今年読んだ本
1 ウィリアム・モリス「民衆の芸術」岩波文庫
2 ダンテ「神曲 地獄」岩波文庫
3 内田隆将「なぜ君は絶望と闘えたのか」新潮社
4 池田晶子「人生は愉快だ」毎日新聞社
5 フィリップ・クローデル「ブロデックの報告書」みすず書房
6 桐谷エリザベス「不便なことは素敵なこと」マガジンハウス
7 山本兼一「利休にたずねよ」PHP
8 松田哲夫「印刷に恋して」晶文社
9 町田宗心「茶の湯の常識」光村推古書院
10 川上未映子「乳と卵」文芸春秋
11 細川貂々「ツレがうつになりまして」幻冬舎
12 小林秀雄「小林秀雄 初期文芸論集」岩波文庫
13 フィリップ・クローデル「子供たちのいない世界」みすず書房
14 小谷野敦「『こころ』は本当に名作か」新潮新書
15 竹村真奈「小さな雑貨屋、はじめました」翔泳社
16 関口一郎「珈琲辛口談義」いなほ書房
17 ビートたけし「漫才」新潮社
18 西川美和「きのうの神さま」ポプラ社
19 ポール・ゴーギャン「ノア・ノア」ちくま学芸文庫
20 島尾敏雄「死の棘」新潮文庫
21 川端康成「伊豆の踊り子」新潮文庫
22 三島由紀夫「潮騒」新潮文庫
23 小谷野敦「日本売春史」新潮社
24 司馬遼太郎「坂の上の雲」全8巻 文春文庫
25 勢古浩爾「大和よ武蔵よ」洋泉社
26 司馬遼太郎「竜馬がゆく」全8巻 文春文庫
27 吉田満「戦艦大和ノ最期」講談社文芸文庫
28 司馬遼太郎「翔ぶが如く」全10巻中3巻まで 文春文庫
今年観た映画
1 そして私たちは愛に帰る(原題:The End of Heaven Auf der Anderen Saite)
2 小三治
3 PARIS(原題:PARIS)
4 ホルテンさんのはじめての冒険(原題:O’HORTEN)
5 シリアの花嫁(原題:The Syrian Bride)
6 いのちの戦場(原題:L’ENNEMI INTI ME)
7 ダウト(原題:Doubt)
8 ニセ札
9 画家と庭師とカンパーニュ(原題:Dialogue avec mon Jardinier)
10 レオン(原題:LEON)DVD
11 ブラック・レイン(原題:Black Rain)DVD
12 ミルク(原題:MILK)
13 夏時間の庭(原題:L'heure d'ete)
14 人生に乾杯(原題:マジャール語のため表記不能)
15 希望ヶ丘夫婦戦争
16 ディア・ドクター
17 実録・連合赤軍 DVD
18 愛を読む人(原題:The Reader)
19 平穏(原題:Spokoj)
20 ふたりのベロニカ(原題:Podwojne zycie Weroniki)
21 スティル・アライブ(原題:Still Alive)
22 短い労働の日(原題:Krotiki dzien pracy)
23 美代子阿佐ヶ谷気分
24 扉をたたく人(原題:The Visitor)
25 湖のほとりで(原題:LA RAGAZZA DEL LAGO)
26 サンシャイン・クリーニング(原題:Sunshine Cleaning)
27 ポー川のひかり(原題:Cento Chiodi)
28 3時10分 決断の時(原題:3:10 to Yuma)
29 意志の勝利(原題:Triumph des Willens)
30 プール
31 千年の祈り(原題:A Thousand Years of Good Prayers)
32 行旅死亡人
33 アンナと過ごした4日間(原題:Cztery noce z Anna)
34 戦場でワルツを(原題:Waltz with Bashir)
35 バグダッド・カフェ(原題:Bagdad Café)
36 倫敦から来た男(原題:The Man from London)
37 ずっとあなたを愛してる(原題:IL Y A LONGTEMPS QUE JE T’AIME)
今年聴いた落語会
1 三遊亭楽太郎・春風亭昇太・林家たい平 三人会 (なかのZEROホール)
2 春風亭小朝 独演会 (アミューたちかわ)
3 柳家三三 独演会 「春」 (なかのZEROホール)
4 柳家小三治 独演会 (草加市文化会館)
5 桂歌丸・春風亭小朝 二人会 (武蔵野市民文化会館)
6 春風亭小朝 独演会 (北とぴあ)
7 桂歌丸・三遊亭好楽 二人会 (横浜市民文化会館関内ホール)
8 林家正蔵・柳家三三 二人会 「唐茄子屋政談をリレーでつとめます」 (横浜にぎわい座)
9 柳家三三 独演会 「秋」 (練馬文化センター)
10 三遊亭好楽・王楽 二人会 (日経ホール)
今年観た美術展等
1 加山又造展 (国立新美術館)
2 妙心寺展 (東京国立博物館)
3 福沢諭吉展 (東京国立博物館)
4 放菴と大観 (出光美術館)
5 20世紀のはじまりとピカソとクレーの生きた時代 (Bunkamura)
6 ルーヴル美術館展 17世紀ヨーロッパ絵画 (国立西洋美術館)
7 カルティエ クリエイション めぐり逢う美の記憶 (東京国立博物館)
8 阿修羅展 (東京国立博物館)
9 坂田敏子“as it is を編む・つなぐ” (as it is)
10 マーク・ロスコ 瞑想する絵画 (川村記念美術館)
11 三井家伝来 茶の湯の名品 (三井記念美術館)
11 ルーヴル美術館展 美の宮殿の子どもたち (国立新美術館)
12 ヴィデオを待ちながら (東京国立近代美術館)
13 国立トレチャコフ美術館展 忘れえぬロシア (Bunkamura)
14 「異郷へ」写真家たちのセンチメンタル・ジャーニー (東京都写真美術館)
15 西洋家具の美 (日本民藝館)
16 ゴーギャン展 (東京国立近代美術館)
17 染付 藍が彩るアジアの器 (東京国立博物館)
18 中国の陶俑 (出光美術館)
19 うみのいろ うみのかたち (ブリヂストン美術館)
20 伊勢神宮と神々の美術 (東京国立博物館)
21 伊藤公象 WORKS 1974-2009/メアリー・ブレア展 他 (東京都現代美術館)
22 知られざる畠山コレクション (畠山記念館)
23 美しきアジアの玉手箱 シアトル美術館所蔵 日本・東洋美術名品展 (サントリー美術館)
24 インタートラベラー 神話と遊ぶ人 鴻池朋子展 (東京オペラシティアートギャラリー)
25 第24回展示 (as it is)
26 創作陶芸展 (和光 並木館)
27 染野夫妻陶芸コレクション (東京国立近代美術館工芸館)
28 国宝那智瀧図と自然の造形 (根津美術館)
29 異界の風景 (東京藝術大学大学美術館)
30 パリに咲いた古伊万里 (東京都庭園美術館)
31 古代ローマ帝国の遺産 (国立西洋美術館)
32 河口龍夫展 (東京国立近代美術館)
33 ロートレック コネクション (Bunkamura)
34 ユートピア 描かれし夢と楽園 (出光美術館)
35 柴田是真の漆x絵 (三井記念美術館)
36 東山魁夷と昭和の日本画展 (山種美術館)
37 文化資源としての<炭鉱>展 (目黒区美術館)
今年聴講したセミナーおよび講演(敬称略)
1 荒屋鋪 透(ポーラ美術館学芸部長)「イル=ド=フランスの黒田清輝」
2 吉岡 徳仁(吉岡徳仁デザイン事務所代表)、伊東 史子(パークス代表) 対談
3 コーヒー カッピングセミナー (グラウベル)
4 はじめてのデジタルカメラ撮影 (RING CUBE)
5 銀座撮影会 (RING CUBE)
6 これだけ知っていればうまく撮れる!写真家の技 第五回 (RING CUBE)
7 若松 孝二(プロデューサー)「『愛のコリーダ』の誕生について」
8 katsuno+yagi 「るるる、とインテリアレクチャー」
