熊本熊的日常

日常生活についての雑記

惹かれるということ

2011年08月31日 | Weblog
物事には精緻に極めることの美しさというものがある。寸分の狂いも無く構成されたものには、その技と精神に対する驚嘆と敬意、そうしたものがもたらす緊張感が生まれる。しかし、その緊張感は自分と対象物との間の越え難い断絶と捉えられる場合もあれば、対象物を神聖化する方向に作用することもある。一方、どこか緩和されたようなところを感じさせるものに対しては、親近感や安心感を覚える。緩さというのは、狙ってしまうとあざとさを感じて不愉快に思われてしまう危険があるので、精緻なものを作るよりも難しいという面もある。真面目にやっているのだけれど、何故か抜けてしまうというようなものが、もちろん程度の問題ではあるのだが、好ましく感じられる場合が多いように思う。

今日は千葉市美術館へ「浅川兄弟の心と眼 朝鮮時代の美」を観にでかけたのだが、ここに陳列されているような朝鮮陶磁には言いようの無い親しみや好感を覚える。中国の景徳鎮のような精緻な仕事にも畏敬の念を喚起させられるのだが、それとは対極にあるかのような朝鮮陶磁の緩さが、現実の生活が持つリズムとか波動のようなものとの相性の良さを感じる。何が好ましいとか、どこが良い、というのではなく、素朴に惹かれるのである。例えば、人を好きになるのに確たる理由が無いのに似ている。たまに「私のどこがいいの?」と聞きたがる奴がいるが、そういうのと上手くいった試しがない。言語化できないものを無理に言語化して、その上っ面だけをとやかく言われても困るのである。言語とは、或る対象からそれを表現するためによかれと思われる部分を切り取って提示する道具だと思う。切り取ったものから、切り取られたものの姿を推し量るのが「行間を読む」という作業であり、そこにコミュニケーションの本質があるのではないだろうか。切り取ったものを見て、なぜそれを切り取ったのか、その切り取り方が何を物語るのか、というようなことを考えることで、言葉の発し手の意図やその人となりにまで思い巡らすのが、人と人との付き合いというものだろう。言葉にできることというのは人が抱えるそれぞれの世界のごく一部でしかないから、どれほど長い付き合いの相手であっても、始終相手の言葉について吟味を繰り返さないことには、付き合いを維持できないのである。切り取った断片だけを見てわかったような気になる奴は、おそらく誰とも上手く付き合うことはできないだろうし、社会のなかで常に不平不満を抱き続けなければならないのだろう。

落語に「千両みかん」というのがある。夏の暑い最中に大店の若旦那がどうしてもみかんが食べたいという。食べたいという思いが高じて床に伏せてしまうのである。親が心配して番頭にみかんを探させる。みかん問屋でなんとか見つけたみかんが千両だった。息子の命は金に換えられないというので、大旦那はそのみかんを千両で買う。そのみかんには10房入っていて、若旦那は7房食べ、3房を両親と番頭に礼だと言って差し出す。大旦那夫妻の分も含めその3房を預かった番頭は、それが300両に見えてしまい、みかん3房を手に姿をくらましてしまう。

みかんだから聴衆の多くが「馬鹿な番頭だ」と笑うが、この番頭と似たような行動をしている人は案外多いのではないだろうか。この噺で「行間」にあたるのは、子供を思う親心であり、仕事や社会の関係性に対する誠心誠意あるいは秩序の尊重であり、ほかにもいろいろあるだろう。子供の命が救えるなら、と一個のみかんに千両を払うのであって、千両という金額自体に意味があるのではない。それを10房入りのみかんが一つ千両ということは1房が100両、という表層の現象が現実の全てであると認識してしまうことで妙なことになる。

それで朝鮮陶磁だが、その緩さが好きだということが言いたいのである。今日は出勤前に寄ったので、時間が1時間半ほどしか無く、思うように眺めていることができなかった。10月2日までの千葉での会期中に改めて訪れてみたいと思っている。

もひとつ

2011年08月30日 | Weblog
轆轤で挽いたふたつ目の壷が焼きあがった。形はひとつ目のほうが好きだが、技巧的にはこちらのほうがうまくできた。釉薬もいい。ひとつ目のほうは黄瀬戸だが、こちらは基本中の基本の透明釉。窯変を起こしており、なかなか姿のよい色艶になった。技法としては下絵、上絵、布目、象嵌、練り込み、化粧、掛け分け、など一通り習ったのだが、オーソドックスなものをただ掛けるというのが、今はとても気に入っている。

次回の個展についてのお尋ねをメールで頂いている。ありがたいことではあるのだが、現時点では在庫が無いので、いつになるかわからない。陶磁器の制作には時間がかかるので、週一回の教室ではどうすることもできない。できれば窯、少なくとも自由に使える作業場が欲しいと心底思う。手仕事というのは、毎日やってこそ技量も向上し、人様に喜んで頂けるようになるものだ。手仕事に限らず、仕事というのは他人のためにするものであり、それが巡りめぐって自分のところにも回ってくるものだと思っている。そういうつながりに面白さがあり、そういう面白さを感じる感性や知性が人と畜生の間を分けるのだと信じている。

食い納め

2011年08月28日 | Weblog
以前にも書いたかもしれないが、桃が好きだ。果物のなかで何が一番好きかと問われれば、迷わず「桃!白桃!」と即答する。夏の暑いのは苦手だが、秋の気配が濃厚になるにつれ、桃の季節の終わりが惜しくなる。今は既に白桃も晩成種の時期であり、それも終わろうとしている。普段利用している生協の宅配でも、前々回を最後に桃の発注を終えた。カタログにはまだ掲載されているのだが、余力を残して静かに終わる、というのが物事のあり方として美しいと思うのである。

今日は子供とブリヂストン美術館で青木繁展を観た後、オアゾの「つばめ」で「ハンブルグステーキ」を頂き、新丸のショコラティエ「Palet D’or」でホットチョコレートと季節のデザートを頂いた。この季節のデザートが桃づくしで、たいへん印象深いものだった。ベースが白桃をダイス状に切ったものを皿の中央に固めてピンクのシャンパンソースで囲んだもの。そこに丸いメレンゲを乗せ、その上に白桃の切り身、ホワイトチョコの板チョコ、ホワイトチョコのアイス、板状に固めた透明の飴と重ねて、最後に金箔を散らしてある。好きな桃は桃だけで頂きたいのだが、アイスも板チョコも桃と響き合っているので、これは良しとする。この冷たい桃のデザートとホットチョコがまた合う。今年は、これで桃の食い納めにすることに決めた。「静かに終わる」と言うには、見た目が少し派手な気がしないでもないのだが、とにかく桃はこれでおしまいだ。たぶん。

