにはなるらしい。さて、これで飲むに耐えるものができるのだろうか?


私は、遺伝子組み換え農産物に反対する

2014年06月02日 | Weblog

初めて通販で納豆を買った。以前にもこのブログに書いた記憶があるが、私は豆が好きで、殊に大豆が好きだ。納豆は毎日のように食べているが、身近で入手できないものを敢えて取り寄せるほど凝っているわけではない。たまたま妻に届いた『通販生活』に紹介されている納豆があって、その記事を読んで興味を覚えたのである。

『通販生活』に紹介されていても『通販生活』では買うことができない。いろいろこだわって作っているので製造業者に直接注文するか、その業者が出店している楽天のサイトへ注文することになっている。楽天のほうは出店手数料分が代金に上乗せされるので、業者に直接注文した。メールで発注したのが5月17日で、商品が到着したのが5月30日だった。いくつか食べてみて、納豆としては初めて経験する味だった。嬉しいのは大豆の味がしっかりとすること。たいがいの納豆は、「納豆」と原料の「大豆」とが味覚として直ぐには結びつかないのだが、ここの納豆は大豆の味が響いてくる。尤も、注文から商品到着まで2週間かかるとか、スーパーの安売り品の何倍もの価格をみれば、旨くて当たり前という気がしないでもない。

この納豆で驚くのは納豆そのものもさることながら、その包装だ。昔ながらの藁だとか紙だ、というようなことではない。包装紙の裏側に「私は、遺伝子組み換え農産物に反対する」という意見広告が掲載されているのである。それもよくあるような情緒的なものではなく、理詰めのしっかりしたものだ。書かれていることは至極もっともなことである。『通販生活』らしい商品である。

よく安全性の代名詞のように「日本製」とか「国産」という言葉を用いているものに出会う。いったいいつからそういうことになったのか知らないが、日本製であることが安心や安全の保証になる理由というのはわからない。ただの思い込みだろう。農産物に関して言えば、化学物質の投入量が世界の中でも群を抜いて多いのが日本の農産物であるというのは、農業に関心のある人なら誰でも知っていることだろう。このことは以前にこのブログに書いた記憶がある。TPPに加盟しようがしまいが、日本のように細切れの農地で生産性を上げようとすれば機械と薬に依存しないわけにはいかない、というのは自明のことと言える。その上さらに生産性を追求すればバイオの世界に入るのは当然のことだ。それは日本に限ったことではないが、機械も薬もタダではない。規模とコストと期待収量とのバランスのなかでそれぞれの地域の農業が営まれる。

一方で、心ある生産現場では安全への不安や疑問を当然に抱えることになる。出荷用と自家消費用とで農地を分けているというのはよく聞く話だし、危機感を持って無農薬や低農薬に取り組む農家の話もよく耳にする。今や「有機」だの「無農薬」といったことはブランドにもなっているかのような感がある。圧倒的大多数の消費者にとっては生産現場を確認することはできない。開示情報と価格が購買行動決定の主たる要因とならざるをえない。そうしたなかで、一次産品の生産者やその加工業者のなかには使命感すら持って扱う商品の説明をするところが出てくるのもおかしなことではない。

それにしても、「私は、遺伝子組み換え農産物に反対する」納豆というのは初めてだ。包装も中味も印象深い納豆だ。