9 立木 康夫(ファイナンシャル・プランナー)「定期借家契約をするために」
10 野中 清志(住宅コンサルタント)「年代別最新マンションの選び方・買い方」
11 小池 一子(クリエイティブディレクター)「無印良品の理由展 トークショー」
12 杉江 隆(杉江画廊店主)「画廊店主が語る美術品市場の見方と資産価値」
13 福井 俊彦(キヤノングローバル戦略研究所理事長)アナリスト大会基調講演
14 冨山 和彦(株式会社経営共創基盤 代表取締役CEO)アナリスト大会基調講演
15 小島 節子(ファイナンシャル・プランナー)「介護施設の違いとその現状」
16 佐藤幹夫(NHKディレクター)「「坂の上の雲」と旅順の風景」
どれも素晴らしいものでした。関係者の皆様に深く感謝申し上げます。
ちょっとした思い違いがあって、今日は休暇を取ったが、これを含めても今年消化した休暇は3日であった。いずれも休日出勤の代休なので、今年は有給休暇を消化せずに終わってしまった。有給休暇をまるまる使い残すなどというのは社会人になって初めてのことだ。
別に主義主張があって休まなかったわけではないのだが、退職前にまとめて消化するつもりであった。ところが、幸か不幸か退職する機会に恵まれないままに今年の最終営業日を迎えた次第である。
かつて家庭というものを持っていた時には、子供の休みに合わせて家族で旅行に出かけるのが義務のようになっていたので、長期休暇はきちんと取っていた。今はそのようなものが無いので、別段休む理由がない。旅行自体は嫌いなわけではないのだが、1週間や2週間ばかりの休みで旅行に出かけても面白くも無いし、ほかにこれといって何か時間と情熱を傾けて打ち込むような事も無い。それなら、休暇など取らずに毎日規則正しく生活をしたほうが、心身の健康にも良いだろうと考えた。
実際に、昨年4月から左下肢の痛みが抜けないということはあるにせよ、特に病気らしい病気も無く、今年を終えそうである。
とはいえ、6月に週末に代休を付けて北海道を訪れたのは楽しかった。樺太の存在を目の当たりにして、今まで考えたこともなかった日本の歴史や政治のある側面を考えるのは刺激的なことであったし、19年ぶりに札幌在住の友人と語り合ったのも楽しかった。このような経験は、休暇を取るなどして、少しまとまった時間を持たないと得ることができない。
帰国して1年が経過しようとしている。以前にもどこかに書いた記憶があるのだが、自分のなかでは3年というのがひとつのまとまりになっている。2007年に自分の生活に大きな区切りをつけたので、2010年は区切りの年ということになる。そうであるとすれば、少しは休暇を取ることも必要になるかもしれない。精勤は結局、後にも先にも2009年だけということになるだろうか。
別に主義主張があって休まなかったわけではないのだが、退職前にまとめて消化するつもりであった。ところが、幸か不幸か退職する機会に恵まれないままに今年の最終営業日を迎えた次第である。
かつて家庭というものを持っていた時には、子供の休みに合わせて家族で旅行に出かけるのが義務のようになっていたので、長期休暇はきちんと取っていた。今はそのようなものが無いので、別段休む理由がない。旅行自体は嫌いなわけではないのだが、1週間や2週間ばかりの休みで旅行に出かけても面白くも無いし、ほかにこれといって何か時間と情熱を傾けて打ち込むような事も無い。それなら、休暇など取らずに毎日規則正しく生活をしたほうが、心身の健康にも良いだろうと考えた。
実際に、昨年4月から左下肢の痛みが抜けないということはあるにせよ、特に病気らしい病気も無く、今年を終えそうである。
とはいえ、6月に週末に代休を付けて北海道を訪れたのは楽しかった。樺太の存在を目の当たりにして、今まで考えたこともなかった日本の歴史や政治のある側面を考えるのは刺激的なことであったし、19年ぶりに札幌在住の友人と語り合ったのも楽しかった。このような経験は、休暇を取るなどして、少しまとまった時間を持たないと得ることができない。
帰国して1年が経過しようとしている。以前にもどこかに書いた記憶があるのだが、自分のなかでは3年というのがひとつのまとまりになっている。2007年に自分の生活に大きな区切りをつけたので、2010年は区切りの年ということになる。そうであるとすれば、少しは休暇を取ることも必要になるかもしれない。精勤は結局、後にも先にも2009年だけということになるだろうか。
映画館のなかでむせび泣いてしまった。最後のほうの場面で涙でスクリーンが曇ってよく見えなくなってしまったので、眼鏡を外し、ハンカチを出し、それを目に当てたら、もうどうしょうもなく泣けてきて、少し嗚咽が漏れてしまった。おそらく、誰もが泣くような場面ではないと思う。このところ齢を重ねた所為か、涙腺がすっかりゆるくなってしまった。特に子供が絡むときは、どうにも弱い。
最後の場面は主人公が妹に自分の6歳の息子を殺した理由を語るところである。それを観ていて、私の子供が川崎病で入院していたときのことを思い出してしまったのである。もうすぐ退院という段になって、髄膜炎を発症した。経験のある人ならご存知だろうが、あの検査は大人でもかなり辛いものである。髄膜炎の疑いのある兆候が現れ、病室に検査機器が搬入されたとき、付き添いは外に出なければならなかった。病室の雰囲気が急に変わったことに不安を覚えたのであろう。子供は病室から出てゆく私たち両親にむかって「行かないで」と泣き叫んだ。できることなら傍にいてやりたいのはもちろんである。小さな子供が苦しんでいるのに、それをどうしてやることもできない己の無力を心底情けなく思った。この作品を観ていて、そのときの情景が脳裏に浮かんでしまい、そのときの自分の子供よりも深刻な状況にあった主人公の息子のことや、彼を前にした主人公の気持ちを察すると、涙と洟水が溢れ出してどうにもならなくなってしまったのである。
子供が病気になると、親は自分に落ち度があったのではないかと自責の念に苛まれるものだ。そのうえに、親は子供の病気に対する自分の無力を思い知らされるのである。これほど悲しいことがあるだろうか。何事も無い時には保護者面をしながら、肝心要のときには何の役にも立たない。その自分の無力に持って行き場のない怒りと悲しみを感じるのである。そして、その無力が子供に関することだけでなく、自分のことすべてについてもあてはまることだということに気づき、さらに打ちのめされた気分になるのである。
さて、映画のほうだが、これはフィリップ・クローデルが監督と脚本を担当した作品だ。私は彼の小説が大好きで、といっても日本語に訳されたものは「灰色の魂」「リンさんの小さな子」「子供たちのいない世界」「ブロデックの報告書」の4作品だけなのだが、これらを読んだだけで、私は彼に惚れ込んでしまった。今回、この映画を観たいと思ったのは、彼が脚本と監督を担当しているからだ。そして、その期待を決して裏切らない作品だった。
唐突だが、能面には大きく分けて鬼神、老人、男、女、霊とがある。これらは別々の登場人物であるかのようだが、実は、一人の人間の諸相を表現しているのではないかと思うのである。つまり、誰しもが、社交的側面も鬼神のような側面も併せ持つのではないか。そして凶行は、必ずしも心の闇によるものとは限らず、時に慈悲のあまりに結果としてもたらされることもあるのではないか。逆に、温和で愛しみ深いかのように見えて、実は冷酷な動機で情けをかけることもあるのではないか。人の感情と行動とは、そう単純に結びつくものではないということは、己の人生を振り返れば至極当然に納得できるのだが、つい思考の習慣として易きに流されてしまい、人間関係における大事な何かを見落としてしまうということが思いのほか頻繁にあるのではないか。