食事の後は、江戸城跡大手門から皇居東御苑へ入り、平川門へ抜けて、国立近代美術館へ行く。イケムラレイコ展と常設展を観て、工芸館へも足を伸ばす。工芸館では縞模様をテーマに陶磁器、着物、漆器、ガラスなどの作品が並ぶ。2007年9月にロンドンへ渡ったとき、大英博物館では「Crafting Beauty in Modern Japan」という企画展が開催されていた。そこで目にした記憶のある作品がいくつもあり、今頃になってあの企画展の作品の多くがここの所蔵品であったことを知った。子供はロンドンに一週間ほど遊びに行き、先週の日曜に帰国したところだ。大英博物館には行ったらしいが、滞在時間は1時間ほどだったという。訪れた場所を聞いてみれば、しょうもないところばかりだが、それでも楽しかったのだそうだ。私が連れて行けば、その1,000倍くらいは楽しいのではないかと思った。もちろん、思っただけで口にはしなかった。

7回目のベル

2011年08月27日 | Weblog
月に一度の茶道の稽古が、今月は普段とは違って今日第四土曜日になった。稽古の後、よみうりホールで落語教育委員会を聴く。この落語会では冒頭に出演者三名によるコントがある。開演の前に携帯を切っておくように、というメッセージをコントによって表現しようというのである。

落語教育委員会を聴くのはこれが2回目で、前回はにぎわい座だった。平日夜が仕事なので、落語会は週末か祝日のものしか聴きに行けない。それでも昨年は24回、一昨年は10回、落語会に足を運んでいる。さすがに昨年は多すぎたと感じているので今年は控えめにして、今日でまだ8回目だ。平日夜と土日とで、客層に違いがあるのかないのか知らないが、少なくとも携帯電話が口演中に鳴ったという光景に出くわしたのは、記憶している限りでは一回だけである。いろいろ言われている割に、客のマナーがどうこうというのを目にしたことはあまりない。あまりないから逆に、たまにそういうことがあると妙に記憶に残ってしまう。忘れもしないのは、草加での小三治の独演会で、よりによって口演、それもトリの途中で前のほうのセンターの席にいた30前後の夫婦らしい男女が席を立って会場を出て行ってしまったことだ。そのときの演目は「小言念仏」。例によってマクラが長かったことは確かだが、落語会の途中で席を立つというのには驚いた。口演に不満があったということではなく、何か予定があって、それに間に合うように、落語会のほうは途中で失礼する、というような様子に見えた。それにしても、失礼というか野暮というか、「そうか、草加とはそういう土地なのか」と思われても文句の言えない情景だ。あと、中野だったか練馬だったかで、ひとつの演目中で2回、しかもおそらく同一人物の携帯が鳴ったことがあった。こちらは三三の独演会だったと記憶しているが、その携帯の着信音をすっと噺のなかに取り込んでみせたのは流石だと感心した。この2年8ヶ月間の42回の落語会で、いかがなものかと感じる出来事が、記憶している限りで、その2回だけである。これは少ないと言えるのではないだろうか。

携帯については、事情があってどうしても電源を切るわけにはいかないという人もいるだろう。しかし、けっこう多いのではないかと想像されるのは、電源を切ることができない、という人の存在だ。携帯が鳴って、電話に出るまでの様子をそれとなく観察していると、妙に時間のかかる人が少なくない。高齢者に多いのだが、携帯が鳴ると、まず電話機をかばんなどから取り出すのにまごつく。取り出した後、なぜか電話を手に固まっている人が多い。ディスプレイに表示されている文字を読んでいる、というようなことなのだろうか。それから通話を開始するためにボタンを押すのにまごつく。それからようやく電話に出るのである。この間、当然ながら着信音はなりっぱなしである。そういう人に、マナーモードがどうこうとか、電源がどうこうというのは、そもそも無理なのではないだろうか。

かと思うと、着信を予知していたかの如く、すぐに電話をとる人もいる。茶道教室で総務的な用事を任されている人がいるのだが、彼女に出欠の連絡で電話をすると着信音が鳴らないのである。鳴っても1回だ。それくらい素早く反応して、しかも声が落ち着いている。慌てて出た、とうような雰囲気ではない。これには毎回感心する。年齢は私より少し下という程度だろう。ご主人は私と同い年だという。つまり、物心ついたときからそういうものに囲まれていたというようなことではないのである。「いつも電話取るの早いねぇ。」と、その理由を尋ねてみるのだが、本人は「たまたま」なのだという。

昔、宇多田ヒカルの「オートマチック」という曲を聴いたとき、出だしの歌詞にいきなり違和感を覚えた。
「7回目のベルで電話を取った君」
電話のベルを7回も鳴らすというのは、一体どのような状況なのだろうか、と思ったのである。新入社員の頃、かかってきた電話のベルが3回以上鳴ると隣の島の部長に怒鳴られた。「すぐに出ろ!」
電話でどうこうする仕事だったので、たいていは自分が電話中なのである。出たくても出られるものではない。隣の席の先輩社員が小さな声で「んなこと言ったって、出られるわけがねぇよな。」私はそういう世代なのである。後で聞いたところでは、この歌詞に出てくる「電話」は携帯電話のことなのだそうだ。それで「あ、なるほどね」と清々しい気分になったのを、昨日のことのように憶えている。

本日の演目
桂才紫 「宮戸川」
柳家喜多八 「付き馬」
(中入り)
柳家喬太郎 「お菊の皿」
三遊亭歌武蔵 「夏の医者」

会場:よみうりホール
開演: 18時すぎ
終演: 20時15分頃

Da vicino nessuno e nomale.

