物事には精緻に極めることの美しさというものがある。寸分の狂いも無く構成されたものには、その技と精神に対する驚嘆と敬意、そうしたものがもたらす緊張感が生まれる。しかし、その緊張感は自分と対象物との間の越え難い断絶と捉えられる場合もあれば、対象物を神聖化する方向に作用することもある。一方、どこか緩和されたようなところを感じさせるものに対しては、親近感や安心感を覚える。緩さというのは、狙ってしまうとあざとさを感じて不愉快に思われてしまう危険があるので、精緻なものを作るよりも難しいという面もある。真面目にやっているのだけれど、何故か抜けてしまうというようなものが、もちろん程度の問題ではあるのだが、好ましく感じられる場合が多いように思う。
今日は千葉市美術館へ「浅川兄弟の心と眼 朝鮮時代の美」を観にでかけたのだが、ここに陳列されているような朝鮮陶磁には言いようの無い親しみや好感を覚える。中国の景徳鎮のような精緻な仕事にも畏敬の念を喚起させられるのだが、それとは対極にあるかのような朝鮮陶磁の緩さが、現実の生活が持つリズムとか波動のようなものとの相性の良さを感じる。何が好ましいとか、どこが良い、というのではなく、素朴に惹かれるのである。例えば、人を好きになるのに確たる理由が無いのに似ている。たまに「私のどこがいいの?」と聞きたがる奴がいるが、そういうのと上手くいった試しがない。言語化できないものを無理に言語化して、その上っ面だけをとやかく言われても困るのである。言語とは、或る対象からそれを表現するためによかれと思われる部分を切り取って提示する道具だと思う。切り取ったものから、切り取られたものの姿を推し量るのが「行間を読む」という作業であり、そこにコミュニケーションの本質があるのではないだろうか。切り取ったものを見て、なぜそれを切り取ったのか、その切り取り方が何を物語るのか、というようなことを考えることで、言葉の発し手の意図やその人となりにまで思い巡らすのが、人と人との付き合いというものだろう。言葉にできることというのは人が抱えるそれぞれの世界のごく一部でしかないから、どれほど長い付き合いの相手であっても、始終相手の言葉について吟味を繰り返さないことには、付き合いを維持できないのである。切り取った断片だけを見てわかったような気になる奴は、おそらく誰とも上手く付き合うことはできないだろうし、社会のなかで常に不平不満を抱き続けなければならないのだろう。
落語に「千両みかん」というのがある。夏の暑い最中に大店の若旦那がどうしてもみかんが食べたいという。食べたいという思いが高じて床に伏せてしまうのである。親が心配して番頭にみかんを探させる。みかん問屋でなんとか見つけたみかんが千両だった。息子の命は金に換えられないというので、大旦那はそのみかんを千両で買う。そのみかんには10房入っていて、若旦那は7房食べ、3房を両親と番頭に礼だと言って差し出す。大旦那夫妻の分も含めその3房を預かった番頭は、それが300両に見えてしまい、みかん3房を手に姿をくらましてしまう。
みかんだから聴衆の多くが「馬鹿な番頭だ」と笑うが、この番頭と似たような行動をしている人は案外多いのではないだろうか。この噺で「行間」にあたるのは、子供を思う親心であり、仕事や社会の関係性に対する誠心誠意あるいは秩序の尊重であり、ほかにもいろいろあるだろう。子供の命が救えるなら、と一個のみかんに千両を払うのであって、千両という金額自体に意味があるのではない。それを10房入りのみかんが一つ千両ということは1房が100両、という表層の現象が現実の全てであると認識してしまうことで妙なことになる。
それで朝鮮陶磁だが、その緩さが好きだということが言いたいのである。今日は出勤前に寄ったので、時間が1時間半ほどしか無く、思うように眺めていることができなかった。10月2日までの千葉での会期中に改めて訪れてみたいと思っている。
今日は千葉市美術館へ「浅川兄弟の心と眼 朝鮮時代の美」を観にでかけたのだが、ここに陳列されているような朝鮮陶磁には言いようの無い親しみや好感を覚える。中国の景徳鎮のような精緻な仕事にも畏敬の念を喚起させられるのだが、それとは対極にあるかのような朝鮮陶磁の緩さが、現実の生活が持つリズムとか波動のようなものとの相性の良さを感じる。何が好ましいとか、どこが良い、というのではなく、素朴に惹かれるのである。例えば、人を好きになるのに確たる理由が無いのに似ている。たまに「私のどこがいいの?」と聞きたがる奴がいるが、そういうのと上手くいった試しがない。言語化できないものを無理に言語化して、その上っ面だけをとやかく言われても困るのである。言語とは、或る対象からそれを表現するためによかれと思われる部分を切り取って提示する道具だと思う。切り取ったものから、切り取られたものの姿を推し量るのが「行間を読む」という作業であり、そこにコミュニケーションの本質があるのではないだろうか。切り取ったものを見て、なぜそれを切り取ったのか、その切り取り方が何を物語るのか、というようなことを考えることで、言葉の発し手の意図やその人となりにまで思い巡らすのが、人と人との付き合いというものだろう。言葉にできることというのは人が抱えるそれぞれの世界のごく一部でしかないから、どれほど長い付き合いの相手であっても、始終相手の言葉について吟味を繰り返さないことには、付き合いを維持できないのである。切り取った断片だけを見てわかったような気になる奴は、おそらく誰とも上手く付き合うことはできないだろうし、社会のなかで常に不平不満を抱き続けなければならないのだろう。
落語に「千両みかん」というのがある。夏の暑い最中に大店の若旦那がどうしてもみかんが食べたいという。食べたいという思いが高じて床に伏せてしまうのである。親が心配して番頭にみかんを探させる。みかん問屋でなんとか見つけたみかんが千両だった。息子の命は金に換えられないというので、大旦那はそのみかんを千両で買う。そのみかんには10房入っていて、若旦那は7房食べ、3房を両親と番頭に礼だと言って差し出す。大旦那夫妻の分も含めその3房を預かった番頭は、それが300両に見えてしまい、みかん3房を手に姿をくらましてしまう。
みかんだから聴衆の多くが「馬鹿な番頭だ」と笑うが、この番頭と似たような行動をしている人は案外多いのではないだろうか。この噺で「行間」にあたるのは、子供を思う親心であり、仕事や社会の関係性に対する誠心誠意あるいは秩序の尊重であり、ほかにもいろいろあるだろう。子供の命が救えるなら、と一個のみかんに千両を払うのであって、千両という金額自体に意味があるのではない。それを10房入りのみかんが一つ千両ということは1房が100両、という表層の現象が現実の全てであると認識してしまうことで妙なことになる。
それで朝鮮陶磁だが、その緩さが好きだということが言いたいのである。今日は出勤前に寄ったので、時間が1時間半ほどしか無く、思うように眺めていることができなかった。10月2日までの千葉での会期中に改めて訪れてみたいと思っている。