要するに、本作の主人公は15年の懲役から社会に復帰しているのだが、法解釈上はそのような重大犯罪者であっても、それが必ずしも実体と一致しないこともあるということなのである。しかし、社会においてはそうした背後のことに一切関係なく、「懲役15年」という表面的なことだけでその人が評価されてしまう。ひとりの人間は様々な側面を持つ、と言えば誰もが当然だと思うのだろうが、そうした複雑さを実際に考慮できる人は少ない、と思う。
例えば、離婚したと言うと「子供にとっては迷惑なことだ」とか「話し合ってなんとかならなかったのか」とか、当事者をろくに知りもせずに平気で評論家のようなことを口にする輩がいる。人にはそれぞれに人生があり、事情があるという当然のことを考慮することもなく、己の薄っぺらな思考でしか物事を評価することができない畜生並みの知性しかない気の毒な人たちだ。相手のことを本当に心配し、その心情を想像しようと努めるのなら、軽々しく言葉など出ないはずだ。
本作では、出所した姉を迎える妹が、姉にそっと寄り添う。姉が不在となって以来、両親は犯罪者たる姉の存在を家庭から抹殺し、この家族の過去を知らない人に対しては一人娘ということでこの妹を扱ってきた。それでも妹は姉のことが忘れられず、姉には姉の事情があったはずだということを信じ、そんな義務はないのに、出所した姉を喜んで自分の家庭に迎えるのである。そして、周囲の人々の心無い態度から姉を守ろうとし、姉の心が自然に開かれるのをじっと待つのである。これが本当の家族というものなのではないか。これが人として分別のある態度というものではないのか。勿論、映画だから多少の誇張も脚色もあるだろう。しかし、本当に相手を思えば、その思いはそう簡単には言葉にはならないはずだと思う。言葉にするということは、その言葉によって特定の理屈や可能性を切り出してしまうことだ。自分が相手について知っていることが、どれほどのことなのか、自分の知らないことがどれほどのことなのか、親しい間柄であればあるほど、簡単には割り切れないはずだと思うのである。
家族に関して、主人公の妹は、健康面では問題が無いにもかかわらず、自分で子供を産まずに養子を迎えて育てている。自分の子供を産まないというのは、姉の事件によるトラウマなのだろう。それでも、子供を欲するというのは、彼女のなかで子供を持つということがとても重要な意味を持っているということなのだと思う。彼女が迎えた2人の養子はともにベトナム人だ。本作の舞台はロレーヌ地方のナンシーという町で、姉妹の父はフランス人、母はイギリス人という設定だ。家族とは何か、という問題意識がそこに表現されているように思う。家族、それは必ずしも血のつながりではなく、自分と同じくらいに相手のことを大切に思う人たちの共同体、というようなことを言わんとしているのではないか。
こうした家族の描き方にも、私はフィリップ・クローデルへの共感を覚える。ちなみに、養女役のひとり、リズ・セギュールはフィリップの実の養女だそうだ。彼自身、刑務所で囚人に読み書きを教えるという仕事をしていたこともあるという。そうした経験が物語にも登場人物の台詞にも反映されていて、作品の奥深さとして結実しているような気がする。
奥深さという点では、作品の最後の場面での主人公の台詞が素晴らしいと思う。短いセンテンスに、生きるということの本質が凝縮されている。「わたしはここにいるわ」という単純明快な意識が、生きるという意志とか様々な困難に立ち向かう意志を力強く表現していると思う。
タイトルは作品を観ればその由来がわかるのだが、フランス人なら誰もが知っている民謡「澄んだ泉のほとりで」(原題:À la claire fontaine)の歌詞からとったものだそうだ。作中でも主人公と妹の娘、主人公と妹がそれぞれピアノを連弾しながら歌う場面があるのだが、その歌のなかの繰り返しの部分の歌詞から取られている。
Il y a longtemps que je t'aime
Jamais je ne t'oublierai
ちなみに英訳では
So long I've been loving you,
I will never forget you.
(歌詞の出所:http://www.mamalisa.com/?t=es&p=141&c=22)
他人に薦められた本や映画で、面白いと思った経験があまりないので、私は他人に本や映画を薦めることはしないのだが、フィリップ・クローデルの4冊の本は自分の子供に薦めた。薦めるどころか無理やり読ませたようなかっこうになった。4冊とも好反応があったわけではく、「ブロデックの報告書」にいたっては「おとうさん、これ無理」と言われてしまったのだが、もう少し成長してから改めて読み直して欲しいと思っている。この映画のほうは、まだ少し観るのは早いかもしれない。もっといろいろな経験をして、他人の心というものを想像する力がついたら、おそらくその頃にはDVDになっているはずなので、是非観て欲しいと思っている。
最後の場面は主人公が妹に自分の6歳の息子を殺した理由を語るところである。それを観ていて、私の子供が川崎病で入院していたときのことを思い出してしまったのである。もうすぐ退院という段になって、髄膜炎を発症した。経験のある人ならご存知だろうが、あの検査は大人でもかなり辛いものである。髄膜炎の疑いのある兆候が現れ、病室に検査機器が搬入されたとき、付き添いは外に出なければならなかった。病室の雰囲気が急に変わったことに不安を覚えたのであろう。子供は病室から出てゆく私たち両親にむかって「行かないで」と泣き叫んだ。できることなら傍にいてやりたいのはもちろんである。小さな子供が苦しんでいるのに、それをどうしてやることもできない己の無力を心底情けなく思った。この作品を観ていて、そのときの情景が脳裏に浮かんでしまい、そのときの自分の子供よりも深刻な状況にあった主人公の息子のことや、彼を前にした主人公の気持ちを察すると、涙と洟水が溢れ出してどうにもならなくなってしまったのである。
子供が病気になると、親は自分に落ち度があったのではないかと自責の念に苛まれるものだ。そのうえに、親は子供の病気に対する自分の無力を思い知らされるのである。これほど悲しいことがあるだろうか。何事も無い時には保護者面をしながら、肝心要のときには何の役にも立たない。その自分の無力に持って行き場のない怒りと悲しみを感じるのである。そして、その無力が子供に関することだけでなく、自分のことすべてについてもあてはまることだということに気づき、さらに打ちのめされた気分になるのである。
さて、映画のほうだが、これはフィリップ・クローデルが監督と脚本を担当した作品だ。私は彼の小説が大好きで、といっても日本語に訳されたものは「灰色の魂」「リンさんの小さな子」「子供たちのいない世界」「ブロデックの報告書」の4作品だけなのだが、これらを読んだだけで、私は彼に惚れ込んでしまった。今回、この映画を観たいと思ったのは、彼が脚本と監督を担当しているからだ。そして、その期待を決して裏切らない作品だった。
唐突だが、能面には大きく分けて鬼神、老人、男、女、霊とがある。これらは別々の登場人物であるかのようだが、実は、一人の人間の諸相を表現しているのではないかと思うのである。つまり、誰しもが、社交的側面も鬼神のような側面も併せ持つのではないか。そして凶行は、必ずしも心の闇によるものとは限らず、時に慈悲のあまりに結果としてもたらされることもあるのではないか。逆に、温和で愛しみ深いかのように見えて、実は冷酷な動機で情けをかけることもあるのではないか。人の感情と行動とは、そう単純に結びつくものではないということは、己の人生を振り返れば至極当然に納得できるのだが、つい思考の習慣として易きに流されてしまい、人間関係における大事な何かを見落としてしまうということが思いのほか頻繁にあるのではないか。