2011年08月25日 | Weblog
午前中、銀座のアップルストアでOne to Oneセッションを受講して外に出ると、なんとなく映画が観たくなった。近くのシネスイッチに行ってみると、ちょうど「人生、ここにあり!(原題:SI PUO FARE)」の上映が始まるところだったので、そのままチケットを買って中に入った。

この作品はイタリア映画で、本国では2008年公開だが、物語の舞台は1983年のミラノである。イタリアでは1978年に法改正があって、精神病院が閉鎖されることになったのだそうだ。精神病というのは患者を病院に隔離することによって対応するのではなく、一般社会のなかで生活を送りながら治療するものだとの考え方を国家として採用したということだ。

映画なのだから、役者が精神病患者を演じているわけで、スクリーン上の患者たちはどこか患者らしくないように見えるのは当然なのかもしれない。しかし、どのような状態が異常で、どうあることが正常なのかというところの線引きがそもそもできないというのも確かなことだろう。実際、身の回りのあの人この人を少しデフォルメすると、スクリーン上のあの人この人によく似ている、ように見えないこともない。私だって、他人から見れば病的な性向をいくつもあげつらうことができるのかもしれない。それが、病人として扱われるのか、そうではないのか、その境目というのは、その人が置かれた状況によるところが大きく、それはつまり単純に運とか縁なのではないかとも思うのである。

誰しも、自分はまともだと信じている。そこを土台にして物事を眺めるから、自分の間尺に合わないものは「異常」として自分の世界から排除することを図る。それが穏当なやりかたでおさまっている限りにおいては、特段に深刻な問題は起こらないのだが、相手や周囲に対して危害が及ぶようなことになると、その「異常」は社会から排除されるべく対応を受けることになる。その「危害」にしても、極端な場合ばかりではない。迷惑だが我慢できるかどうか微妙なところであれば、ある人にとっては「異常」でも別の人には「少し変」という程度にしか認識されないというようなこともある。むしろ、そうした境界上の事象のほうが圧倒的に多いだろう。そうした「微妙」が無数に組み合わされて「正常」を成しているのが現実というものではないだろうか。ということは、盤石な「正常」というものはあり得ないということになる。それは社会についても人間についても言えることで、だからこそ、社会には「こんなものが必要なのだろうか」と思えるようなことにまで事細かに法律や官僚組織が「微妙」を可能な限り言語化・明文化すべく張り巡らされているのであり、個人には他人から見れば奇妙奇怪なことも含めた習慣に依存する性向が刷り込まれている。個別には「お役所仕事」であったり「変な癖」であったりすることでも、それらの総合として捉えれば比較的安定した体系を成すようになっているということだろう。もっと言えば、「全体」が「部分」の相似形ではないのである。「部分」をいくら仔細に見たところで、他の「部分」との関係にまで検討がなされなければ、そこから安易に「全体」を論じることはできない。「部分」と「部分」との関係など無数にあるのだから、そもそも「部分」から「全体」、「全体」から「部分」という物事の理解の仕方はそれなりの危険を伴うということは認識しておくべきなのだろう。

この作品は実話をもとに作られており、映画は精神病院なき社会での精神病患者たちの現状についての説明文で終わる。映画のプログラムのなかで、それを引用している文章があったので、ここでも紹介させていただく。
「Oggi in Italia esistono oltre 2,500 cooperative sociali che dano lavoro a quasi 30,000 soci diversamente abili. (今、イタリアには2,500以上の協同組合があり、ほぼ30,000人及ぶ異なる能力を持つ組合員に働く場所を提供しています。)」

「能力」というとき、自ずとそこには優劣の概念が含まれてしまう。そして劣位にあるものは排除される脅威に曝される。集団から排除されたものは、少なくともその集団のなかでは居場所はない。どの集団からも排除されたものは、どこにも居場所がない。「能力」を優劣で計るのではなく、差異として見るならば、あるいは「異なる能力」として集団のなかで機能する場を得ることができるかもしれない。優から劣に至る直線的な尺度で物事を捉えるのではなしに、差異としてそれらを組み合わせるという観点の下では、同じ風景が違って見えるかもしれない。この作品のなかで、床板貼りの仕事中に材料となる板材が底をついてしまい補充が間に合わないという場面がある。一方で納期が迫っていて一刻の猶予もならない。そこで組合員のなかに「材料としての板」ではなく「板」に反応した者が、端材の板を集めて持ってきた。それをモザイクのように組み合わせて床は完成する。結果として、それが注文主から好評を得るのである。端材は「材料の規格」という意味では廃材である。しかし用いかたを工夫することで材料になる。この端材は協同組合で働く元患者たちでもある。

「適材適所」という言葉あるが、これは幻想ではないかと思われるほどに現実では容易に実現されないものだ。それが、この作品で取り上げられている「協同組合180」では実現されている。もちろん、実話に基づいているとはいえ、これは映像作品だ。現実をモチーフにしながら、そのある側面を誇大に表現するのはあたりまえのことではある。しかし、「適材」も「適所」も与件として存在するのではなく、そこに関与する人たちが意識的に創造するべきものなのだということは、もっと広く認識されてもよいと思う。

この協同組合が本当に組織として機能しているとするなら、その鍵になるのは物事を否定しないということだろう。特に、構成員であるひとりひとりの人間を、それがどれほど場違いであろうとも、頭から否定してはいけないということだ。「場違い」であるかどうかは、その場ではわからないのである。「場違い」という判断も「私」のものであって、それが他者と共有できる認識であるかどうかは、やはりその場ではわからない。映画のなかで会議の場面が何度かある。議事を進める主人公は、どのような意見に対してもポジティブな言葉を加えながら取り上げる。自分の言葉が取り上げられた人の表情は明るく変化する。そういうことの積み重ねが、組織や社会の連帯感につながっていくのだろう。

我々の日常では、ことあるごとに「効率」だの「無駄の排除」だのと語られるが、そこに「効率」や「無駄」の定義が検討された形跡が感じられないことが多い。無闇に切って捨てることが「効率化」だと信じている人が多いようだが、それぞれの部分での「効率」を追求すれば、自動的に全体の最適が実現すると何の考慮もなしに信じきっている人が多すぎはしないだろうか。それもまたある種の狂気だと私は思う。

「Da vicino nessuno e nomale.」は精神病院閉鎖推進派のスローガンだそうだ。日本語では「よくみれば、みんなどこか狂ってる」。

つぼさん

2011年08月23日 | Weblog
初めて轆轤で挽いた壷が焼きあがった。黄瀬戸をかけたのだが、少し厚めになってしまった。特に内側については必要以上に厚くなりがちなので気をつけないといけないらしい。壷は、陶芸を始めた一年目の後半に、ひも作りで2つ作り、いずれも実家で稼働中である。ひもで作ったものに比べると、轆轤で挽いたものは形がシャープにまとまっているが、高さ方向の縮小度合いが顕著であるように感じられる。今日は轆轤で挽いた2つ目の壷の素焼きも上がってきたのだが、こちらは球状に膨らませようとして中途半端に終わってしまった。淡水真珠のような形、と言えば想像していただけるだろうか。