要するに、本作の主人公は15年の懲役から社会に復帰しているのだが、法解釈上はそのような重大犯罪者であっても、それが必ずしも実体と一致しないこともあるということなのである。しかし、社会においてはそうした背後のことに一切関係なく、「懲役15年」という表面的なことだけでその人が評価されてしまう。ひとりの人間は様々な側面を持つ、と言えば誰もが当然だと思うのだろうが、そうした複雑さを実際に考慮できる人は少ない、と思う。
例えば、離婚したと言うと「子供にとっては迷惑なことだ」とか「話し合ってなんとかならなかったのか」とか、当事者をろくに知りもせずに平気で評論家のようなことを口にする輩がいる。人にはそれぞれに人生があり、事情があるという当然のことを考慮することもなく、己の薄っぺらな思考でしか物事を評価することができない畜生並みの知性しかない気の毒な人たちだ。相手のことを本当に心配し、その心情を想像しようと努めるのなら、軽々しく言葉など出ないはずだ。
本作では、出所した姉を迎える妹が、姉にそっと寄り添う。姉が不在となって以来、両親は犯罪者たる姉の存在を家庭から抹殺し、この家族の過去を知らない人に対しては一人娘ということでこの妹を扱ってきた。それでも妹は姉のことが忘れられず、姉には姉の事情があったはずだということを信じ、そんな義務はないのに、出所した姉を喜んで自分の家庭に迎えるのである。そして、周囲の人々の心無い態度から姉を守ろうとし、姉の心が自然に開かれるのをじっと待つのである。これが本当の家族というものなのではないか。これが人として分別のある態度というものではないのか。勿論、映画だから多少の誇張も脚色もあるだろう。しかし、本当に相手を思えば、その思いはそう簡単には言葉にはならないはずだと思う。言葉にするということは、その言葉によって特定の理屈や可能性を切り出してしまうことだ。自分が相手について知っていることが、どれほどのことなのか、自分の知らないことがどれほどのことなのか、親しい間柄であればあるほど、簡単には割り切れないはずだと思うのである。
家族に関して、主人公の妹は、健康面では問題が無いにもかかわらず、自分で子供を産まずに養子を迎えて育てている。自分の子供を産まないというのは、姉の事件によるトラウマなのだろう。それでも、子供を欲するというのは、彼女のなかで子供を持つということがとても重要な意味を持っているということなのだと思う。彼女が迎えた2人の養子はともにベトナム人だ。本作の舞台はロレーヌ地方のナンシーという町で、姉妹の父はフランス人、母はイギリス人という設定だ。家族とは何か、という問題意識がそこに表現されているように思う。家族、それは必ずしも血のつながりではなく、自分と同じくらいに相手のことを大切に思う人たちの共同体、というようなことを言わんとしているのではないか。
こうした家族の描き方にも、私はフィリップ・クローデルへの共感を覚える。ちなみに、養女役のひとり、リズ・セギュールはフィリップの実の養女だそうだ。彼自身、刑務所で囚人に読み書きを教えるという仕事をしていたこともあるという。そうした経験が物語にも登場人物の台詞にも反映されていて、作品の奥深さとして結実しているような気がする。
奥深さという点では、作品の最後の場面での主人公の台詞が素晴らしいと思う。短いセンテンスに、生きるということの本質が凝縮されている。「わたしはここにいるわ」という単純明快な意識が、生きるという意志とか様々な困難に立ち向かう意志を力強く表現していると思う。
タイトルは作品を観ればその由来がわかるのだが、フランス人なら誰もが知っている民謡「澄んだ泉のほとりで」(原題:À la claire fontaine)の歌詞からとったものだそうだ。作中でも主人公と妹の娘、主人公と妹がそれぞれピアノを連弾しながら歌う場面があるのだが、その歌のなかの繰り返しの部分の歌詞から取られている。
Il y a longtemps que je t'aime
Jamais je ne t'oublierai
ちなみに英訳では
So long I've been loving you,
I will never forget you.
(歌詞の出所:http://www.mamalisa.com/?t=es&p=141&c=22)
他人に薦められた本や映画で、面白いと思った経験があまりないので、私は他人に本や映画を薦めることはしないのだが、フィリップ・クローデルの4冊の本は自分の子供に薦めた。薦めるどころか無理やり読ませたようなかっこうになった。4冊とも好反応があったわけではく、「ブロデックの報告書」にいたっては「おとうさん、これ無理」と言われてしまったのだが、もう少し成長してから改めて読み直して欲しいと思っている。この映画のほうは、まだ少し観るのは早いかもしれない。もっといろいろな経験をして、他人の心というものを想像する力がついたら、おそらくその頃にはDVDになっているはずなので、是非観て欲しいと思っている。
ずっと今日が仕事納めだと信じていた。ところが、出勤してみると、仕事納めという雰囲気ではないので、何気に最終日を調べてみたら30日だった。明日から休みのつもりで、既に29日も30日も予定を入れてしまったので、明日は仕事を途中で抜けることにして、30日は休暇を取ることにした。一年のうちで最も閑散な時期なので、このような融通も利くのである。
この日に投稿する予定だったブログの原稿まで用意したのである。その原稿は没にしてしまった。別に休みたいというわけではないのだが、なんとなくがっかりする自分が、面白くもある。
この日に投稿する予定だったブログの原稿まで用意したのである。その原稿は没にしてしまった。別に休みたいというわけではないのだが、なんとなくがっかりする自分が、面白くもある。
先週から司馬遼太郎の「翔ぶが如く」を読んでいる。今、全10巻のうちの3巻目だが、ここまでのところでは成立直後の明治政府の混乱ぶりが描かれています。黒船来訪を機に、徳川幕府の政治的無能力が露呈されて大政奉還に至るが、新政権が誕生して明らかになったのは、倒幕を推進した薩長側にも倒幕後の政権構想というものが無かったということだ。
これは明治維新に限ったことではなく、腐敗勢力を倒すのは容易でも新たな秩序を作り上げるのは極めて困難であるという一般的なことだ。世界史において「革命」の後に「反革命」という反動が起こることが多いのはこのためだろう。少し飛躍した言い方になるが、ということは、新たなことを首尾よく始めることができれば、その困難に見合うだけの大きな権益を得ることができて然るべきだろうと思うのである。常にというわけではないだろうが、何事かを成し遂げるために必要な労力やリスクと、それを成し遂げたことによって得られる果実というのは、だいたいバランスするようにできているものなのではないだろうか。
余談だが、鳩山首相が母親から資金援助を得ていることが問題になっているが、彼女の父親がブリヂストンの創業者で、創業した会社が大きく成長を遂げたのだから、創業者はその果実を享受するのが当然というものだろう。事業を始めるだけでも容易ではないのに、タイヤという創業当時は日本になかった技術を導入して、その市場を自ら創り出すというのは並大抵のことではなかったはずだ。創業当時は海のものとも山のものともわからない事業が今や事業規模において世界屈指のタイヤメーカーになったのだから、創業者一族が享受する果実が巨額になるのは至極当然といえる。