ところで、今日は壷を挽かずに碗を挽いた。先週のスクーリングで使い残した並信楽の粘土があったので、これを使って茶碗サイズのものと、もうひとまわり大きい碗を1つづつ挽いた。まだ時間があると思い、一個挽きで皿や壷を作るくらいの量の粘土を練ったところで、焼きあがった壷について先生とお話をさせていただいたので、挽く時間が少し足りなくなってしまった。それでも平常心で轆轤に向かえばよかったものを、ひとつでも多く挽いて土を無駄にしないようにしようなどと考えたので、焦りが出てしまった。やはり、週一回というのではなく、できれば毎日、土を触っていたいとの思いが強くなる。特に挽いているときは、「あぁ、こうやるのか」と了解する瞬間がある。そこで思ったことを繰り返し試してみるということをしてみたい。できれば窯が欲しいが、窯は無理でも電動轆轤とそれを扱う場所はいつか是非手に入れたい。やはりそのためには先立つものが必要になるが、同時に志を共にする仲間がいればなお心強い。それこそ焦ったところで、ろくなことにはならないのだろうから、機会の到来を待ちながら地道に修練を積んだり勉強したりするなどして準備を整えるのが、一見遠回りかもしれないが、最も確実であるように思う。

「一枚のハガキ」

2011年08月21日 | Weblog
朝から雨。家事などを片付け、夕方に映画を観にでかける。まずはテアトル新宿へ直行。映画館前には「混雑しているので…」という貼紙がある。現在上映中の「一枚のハガキ」は各回入替制で全席指定席。切符を買ってから腹ごしらえに行く。

なんとなくカレーライスに決めていた。それも紀伊国屋の地下のカレーだ。子供の頃からずっと気になりつつも、地下道から上がってすぐのところの店で食べたことがなかった。今日はアドホック側の入口から入ったのだが、午後5時過ぎという時間の割に混んでいて、同じくカレー屋の「Mon Snack」はほぼ満席だったが、目的地である「ニューながい」は客がひとりもいなかった。迷うことなく「気まぐれカレー」の中辛を注文する。具材を炒める音がして、しばらくするとかぼちゃとミニトマトがゴロゴロ入ったチキンカレーが出てきた。「紀伊國屋名店会」のサイトにある店の紹介コメントには「昭和の味」とあるが、要するに純カレーをベースにしたものだ。今、「カレー」というと一般にはどのような味がイメージされるのだろうか。昨日、学食で食べたカレーライスは典型的な学食・社員食堂系のカレーライスだった。家庭で作るカレーライスも、市販の固形カレールーを使うとこれに似たような味に仕上がる。インド料理店のカレーは、「カレーライス」とは別系統という感じがする。一口に「インド料理」といっても、広大な国土を有する上に、世界中にインド人街があるといっても過言ではないほど「インド人」は広範に分布しているので、実は「インド料理」というものは存在しないはずである。それは「中華料理」や「日本料理」も同じことなのだが、店を経営する側も客の側も暗黙のうちに「インド料理」風の雰囲気のようなものを共有しているような気がする。以前にも書いたが、初めてインドを訪れた1985年2月中旬から3月中旬にかけて、私がインドで口にした料理は東京やロンドンの「インド料理店」で供されるものとは似て非なるものだった。それで、わずか1ヶ月ほどの滞在で体重を10kgも落として帰国したのである。食べ物のことになると話が最初に書こうと考えたことから離れていく一方になる。それで「ニューながい」のカレーだが、純カレーをベースにした味だ。「純カレー」と言っても若い人には想像がつかないかもしれないが、「インド人もびっくり」の固形カレールーが普及する以前は、缶入りのカレー粉に小麦粉を少し混ぜて炒ったものでカレーを作ったのである。「ニューながい」のカレーはその頃のカレーを彷彿させる。

腹ごしらえの後は紀伊國屋近くのヤマモトコーヒー店に行って、ペーパーフィルターを買う。レジで店の人がコットンペーパーのフィルターを紹介してくれた。そのときのやり取りのなかで、コーノとハリオの紙質の違いとか、紙ではなくコットン製の扱い方とか、いろいろな豆知識を教えていただいた。結局、コットンペーパーのものとハリオのものとを購入した。

まだ少し時間があったので、世界堂へ行って陶芸用品としてどのようなものが置いてあるのかを見てきた。スクーリングで使い残した粘土を持ち帰ったので、手轆轤があれば家でも手捻や紐作りで作ることができるのではないかと思ったのである。手轆轤は直径25cmのもので9,000円前後だった。今日は買わなかったが、家にあってもいいかもしれない。

さて、映画のことだが、18時30分の回は映画館入口の貼紙に反して空席のほうが多い。新藤兼人監督作品を観るのは今回が初めてだったが、そう感じなかったのは日経新聞の「私の履歴書」を読んだ所為もあるかもしれない。少し長くなるが、まずはいくつか引用しておきたい。

***以下、引用***
家の前に大きな田があった。二毛作だから稲株を起こして麦を作る。この稲株を掘り起こすのがお母さんの仕事だった。(中略)田の広さは目もくらむほどで、株は何万とあったが、お母さんは鍬をふるってまず一株へ打ち下ろすのであった。十五、六株起こすと家に帰って仕事をし、暇をみつけては田へ行って株を起こすのであった。(中略)
 そして、とうとうお母さんは最後の一株を起こすのであった。その粘り強いエネルギーを子供のわたしは何もわからなかったが、大きくなって、わたしが仕事をするようになって、しびれるほどの感動で思い出すのだ。お母さんはそのことを誰に誇るでもなく、やるべきことをやっただけだった。(2007年5月1日付 日本経済新聞「私の履歴書」新藤兼人 1 「母」)