日本は明治維新後も皇室の権威を政権の存立基盤に据えるという発想から脱却することをしなかった。鎌倉時代から江戸時代に至る武士の世の中といえども、時の最高権力者は「征夷大将軍」という役職を朝廷から賜ることでその権威の正当性の根拠とし、秀吉も「関白」だった。明治になって「将軍」が「太政大臣」になり、さらに後に議会が成立して「首相」になっても、その看板名が変わるだけで、皇室を国家の象徴とする考え方は同じである。今日でも憲法には天皇は「日本国の象徴」とその第一条に明記されている。人が社会を形成するとき、そのまとまりの根拠になるのは権威である。権威がどのようなものであれ、権威の存在を疑うのは、人あるいは社会の防衛本能としてタブーであるのが現実だろう。だから、自分が会ったことも見たこともない「神」を信じてみたり、自分がろくに理解もしていない政見や考えの人に選挙で投票してみたり、何がどのように良いのかわからないのにブランド商品を有り難がったりするのである。
つくづく人間というのは愚劣な生き物だと思うのだが、それでもこうして生きていられるのだから、世の中というのは面白いものだ。
さて、「翔ぶが如く」はまだ続く。年内読了はむずかしそうだ。
これは明治維新に限ったことではなく、腐敗勢力を倒すのは容易でも新たな秩序を作り上げるのは極めて困難であるという一般的なことだ。世界史において「革命」の後に「反革命」という反動が起こることが多いのはこのためだろう。少し飛躍した言い方になるが、ということは、新たなことを首尾よく始めることができれば、その困難に見合うだけの大きな権益を得ることができて然るべきだろうと思うのである。常にというわけではないだろうが、何事かを成し遂げるために必要な労力やリスクと、それを成し遂げたことによって得られる果実というのは、だいたいバランスするようにできているものなのではないだろうか。
余談だが、鳩山首相が母親から資金援助を得ていることが問題になっているが、彼女の父親がブリヂストンの創業者で、創業した会社が大きく成長を遂げたのだから、創業者はその果実を享受するのが当然というものだろう。事業を始めるだけでも容易ではないのに、タイヤという創業当時は日本になかった技術を導入して、その市場を自ら創り出すというのは並大抵のことではなかったはずだ。創業当時は海のものとも山のものともわからない事業が今や事業規模において世界屈指のタイヤメーカーになったのだから、創業者一族が享受する果実が巨額になるのは至極当然といえる。
日本は明治維新後も皇室の権威を政権の存立基盤に据えるという発想から脱却することをしなかった。鎌倉時代から江戸時代に至る武士の世の中といえども、時の最高権力者は「征夷大将軍」という役職を朝廷から賜ることでその権威の正当性の根拠とし、秀吉も「関白」だった。明治になって「将軍」が「太政大臣」になり、さらに後に議会が成立して「首相」になっても、その看板名が変わるだけで、皇室を国家の象徴とする考え方は同じである。今日でも憲法には天皇は「日本国の象徴」とその第一条に明記されている。人が社会を形成するとき、そのまとまりの根拠になるのは権威である。権威がどのようなものであれ、権威の存在を疑うのは、人あるいは社会の防衛本能としてタブーであるのが現実だろう。だから、自分が会ったことも見たこともない「神」を信じてみたり、自分がろくに理解もしていない政見や考えの人に選挙で投票してみたり、何がどのように良いのかわからないのにブランド商品を有り難がったりするのである。
つくづく人間というのは愚劣な生き物だと思うのだが、それでもこうして生きていられるのだから、世の中というのは面白いものだ。
さて、「翔ぶが如く」はまだ続く。年内読了はむずかしそうだ。
景気対策とか経済対策といったことに関する最近の話がなんとなく浮世離れしているように感じられるのは、語り手が価値創造ということについて無知である所為ではないかと思う。
日本経済という単位で語るにせよ、東京都の景気という単位にせよ、我が家の家計を語るにせよ、そこで必要なのは打ち出の小槌のようなものである。無から有を生み出すものがあればそれに越したことはないのだが、それこそ非現実的なことであろうから、せめて何か種のようなものから果実を生み出す仕組みがないと、その経済単位は存続できないという当然のことが認識されていないように思われるのである。
金がない、困った、というときに個人のレベルではどうするだろうか。最も全うな対応策としては仕事をするということだろう。自分の労働力を提供してその対価として金銭あるいはそれに準ずる報酬を受け取るのである。提供する労働力の評価というものは自分のなかに絶対的水準があるわけではなく、時給1,000円とか月給50万円とか年俸いくら、というような提示を受け、それが受け容れられるものかどうかという気分に近い情緒的基準に拠るのが一般的なのではないだろうか。しかし、自分がそこに居ることの価値というのはよほど天才的技能の持ち主ならいざ知らず、特に圧倒的に秀でた能力を持たない圧倒的大多数の人の場合は限りなくゼロに近いというのが現実だろう。そのゼロが時間当たり1,000円とか月当たり50万円 というような金銭を生み出すのだから、賃労働というのは打ち出の小槌のようなものだと言える。
かつて日本が高度経済成長を遂げた時代の価値創造機関は主として製造業だった。「Made in Japan」という刻印の入った製品が世界を席巻した時代があったのである。説明するまでもないが、製造業というのは原材料とそれを加工する労働力に付加価値をつけて販売するという業である。その競争力は製品の機能、デザイン、耐久性その他諸々の性能と、その性能対比で割安と感じられ得る価格によって表現される。製品それ自体の属性と価格のパッケージと言ってもよいだろう。その製造業が衰退を始めて久しい。
技術というものは伝播するものなので、製品が普及すればそれに伴って技術も広まるものである。特許とか知的所有権というものへの信仰にも似た幻想が一部にあるようだが、本当に価値を創造できる特許というのは稀である。稀であるがゆえに価値を創造するのである。例えば、山に登るのに道はひとつではない。未踏の山に登るのならそれなりの意義はあるだろうが、知られている山の道のひとつを以ってそれが大発明であるかのような夢を見る人があるが、それは実体としては個人の満足感の域を出るものではなく、そんなものに価値などあるはずはない。どれほど優れた技術や製造ノウハウをもってしても、製造業というのは製品や製造技術の絶え間ない進化を追及し続けなければ優位性を保持できない宿命を抱えているのである。
この国が衰退を始めた根本的な原因のひとつは、その成長の原動力となった製造業に代わる原動力を見出しそこなったことにあると思う。勿論、国として新産業新事業の育成や振興のための対策を執らなかったわけではない。しかし、そうした餌に食いつくものの過半は広義の物販事業である。物販というのは手数料商売のようなもので、薄利多売の事業である。そこに価値の創造などは期待できない。個別には商品開発に新規性があり、一般的な物販を超えた流通事業者も存在するが、それは個別の企業の成長を支えることはあっても、一国の経済を支えるようなものにはならない。
政府の経済対策に欠けているのは、そうした打ち出の小槌をいかに育成していくかという視点そのものであるような気がしてならない。公共の福祉も大切だろうが、それが悪平等をもたらすようでは、起業家精神の芽を摘んでしまうのではないだろうか。毒にも薬にもならない施策と習慣の延長線上でしかないような政策しか出てこないのでは政権交代の意味などないだろう。政府の話はともかくとして、個人的には自分の家計における打ち出の小槌を作りあげるなり見つけ出すなりすることが目下火急の課題だ。