 呉海兵団で衣服を与えられて海軍二等水兵が出来あがった。
 下士官が「貴様らは、これから特別任務につく」と百名を選び、夜汽車で出発した。行き先はわからない。
 朝、天理市に着いた。天理教の市である。天理教信者の宿が壮大に立ち並んでいた。年一度の大祭のために一道三府四十三県の宿舎が甍を連ねている。
 特別任務がわかった。この各県の宿舎を掃除するのである。国家総動員法によって海軍に接収され、予科練の宿舎となったのである。
 われら百名は作業に取り掛かった。畳を表に出して陽に当て、石灰を床下に撒き、畳をたたいてほこりを出し、元の所へ敷く。つまり大掃除である。蚤が畳に巣くっていて、夕立のごとく音をたてて跳びはねた。われらのケツは蚤に喰われて真っ赤になった。一ヶ月で掃除が済むと予科練が入ってきた。これでわれらの特別任務は終わり、次の任務が待っていた。
 クジを引いた。と言っても自分が引くのではなく上官が引く。六十名がフィリピンのマニラへ陸戦隊となって行った。残った四十名の内、三十名が潜水艦に乗った。
 マニラの陸戦隊はアメリカの潜水艦に撃沈されたということだが、潜水艦の三十名もおそらくやられたことだろう。
 残った十名は汽車に乗って宝塚に向かった。わたしもその中の一人だった。宝塚歌劇団のもつ宝塚劇場を予科練の宿舎にするための掃除である。各部隊からの寄せ集めで定員分隊は二百名近くになった。
 大劇場の客席は階段教室となり、大舞台は雨天体操場、中・小劇場は予科練の居住区になった。滋賀海軍航空隊宝塚分遣隊の看板があった。掃除が済むとまた転勤である。われら十名の内、四名が海防艦の機関銃手となって行った。百名が、とうとう六名になった。
 過酷な私的制裁が待っていた。隊の玄関には野球のバットをひと回り大きくした「直心棒」が掲げてあって、墨痕鮮やかに「大東亜戦争完遂を祈る」と書いてある。これで兵隊のケツを殴るのだ。暗闇の営庭に整列し姓名を名乗って、五箇条の御誓文のひとつ「軍人は忠誠を尽くすを本分とすべし」と股を開いてケツを突き出すと、上水の直心棒が唸りをあげてとんでくる。踏ん張りが悪いと吹っ飛ぶのである。五箇条だから五つ数えれば終わる。殴る兵も汗だくになり上半身裸となる。殴られたほうのケツは紫色だ。
 直心棒を食らう前に上水の演説がある。
「今夜という今夜は我慢がならないから、耳をほじくって良く聞け。太平洋でわが海軍は苦戦しておる。それはキサマらのようなコンニャクの化け物みたいな兵がおるからだ。キサマらはクズだ。何の役にも立たないクズだ。生きている値打ちもないクズだ」
 クズではない。国の命を受けて親兄弟妻子と別れてやってきた人間だ。
 直心棒は毎夜続いた。わたしたち雑兵のタマシイをたたき直すつもりである。だが、わたしたちは、アメリカと戦争するのではなく、帝国海軍と戦争だと思っていた。
 司令が朝礼で「ニューヨークで観艦式をやるんだ」と叫んでいた。(同15 「戦争」)

 乙羽信子と殿山泰司の役は、水のある島から水のない島へ水を運ぶ陽に焼けた農民である。伝馬船を漕ぐ技術と肥桶を天秤棒で担ぐ練習を一週間やった。桶にいっぱい水を入れないと天秤棒がしならない。あげ底をして誤魔化すことができないのだ。しなる天秤棒が労働の象徴であるとした。宿祢島へ登る稲妻型の道は百五十メートルもあった。この坂道を乙羽信子と殿山泰司は水をいっぱいに入れた肥桶を担いで毎日登ったのである。乙羽さんの肩は三度皮が剥けた。(同25 「裸の島」)

 乙羽信子の骨は、半分を墓の中に入れて、半分は「裸の島」の舞台となった宿祢島の海に撒いた。乙羽信子の作品はどれもこれも忘れられないが、とくに「裸の島」は深く心の中にある。肥桶を担いでください、と言うと何の躊躇いもなく乙羽信子は「はい」と言った。その担げもしない重い物を、乙羽信子は担いで坂道を上がって行ったのだ。(同29 「乙羽信子」)
***以上、引用***

おそらく「一枚のハガキ」という作品は「私の履歴書」、なかでも引用した部分がエッセンスとしてある。最愛の母の姿から得たもの、最愛の妻に教えられたこと、戦争という状況のなかで目の当たりにした人間の狂気的な部分、そうしたものを新藤はこの作品で描きたかったのだろう。主人公が戦後数年経て戦友の未亡人を訪ねる場面で、闇夜に「戦争は終わっていない」と叫ぶシーンがある。戦争というものは永久に終わらないものだと、私は思う。主人公の台詞は脚本を書いた新藤監督のそういう認識でもある、と私は思う。人の自我、社会集団としての自我あるいは文化というものは完結した世界だ。それぞれの世界の間尺に合わないものは排除されるようになっているのである。そうでなければそれぞれの「世界」が成り立たないからだ。映画のほうでは描かれていないが、「履歴書」のほうに書かれていた軍隊でのことを読めば、素朴な反戦というものには実体が無いことがよくわかる。未亡人が水を運ぶのに桶を天秤棒で担ぐシーンも示唆に富んでいる。もちろん、「裸の島」へのオマージュということはあるだろう。それに加えて、身体の小さな未亡人が担いでいるものを、漁師であり兵隊も経験している身体の大きな主人公が最初は上手く担ぐことができないのである。物事を進めるのは腕力ばかりではないということが語られているかのようだ。天秤棒のシーンと前後して、主人公と未亡人の住む里の世話役との間の殴り合いもあり、腕力の効果も認めている。主人公や登場人物たちの生死や生活を分けるのは、時にクジであったり、腕力であったり、知恵であったり、どれかひとつとうことではなしに諸々の集積なのだということだ。そして、ラストの麦畑を作るシーンが作品の世界の全てを凝縮している。芽を出したばかりの麦を踏みつける。麦は踏まれて強くなる。やがて黄金色の波のように麦が実る。生家の破産、愛した人の死、自我を貫くことでの葛藤、戦争という極端な状況、数え上げればきりがないほどの困難を乗り越えてきた人が、踏まれて育った果てに黄金色の収穫を迎えるのだ、というのなら、きっと生きるというのはそういうものなのだろう。

学校

2011年08月20日 | Weblog
学校というのは「学ぶところ」ということらしいが、「学ぶ」というのは己の主体的行為であるから、自分が学ぼうとしなければ学ぶことはできない。講義も実技も、それ自体は学ぶための材料であって、講義や実技指導を受けることが学ぶことではない。そこから自分が何かを考え、自分とそれを取り巻く世界との間の関係や交渉について多少なりとも明らかにできるようにすることが学ぶということなのではないかと思う。もちろん、若いうちには単に知識を得るだけ、知識を得たという証明を得るだけ、というようなことも生活の糧を得るための手続きの一部として必要であるのは確かだ。しかし、それで終わってしまうのであれば、そもそも生きていてもしょうがない。自分がなぜ在るのかということに自分なりの解答をする一助を得るのでなければ、どれほど多くの知識を得たところで何も学んだことにはならないだろう。生まれることは選べない。生を与えられれば、それを生きるよりほかにどうしょうもない、ということほど理不尽なことはあるまい。ところが、その理不尽にしがみつくのが生活というものでもある。そして生活は守るべきもの、というのが世の中の仕組みの前提でもある。生活とか世の中といったものは、何の根拠もなくそこに在る。在るのが当然という合意だけが根拠といえば根拠かもしれない。そんな吹けば飛ぶようなものは、地震があろうがなかろうが、原発がどうなろうが、独裁者がいようがいまいが、暴動があろうがなかろうが、国家財政が破綻しようがしまいが、「国家」なるものがあろうがなかろうが、消え去ってしまうものなのである。しかし、それでは話にならない。「話」、世の中についての物語、秩序、構造、何と呼んでもよいのだが、そこに在る人たちが共有できるような空想とか幻想が、与えられた生を生きるためには必要なのであろう。自分の物語を紡ぐことが学ぶことでもあるのではないかと思うのである。

今日はスクーリングの最終日。今年はこれまでにスクーリングを受けた科目の課題に取り組むことにして、これ以降のスクーリングは受講しないことに決めた。

大雨

2011年08月19日 | Weblog
久しぶりに大雨。降り出す前に登校し、上がった後で下校したので、トイレに行ったり昼休みをとったりするときくらいしか傘の世話にはならずに済んだ。雨のおかげで、昨日までの厳しい暑さが嘘のように和らいだ。これで今年の夏も終わるのだろうか。

スクーリングは5日目を迎え、制作した作品は15個になった。これだけあれば提出に困ることはないので、ひとまず安心である。5月の図法のスクーリングのときには、制作課題が所定の時間内に終わらず、最後のほうがやっつけ仕事になってしまったので、今回は余裕を持って最終日を迎えることができることにこだわった。提出するのは35×40cmの板に並べることができる範囲なので、おそらく作ったものの半分程度になるだろう。提出しなかったものは、普段通っている教室で焼いてもらうつもりだ。

今週は夕食をすべて外食でまかなっているのだが、明日は学校が終わってから実家に寄って帰る予定なので、地元巣鴨で夕食の外食をするのは今日が当面の最後になる。地蔵通りで夜7時過ぎに営業をしている店は数えるほどしかない。昼間の賑わいは午後4時を回ると、さぁっと引いてしまう。そういう客層なのである。要するに、客単価が低いので、それなりのものしか売れない。通行人が多い割に商売は難易度が高く、店の回転が速い。当然、ここでは金融機関の需要も小さいらしく、有人店舗を構えているのは巣鴨信用金庫と三井住友銀行の2つだけ。それでも、空き店舗が出れば比較的短期間に次の商売が出店する。ただし、傾向としては大型資本が背後についているところが多いような気がする。住まいの斜め向かいに、アークランドサカモト系列の天ぷら屋が開店したのが去年のことだったと記憶している。それが今年に入って、同じインテリアのままとんかつ屋に転換したが、結局、先日店じまいをしてしまった。「見切り千両」という言葉あるが、あまりに早く見切ったところを見ると、よほど厳しい状況だったのだろう。ここは、天ぷら屋だったときも、とんかつ屋になってからも何度か利用したが、決してまずくはなかった。値段を考えれば、まずくないどころか、十分に満足のいくものだったのである。そういう店が閉店してしまうというのは、寂しいことだ。その並びにはチェーン店のそば屋がある。ここは、布団屋だったところだが、そば屋になってからも一見して客の入りは少ないようだ。どれほど続くのかどうか、気になるところだ。気にはなるけれど、まだ一度も訪れたことはない。それで、今日のことだが、最近開店した担々麺の専門店で「白担々麺」というのをいただいた。ここは、以前はおじいさんが塩を売っていた店だった。同じ店名、同じ看板のまま、担々麺屋になった。店名が同じ割には、前の店舗の閉店からこの店の開店までの間隔が長いように感じられるが、そのあたりの事情は機会があればおいおい調べてみるかもしれない。そもそもラーメンというものを食べる機会が少ないのだが、ふつうにおいしくいただいた。暑い季節に担々麺の店が開業するというのは、ラーメンとか担々麺といった類のものに特別な思い入れが無い身から見れば、無謀なことのように見えるのだが、そのあたりのことも機会があれば聞いてみたいと思っている。

折り返し

2011年08月18日 | Weblog
陶芸(科目名は「工芸3」)のスクーリングは後半に入った。前半の3日間は、午前中に技法説明があり、午後は各自が実技に取り組むという形式だった。今日からは終日実技だ。最終日の土曜は午前中が実技で午後は講評と掃除という予定だそうだ。前半の3日間で作ったのは写真の7作品。4作が手捻りで、2作が紐、1作が板作りである。普段は加飾をしないのだが、今回は授業なので、技法説明のなかで言及されたことのいくつかは実技に反映させているつもりである。今日は午前中に写真のなかの一番左にあるひょうたん型の器に片桐彫りを施した。面取りとか片桐彫りといった加飾には、粘土にある程度の厚みが必要なのだが、このひょうたん型の器は厚さがそうした彫りに都合の良い状態だったのと、今回の技法説明のなかでも触れられていたので、さっそく試してみたかったのである。すっきりとした縦縞にせずに、彫を左右交互に短めに入れたのは、彫りによって肉厚が薄くなる部分をバランスよく分散するためである。また、球状の器を眺めていて、ふと、ミラーボールが思い浮かんだ所為もある。後ろにある器にも片桐彫りを升目状に施した。これも同じく強度を保つために彫りを分散することを意識した。右の高い筒状の器の線彫りは、焼き栗に付いてきた皮むきを使って彫った。その筒の左隣の背の低い筒状の器と、片桐彫りのふたつの器の間にある丸い穴のたくさん開いた器にある線彫りも栗むきで施した。