日本経済という単位で語るにせよ、東京都の景気という単位にせよ、我が家の家計を語るにせよ、そこで必要なのは打ち出の小槌のようなものである。無から有を生み出すものがあればそれに越したことはないのだが、それこそ非現実的なことであろうから、せめて何か種のようなものから果実を生み出す仕組みがないと、その経済単位は存続できないという当然のことが認識されていないように思われるのである。
金がない、困った、というときに個人のレベルではどうするだろうか。最も全うな対応策としては仕事をするということだろう。自分の労働力を提供してその対価として金銭あるいはそれに準ずる報酬を受け取るのである。提供する労働力の評価というものは自分のなかに絶対的水準があるわけではなく、時給1,000円とか月給50万円とか年俸いくら、というような提示を受け、それが受け容れられるものかどうかという気分に近い情緒的基準に拠るのが一般的なのではないだろうか。しかし、自分がそこに居ることの価値というのはよほど天才的技能の持ち主ならいざ知らず、特に圧倒的に秀でた能力を持たない圧倒的大多数の人の場合は限りなくゼロに近いというのが現実だろう。そのゼロが時間当たり1,000円とか月当たり50万円 というような金銭を生み出すのだから、賃労働というのは打ち出の小槌のようなものだと言える。
かつて日本が高度経済成長を遂げた時代の価値創造機関は主として製造業だった。「Made in Japan」という刻印の入った製品が世界を席巻した時代があったのである。説明するまでもないが、製造業というのは原材料とそれを加工する労働力に付加価値をつけて販売するという業である。その競争力は製品の機能、デザイン、耐久性その他諸々の性能と、その性能対比で割安と感じられ得る価格によって表現される。製品それ自体の属性と価格のパッケージと言ってもよいだろう。その製造業が衰退を始めて久しい。
技術というものは伝播するものなので、製品が普及すればそれに伴って技術も広まるものである。特許とか知的所有権というものへの信仰にも似た幻想が一部にあるようだが、本当に価値を創造できる特許というのは稀である。稀であるがゆえに価値を創造するのである。例えば、山に登るのに道はひとつではない。未踏の山に登るのならそれなりの意義はあるだろうが、知られている山の道のひとつを以ってそれが大発明であるかのような夢を見る人があるが、それは実体としては個人の満足感の域を出るものではなく、そんなものに価値などあるはずはない。どれほど優れた技術や製造ノウハウをもってしても、製造業というのは製品や製造技術の絶え間ない進化を追及し続けなければ優位性を保持できない宿命を抱えているのである。
この国が衰退を始めた根本的な原因のひとつは、その成長の原動力となった製造業に代わる原動力を見出しそこなったことにあると思う。勿論、国として新産業新事業の育成や振興のための対策を執らなかったわけではない。しかし、そうした餌に食いつくものの過半は広義の物販事業である。物販というのは手数料商売のようなもので、薄利多売の事業である。そこに価値の創造などは期待できない。個別には商品開発に新規性があり、一般的な物販を超えた流通事業者も存在するが、それは個別の企業の成長を支えることはあっても、一国の経済を支えるようなものにはならない。
政府の経済対策に欠けているのは、そうした打ち出の小槌をいかに育成していくかという視点そのものであるような気がしてならない。公共の福祉も大切だろうが、それが悪平等をもたらすようでは、起業家精神の芽を摘んでしまうのではないだろうか。毒にも薬にもならない施策と習慣の延長線上でしかないような政策しか出てこないのでは政権交代の意味などないだろう。政府の話はともかくとして、個人的には自分の家計における打ち出の小槌を作りあげるなり見つけ出すなりすることが目下火急の課題だ。
所用で日本橋に行くことがあり、少し時間が空いたので三井記念美術館で開催中の「柴田是真の漆x絵」を観てきた。
美術館や博物館の類にはよく足を運ぶのだが、漆器はこれまでのところあまり馴染みがなく、松田権六くらいしか知らなかった。今回、初めて是真の作品を観てすっかり一目惚れしてしまった。なにがどうというのではないのだが、全体の間合いとか描かれたり作られたりしたものの佇まいといったものが、しっくりと自分のなかに受け入れられる感じがするのである。
しっくりくるのは、自分が日本人だからかもしれない。漆は日本文化を象徴するもののひとつで、かつては食器、家屋の内装品や調度品といった生活のなかに根ざした用具類の多くが漆芸品だった。英語で「Japan」といえば言わずと知れた「日本」のことだが、「japan」といえば「漆」あるいは「漆器」という名詞であり、動詞で使えば「漆を塗る」という意だ。漆器は地が木や和紙なので手に持ったときに軽やかで、その表面の風合いとか肌触りが心地よい。
是真の作品は、その佇まいもさることながら、絵柄の構図がかっこよいのである。私の貧弱な言葉で説明するのは困難なのだが、敢えて言うなら、絶妙のバランス感覚のようなものが感じられる。絵に関しては小林古径が好きなのだが、是真も画風は違うけれども間の雰囲気が似ているように感じられる。
或る空間が与えられたとき、西洋絵画はそれを埋め尽くそうとするのだが、日本画は地を含めた空間全体を表現の対象としようとする。それは人知と自然との関係の認識のスタイルが違うという解釈もできるだろうし、意思の表現として、与えられたものには遍く自分の色をつけ可能な限り多くの相手に自己の存在を主張しないと気が済まない姿勢と、要を押さえることで自己を表現し、わかる奴にだけわかれば良しとする姿勢との違いという解釈もできるだろう。是真の作品は、わかる奴相手の姿勢がとりわけ強いように思われるのである。
数を恃むというのは、軽薄の骨頂であると思う。有象無象も数のうち、枯れ木も山の賑わい、多数決、民主主義、など数は力という考え方には生理的に違和感を覚える。人が一生の間に出会う相手のなかで、言葉がそこそこに通じ合い、議論が本当に成立する相手というのは、いるかいないかというほどに少ないものだと思う。自分が心動かされるほどに美しいとか恰好がよいとか感じたものを共有できる相手がいたら、楽しいだろうなとは思うのだが、そんな奴がたくさんいたら、自分の感性がかなり磨耗していることを心配しなくてはいけないとも思う。
美術館や博物館の類にはよく足を運ぶのだが、漆器はこれまでのところあまり馴染みがなく、松田権六くらいしか知らなかった。今回、初めて是真の作品を観てすっかり一目惚れしてしまった。なにがどうというのではないのだが、全体の間合いとか描かれたり作られたりしたものの佇まいといったものが、しっくりと自分のなかに受け入れられる感じがするのである。
しっくりくるのは、自分が日本人だからかもしれない。漆は日本文化を象徴するもののひとつで、かつては食器、家屋の内装品や調度品といった生活のなかに根ざした用具類の多くが漆芸品だった。英語で「Japan」といえば言わずと知れた「日本」のことだが、「japan」といえば「漆」あるいは「漆器」という名詞であり、動詞で使えば「漆を塗る」という意だ。漆器は地が木や和紙なので手に持ったときに軽やかで、その表面の風合いとか肌触りが心地よい。
是真の作品は、その佇まいもさることながら、絵柄の構図がかっこよいのである。私の貧弱な言葉で説明するのは困難なのだが、敢えて言うなら、絶妙のバランス感覚のようなものが感じられる。絵に関しては小林古径が好きなのだが、是真も画風は違うけれども間の雰囲気が似ているように感じられる。
或る空間が与えられたとき、西洋絵画はそれを埋め尽くそうとするのだが、日本画は地を含めた空間全体を表現の対象としようとする。それは人知と自然との関係の認識のスタイルが違うという解釈もできるだろうし、意思の表現として、与えられたものには遍く自分の色をつけ可能な限り多くの相手に自己の存在を主張しないと気が済まない姿勢と、要を押さえることで自己を表現し、わかる奴にだけわかれば良しとする姿勢との違いという解釈もできるだろう。是真の作品は、わかる奴相手の姿勢がとりわけ強いように思われるのである。
数を恃むというのは、軽薄の骨頂であると思う。有象無象も数のうち、枯れ木も山の賑わい、多数決、民主主義、など数は力という考え方には生理的に違和感を覚える。人が一生の間に出会う相手のなかで、言葉がそこそこに通じ合い、議論が本当に成立する相手というのは、いるかいないかというほどに少ないものだと思う。自分が心動かされるほどに美しいとか恰好がよいとか感じたものを共有できる相手がいたら、楽しいだろうなとは思うのだが、そんな奴がたくさんいたら、自分の感性がかなり磨耗していることを心配しなくてはいけないとも思う。
こういう映画があるのだと驚いた。正直なところ、物語自体はそれほど面白いとは思わなかったが、映像表現の方法に興味を覚えた。
例えば、主人公である鉄道の転轍手が働く制御室は、ガラス張りの部屋を頂いた塔になっている。当然、塔の中からは、駅構内はもとより、駅を取り巻く風景を一望に見渡すことができる。しかし、夜、地上から眺めてみれば、ガラス張りで照明の入った制御等は見世物の檻のように見えるのである。見ることと見られることとの関係に当事者が意識しない対称性があり、夜という暗さの効果とも相まって不安なものに映る。それは、この場面特有のものではなく、そこに誰しもが抱える似たような関係の象徴という普遍性を帯びたもののようにも思われる。人と人との関係は必ずしも双方向ではないし、双方であっても相手に対する働きかけの程度は同じではないし、同じに感じられるものでもない。当事者間に双方向という意識がなくても、傍目には双方向であることもあれば、その逆もある。
また、全体としてカメラが長回しになっているのも、映像に独特の陰影とか含みのようなものを与えている。静かな映像なのに、そうした背後の何かを求めて思わず見入ってしまった。
登場人物の表情は一見すると乏しい。確かに、人の感情というものは芝居のように直接的に表面に現れるものではない。勿論、個人差はあるだろうが、人間は感情を押し殺すことのできる唯一の動物だ。その押し殺されたものを表現しようとしたのがこの作品であるように思う。時間にしてわずか2日か3日ほどの間の変化が、何気ない動作や、表情とか佇まいの微妙な変化で語られていて、そのわずかな時間が途方も無く長いもののように思われるのである。
この作品のラストを観て、ふと「ペーパー・ムーン」の最初の場面を思い出した。どちらも人物の表情をアップにしたものなのだが、一見して平板な表情が前後の文脈のなかでどれほど雄弁に物事を語るものなのかということがよくわかる。おそらく、それは演じている役者の技量云々ということよりも、観る側の心象が意味性を押し殺した微妙な表情のなかに反映されるということなのだろう。意味性の空白があるからこそ、観る側はその空白を自分の意識や感情で埋めようとする。観客は作中の人物を観ることで無意識のうちに自分自身を見ているのである。
ふと「ゆれる」や「ディア・ドクター」も人の表情にこだわった作品であることを思い出した。当然のことながら、人は言葉だけで関係性を構築したり維持しているのではない。第六感と呼ばれる五感を超越したものも含めて、持てる感覚を総動員して人と人とはつながるのである。だからこそ、心地よい関係を手にすることは容易ではないし、そうした関係を得たときの喜びは大きい。結局、生きる喜びというのは、そうした自分の持てる力を総動員しながら自分の存在を確認する作業によってしか得られないのではないかとさえ思う。そう思うと、自分がどれほど総動員作業を行っているかということを反省しないではいられない。
映画の帰り道、久しぶりに澤乃井でうどんを食べた。昔、勤め先が渋谷であった頃、この店とかトルコ料理のアナトリアといった宮益坂の店はランチ圏内だった。あれから何年も経ち、通りに並ぶ店はずいぶん入れ替わったが、澤乃井とかアナトリアといった当時のお気に入りが今でも同じようにあることが妙に嬉しかったりする。
例えば、主人公である鉄道の転轍手が働く制御室は、ガラス張りの部屋を頂いた塔になっている。当然、塔の中からは、駅構内はもとより、駅を取り巻く風景を一望に見渡すことができる。しかし、夜、地上から眺めてみれば、ガラス張りで照明の入った制御等は見世物の檻のように見えるのである。見ることと見られることとの関係に当事者が意識しない対称性があり、夜という暗さの効果とも相まって不安なものに映る。それは、この場面特有のものではなく、そこに誰しもが抱える似たような関係の象徴という普遍性を帯びたもののようにも思われる。人と人との関係は必ずしも双方向ではないし、双方であっても相手に対する働きかけの程度は同じではないし、同じに感じられるものでもない。当事者間に双方向という意識がなくても、傍目には双方向であることもあれば、その逆もある。
また、全体としてカメラが長回しになっているのも、映像に独特の陰影とか含みのようなものを与えている。静かな映像なのに、そうした背後の何かを求めて思わず見入ってしまった。
登場人物の表情は一見すると乏しい。確かに、人の感情というものは芝居のように直接的に表面に現れるものではない。勿論、個人差はあるだろうが、人間は感情を押し殺すことのできる唯一の動物だ。その押し殺されたものを表現しようとしたのがこの作品であるように思う。時間にしてわずか2日か3日ほどの間の変化が、何気ない動作や、表情とか佇まいの微妙な変化で語られていて、そのわずかな時間が途方も無く長いもののように思われるのである。
この作品のラストを観て、ふと「ペーパー・ムーン」の最初の場面を思い出した。どちらも人物の表情をアップにしたものなのだが、一見して平板な表情が前後の文脈のなかでどれほど雄弁に物事を語るものなのかということがよくわかる。おそらく、それは演じている役者の技量云々ということよりも、観る側の心象が意味性を押し殺した微妙な表情のなかに反映されるということなのだろう。意味性の空白があるからこそ、観る側はその空白を自分の意識や感情で埋めようとする。観客は作中の人物を観ることで無意識のうちに自分自身を見ているのである。
ふと「ゆれる」や「ディア・ドクター」も人の表情にこだわった作品であることを思い出した。当然のことながら、人は言葉だけで関係性を構築したり維持しているのではない。第六感と呼ばれる五感を超越したものも含めて、持てる感覚を総動員して人と人とはつながるのである。だからこそ、心地よい関係を手にすることは容易ではないし、そうした関係を得たときの喜びは大きい。結局、生きる喜びというのは、そうした自分の持てる力を総動員しながら自分の存在を確認する作業によってしか得られないのではないかとさえ思う。そう思うと、自分がどれほど総動員作業を行っているかということを反省しないではいられない。
映画の帰り道、久しぶりに澤乃井でうどんを食べた。昔、勤め先が渋谷であった頃、この店とかトルコ料理のアナトリアといった宮益坂の店はランチ圏内だった。あれから何年も経ち、通りに並ぶ店はずいぶん入れ替わったが、澤乃井とかアナトリアといった当時のお気に入りが今でも同じようにあることが妙に嬉しかったりする。