今日は、この写真にある器の加飾に多少手を加えたほか、あらたに紐作りや手捻りで4つの器をこしらえた。スクーリングは今日から後半に入り、今日を含め残り3日間となった。このスクーリングでの課題は「物入れ」の制作で、最終的には35×40cmの棚板に乗せることのできる大きさや量で高さ20cm以下という制約がある。与えられた粘土は並信楽10kgなので、所定の容量に収まりきれないほどのものを制作することができる。そこで、できるだけたくさん作って、そのなかから評価の対象にするものを自分で選んで提出するつもりでいる。

それにしても、今日も暑い。帰りに鷹の台駅前にあるDORIYANという洋菓子屋の店先に翻っていた「氷」の旗に吸い寄せられるように、店内の喫茶コーナーに入り、宇治金時アイスクリーム乗せをいただいた。ゆっくりと製氷したという特製氷をつかっているとのことで、上品な味のかき氷だった。

鎬を削る

2011年08月17日 | Weblog
鎬というのは金偏の漢字であることから想像がつくかもしれないが、刀の刃と峰の間の稜線のことである。陶芸で面取りという装飾技法があるのだが、面を平らにしたものを「面取り」と呼び、面を抉るように削って面と面の境目を強調したものを「鎬」と呼ぶ、のだそうだ。今日初めて知った。

陶芸を始めたのが2006年10月初頭。習い始めてちょうど1年経過したところで、2007年10月から2009年3月まではロンドン勤務のため中断の後、2009年4月から今日まで、ほぼ週1回2時間半の同じ陶芸教室に通い続けている。今年1月に初の個展、8月には初の青空市出店を経験でき、お客様に買って頂けるところまでたどり着いた。今週は、初めて、普段通っている陶芸教室以外の先生から指導を受けている。始まる前は、何か違うところがあるのかないのか、不安と期待が入り混じっていた。いざ授業が始まってみると、学生側の経験にばらつきが大きいこともあり、講座は初心者対象の内容で、知識や実技の自分の中での整理に大変有益である。不安は杞憂に終わり、講座3日目を終えて期待通りの進捗だ。

普段は街の陶芸教室での授業なので、実技中心で特に知識教育のようなものはない。技法を習う都度、それに関連した説明を受けるだけである。それで作品の制作には十分である。あとはなるべく多くの作品を観て、自分のなかの造形のイメージのストックを増やしていくことが、これからの展開の上で重要なことだと考えている。陶芸そのものよりも陶芸を通じて、自分であるとか、自分が暮らす社会であるとか、生活というものをしっかりと観察できるようになりたい。そして、「なるほど、たぶん、そういうことなのだろうな」という思いに至ったところで、この世から静かに消えるというのが理想だ。

今日は家に帰ってから、「POTTERS AT WORK」というドキュメンタリーのDVDを観た。これは九州の窯元での作業の様子を収録したものだ。撮影は1976年春、焼成には登窯を使い、登場する職人たちの過半は蹴轆轤を使っている。先月、民芸学校で訪れた瀬戸の本業窯にも登窯があったが、現在は使われていない。蹴轆轤も登窯も、それが実際に稼働している様子というのは、今となっては貴重な映像である。このドキュメンタリーの本編は30分。30分で陶磁器を手作業によって完成させることはできないので、かなり大胆に編集されている。このDVDが発売されたのは2007年で、私がこれを入手したのはロンドンから帰国した後、と記憶している。入手直後に観たときは、肝心のところが映っていないと感じられたのだが、久しぶりに観てみると、感心する場面がいくつもあった。当時は見えなかったものが、今は見えるようになった、ということだろう。

昨日書いたことの繰り返しになってしまうが、改めて手捻や紐作りといった、自分の手だけで造形する作業に取り組んでみると、言葉では説明できないのだが、自分のなかで点頭を感じるのである。単なる気分転換や刺激ではない、もっと大きなことを感じるのである。

国分寺

2011年08月16日 | Weblog
昨日、少し余裕を持って学校に着いたので、今日は気が緩み、少し家を出るのが遅くなってしまった。高田馬場を7時50分に出る急行本川越行きに乗って、小平で乗り換えるか東村山にするかで少し迷って、小平で降りた。拝島線の玉川上水行きに乗るのだが、この列車はさきほどの急行本川越行きの次の急行新所沢行きと待ち合わせる。ここからは昨日と同じく小川で国分寺線に乗り換えるだが、今日は鷹の台から普通に歩いて始業時間ぎりぎりだった。ということは、遅くとも高田馬場を7時54分に発車する急行新所沢行きに乗らないと遅刻してしまう。

帰りは今日も18時01分発の東村山行きのタイミングだったが、これを見送り次の06分発の国分寺行きに乗った。同じホームから北行きと南行きが出ることに違和感を覚える人もあるかもしれないが、西武国分寺線は単線なのである。平日昼間は拝島線との乗換駅である小川ですれ違うようになっている。国分寺には18時12分に到着し、JR中央線の快速東京行きに乗り換える。これは18時16分発だが14分には入線する。2分も停車するのは、特急の通過待ちをするからだ。国分寺を出ると、あとは特快などの優等列車に追い越されることなく新宿駅に18時45分に到着する。山手線の外回りは18時49分発だが、後続列車の遅延のため、1分延発。さらに池袋でも運転間隔の調整を行い、巣鴨には19時03分に到着した。なんのことはない、後続の遅延がなく定刻通りなら昨日と同じだ。

国分寺から乗った中央線の快速東京行きは少し混んでいた。この時間に東京へ向かう列車が混んでいることが素朴に驚きだったが、客は少しずつ減っていき、吉祥寺あたりでガラガラになった。おそらく立川あたりが西東京の核となって武蔵野市以西の昼間人口を吸引しているということなのだろう。東京の核が都区部内の繁華街で、西東京も当然そのベッドタウンなのだろうと漠然と思い込んでいたが、現実はそうではないようだ。ささやかなことだが、日常生活のなかでそういう発見があるとなんとなく嬉しい。

ところでスクーリングのほうだが、何年かぶりに電動轆轤を使わずに器を挽いている。今年に入って大皿と壷と立て続けに四苦八苦するようなものを相手にしているので、手捻や紐作り、板(たたら)作りといった自分の手だけで作る作品を手がけるのが、気分転換にもなるし、生理的な刺激にもなっているように感じられる。

所沢

2011年08月15日 | Weblog
今週は月曜から土曜までスクーリングだ。場所が鷹の台というところで、都内とは思えないほど不便な場所だ。どうしたものかと思ったが、行きは高田馬場から西武新宿線で小平まで行き、そこで西武拝島線に乗り換えて小川へ行き、西武国分寺線に乗り換えて鷹の台にたどり着いた。学校までは駅から徒歩20分近くかかり、しかもスクーリング会場の建物は学校の正門からずっと奥へ入ったところだった。

帰りは、鷹の台で来た電車に乗ることにした。すると18時01分発の東村山行きだったので、それに乗って東村山に出た。東村山では西武新宿線が上下ともに18時10分発だったので、下りの本川越行きに乗り、所沢で西武池袋線の18時15分発、快速池袋行きに乗り、池袋には18時50分に到着した。到着ホームが一番外側なら、池袋で夕食を済まそうと思っていたのだが、一番JR寄りの7番線に着いたので、そのまま人の流れに乗って、JRの改札を通り、18時55分発の山手線外回りに乗って巣鴨に19時ちょうどに到着した。

週一回の木工教室で東村山まで通っているので、たまに所沢を利用すると、いつも妙な気分になる。というのは、西武池袋線の池袋方面行きと西武新宿線の西武新宿方面行きは同じホームから発着するのだが、進行方向が逆なのである。所沢から見れば、池袋も新宿も同じ方向なのだから、同じ方向に向かって走るのが自然だろうと思うのだが、逆なのである。

巣鴨に着いて、アトレで食事を済まそうと思ったら、休業で、ハンガラムで食べようと思ったら、ここも定休日で、手延べうどんにしようと思ったら、そこも定休日だった。コルカタ・キッチンまで歩こうかとも思ったが、楽天でチャーハンと餃子を食べることにした。上場会社で同じ名前があるが、たぶんこちらの中華料理店のほうが古いと思う。どこにでもある、ごくふつうの中華料理店だ。そういうのが、妙に食べたくなったりするものなのである。

小谷野君

2011年08月14日 | Weblog
映画でも観に行こうと家を出たものの、ちょっと買い物を思い出し、用を済ませて、うっかり大型書店に足を踏み入れたのがよくなかった。そこに高校時代の同級生で、文芸評論や小説を書いている小谷野敦の著作が並んでいたのである。高校2年3年の同級生なのだが、殆ど言葉を交わしたことはない。別に仲が悪いというようなことではなく、単に人間関係が乾燥した学校だったのである。小谷野はその著作やブログのなかで、高校時代にイジメにあっていたというようなことを書いていて、その首謀者のひとりが、現在、北九州市立大学外国語学部国際関係学科で教授をしている久木尚志だというのである。実際に何があったのか私は知らないのだが、自分が在籍していたクラスにイジメがあったという認識を私は持っていない。小谷野の書いたものを読んで思うのだが、彼がしょうもないことを根に持つタイプであるというだけのことのように、私は感じている。尤も、私は頭の良いほうではないので、受験のことで精一杯で、高校での日常に殆ど関心を払っていなかった結果として、そうしたことに気付かなかったということは、無いとは言えない。ついでに言うと、久木とは席は近かったが、やはり付き合いは無かった。今から思えば、もう少し高校生らしい生活があってもよかったような気もするが、今更どうしょうもない。

ちなみに高校の後輩には立川談笑がいる。もちろん、面識はない。立川といえば、立川談春が中学生の頃に親に連れられて戸田競艇場を訪れ、そこで見た競艇選手に憧れて、競艇選手を志すが身長制限のために断念したというようなことがWikipediaに書いてある。私も、小学生の頃に父親に付いて戸田競艇場や川口オートレース場には何度も足を運んでいる。だからどう、というわけではないのだが、今から思えば、どうして落語家を志さなかったのだろうと、多少後悔の念を覚えている。ただ、談笑も談春も、私はあまり好きではない。

別世界

2011年08月13日 | Weblog
先月の終わり頃にパソコンを買い替えた。これまでPowerBookを使っていたのだが、さすがにいろいろ不自由が出てきていて買い替えを考えていたところにLionのリリースとかマックのラインナップ更新があったので、これを機にMacBook Proを購入した。搭載されていたOSはSnowLeopardだったが、無料でLionへアップグレードできる。パソコン本体に加えてOne To OneとかPro Careといった付随サービスも契約した。昨日はOne To Oneのワークショップに参加するため、出勤前に銀座店を訪れた。

平日の昼間だというのに、ワークショップの行われるフロアは満員で、ひとつ下の階にあるシアターも思いのほか人が入っていた。もちろん、1階のショップも賑わっている。どうしてもなければならない、というような商品を扱っているわけでもなく、景気が良いわけでもないのに、平日の昼間にこれほどの集客を実現する店舗があるということが素朴に不思議に思われる。

しかし、それが消費市場の現実でもある。どうしてここが売れないのかと不思議に思われる店舗もあれば、どうしてこれほど人気なのだろうと思われる場所もある。コンサルタントとか識者と呼ばれる人たちは、そうした現象に対してもっともらしい言い訳を考えるが、それが後講釈であることは明らかだ。我々の生活は無数の変動要因によって構成されている。公式化とかモデル化というのは、そのなかから説明しやすいものを選び出して、変動要因があるていど固定したものとして組み立てられたものである。都合のよいところだけを組み合わせているのだから、そんなもので現実の問題が解決できるはずがないのである。コンサルや識者が、それを承知でしゃべっているのだとすれば、詐欺師のようなものだし、自説を素朴に信じているのだとすればただの馬鹿だ。しかし、それで彼らの生活が回るのだから、そういう者に金を払う人たちがけっこういるということなのだろう。なんのことはない、昔の幇間と旦那衆の関係だ。

物事には勢いというものもある。今週はアップルの時価総額がエクソンモービルを抜いて全米トップになったそうだ。まず9日火曜日のザラ場で、10日水曜日には終値でエクソンを上回った。12日金曜日はアップルが3,486.2億ドルで、エクソンが3,500.7億ドルとなったが、時価総額の成長速度を見れば、アップルはやはり驚異的な急成長企業だ。そう思って見る所為かもしれないが、東京銀座の直営店という末端の風景においてすらも、そうした特別な雰囲気というようなものがいきわたっているというのが、成長企業の成長企業たる所以なのだろう。