「戦場でワルツを」についてのブログにいただいたコメントに「苦い幸福感」という言葉があった。言わんとすることは想像できるし、上手い表現だとも思うが、多少の補足を加えさせて頂きたい。
あのブログの最後にある「おそらく恐ろしく幸運」というのは、皮肉でもなんでもなく、素朴にそう思うだけである。甘くも苦くもない単なる幸福感がそこにある。自分はその悲惨な場にいないという幸福感だ。
以前、このブログのどこかにも書いたと記憶しているが、人は生まれることは選べない。生まれたが最後、与えられた生を生きなければならない。生まれたところが世紀の大富豪の家であろうが、難民キャンプだろうが、それが自分に与えられた生活の場であるなら、そこを生きるしかないのである。それが不満なら、そこから抜け出すことを考え、その考えを実行するだけのことだし、そこに満足するなら、その既得権を守り抜けばよいだけのことだ。ただ、どこに生まれたにせよ、決まっていることがひとつある。生まれたら必ず死ぬのである。生きている期間は、今の時代の日本人なら、平均的に80年前後だ。尤も、個人にとっては平均というのはたいして意味はない。いずれにしてもたいして長い時間とは言えないだろう。生きているその時々は長く感じられたり短く思われたりするのだが、きっと最期を前にしてみれば儚い一瞬のように思われるのではないだろうか。
その儚い個人の時間が恵まれていようが悲惨であろうが、どうでもよいことではないかと思うのである。もし、自分の置かれた環境が恵まれていると感じられるなら、堂々とその恵みを享受すればよい。世にチャリティだの慈善事業だのを賛美する風潮もあるように感じられるが、それはあくまでも個人の自由意志に委ねられるべきものであって強制される筋合いのものではない。経済的に恵まれているのは才能と努力と幸運の結果であり、それを「所得の再配分」などと称して高率の税金をかけて国家が吸い上げてみたり、慈善事業への参加を実質的に強制するといった方法で第三者が徴収するのは、単に搾取というものだろう。
人に欲望があり、それをかなえることが行動原理の基礎をなし、しかも人に得て不得手があって能力の差異がある限り、世に格差はなくならない。人に自我があり、認識活動の基本に自他の区別というものがある限り、世に差別はなくならない。当然のことだろう。勿論、格差や差別は社会不安の元であり、その解消が正義であるという考え方も当然だと思う。しかし、本源的に存在するものの表層だけを否定して取り繕ったところで、格差や差別が人の意識から消えるものではなく、かえって社会の深層に複雑な根を張り巡らせるのではないか。
あのブログの最後にある「おそらく恐ろしく幸運」というのは、皮肉でもなんでもなく、素朴にそう思うだけである。甘くも苦くもない単なる幸福感がそこにある。自分はその悲惨な場にいないという幸福感だ。
以前、このブログのどこかにも書いたと記憶しているが、人は生まれることは選べない。生まれたが最後、与えられた生を生きなければならない。生まれたところが世紀の大富豪の家であろうが、難民キャンプだろうが、それが自分に与えられた生活の場であるなら、そこを生きるしかないのである。それが不満なら、そこから抜け出すことを考え、その考えを実行するだけのことだし、そこに満足するなら、その既得権を守り抜けばよいだけのことだ。ただ、どこに生まれたにせよ、決まっていることがひとつある。生まれたら必ず死ぬのである。生きている期間は、今の時代の日本人なら、平均的に80年前後だ。尤も、個人にとっては平均というのはたいして意味はない。いずれにしてもたいして長い時間とは言えないだろう。生きているその時々は長く感じられたり短く思われたりするのだが、きっと最期を前にしてみれば儚い一瞬のように思われるのではないだろうか。
その儚い個人の時間が恵まれていようが悲惨であろうが、どうでもよいことではないかと思うのである。もし、自分の置かれた環境が恵まれていると感じられるなら、堂々とその恵みを享受すればよい。世にチャリティだの慈善事業だのを賛美する風潮もあるように感じられるが、それはあくまでも個人の自由意志に委ねられるべきものであって強制される筋合いのものではない。経済的に恵まれているのは才能と努力と幸運の結果であり、それを「所得の再配分」などと称して高率の税金をかけて国家が吸い上げてみたり、慈善事業への参加を実質的に強制するといった方法で第三者が徴収するのは、単に搾取というものだろう。
人に欲望があり、それをかなえることが行動原理の基礎をなし、しかも人に得て不得手があって能力の差異がある限り、世に格差はなくならない。人に自我があり、認識活動の基本に自他の区別というものがある限り、世に差別はなくならない。当然のことだろう。勿論、格差や差別は社会不安の元であり、その解消が正義であるという考え方も当然だと思う。しかし、本源的に存在するものの表層だけを否定して取り繕ったところで、格差や差別が人の意識から消えるものではなく、かえって社会の深層に複雑な根を張り巡らせるのではないか。
司馬遼太郎の作品は、史実に基づいている上にそれらを細かく網羅しているので、ノンフィクションのように感じられることもある。しかし、ところどころに架空の人物が間合いよく埋め込まれていて、主人公や物語が引き立つようになっている。本作でも竜馬を取り巻く人々のなかに実在しなかった人があり、そうした人物との関わりを通じて竜馬像がより魅力的に描き出されている。実際の竜馬像については諸説あるようだが、その名前が今日まで残っていることは事実であり、現代日本の礎の建設に重要な役割を果たしたことは間違いなさそうだ。尤も、彼が命をかけて実現させた倒幕の果てに実現した社会が、彼の構想していたものかどうかはわからない。明治維新は多少の内戦を伴いながらも、徳川幕府から朝廷への政権返上自体は流血を伴うことなく実施された世界史にも稀な無血革命だ。しかし、多くの革命がそうであるように、政権や政体が変化したといっても、人々の暮らしが実質的に変化したわけではないようだ。
人間に限らず、生き物は欲望の塊である。人間の場合は社会という関係の構造を構築して、そのなかで自分の位置というものを求める。社会は、そこでの物事を決定する決定権者が必要とする。それが合議制の組織であるか、独裁者であるか、形態は違っていても権力の執行機関という位置づけは同じことである。人の欲望というのは際限のないものだが、その発現形態にはその人なりの個性があるものだ。人によっては権力を握ることで自己の存在を確認するものもあり、そうした人々が政治家であるとか組織内部の管理者を目指すことになるのだろう。権力獲得という彼等の本源的欲望の実現手段として、武力を行使する場合もあるだろうし、言説を駆使する場合もあるだろうし、陰謀をめぐらすこともあるだろう。いずれにしても、そうした人々は権力を掌握することが目的であって、その目的のために広げた大風呂敷を具体化することは、それが権力を維持するのに必要な場合にのみ実施に移されるものである。明治維新で幕府が倒れても、それを機に西洋の文明が取り入れられたという現象面での変化はあるにせよ、権力者が徳川家から新政府の要人に移行しただけで、社会の実質はそれほど変わらなかったのではないかと思うのである。倒幕の精神として「一君万民」という平等思想があったはずなのだが、かつての志士も権力の座に座るや、既得権を守ることに汲々とし、華族と呼ばれる貴族社会を創造するに至るのである。結局、人はヒエラルキーのなかでしか生きることができないのではないかとさえ思ってしまう。
竜馬は倒幕運動で重要な役割を果たしたという点で、時の幕府の要人と親しい関係にあったとはいいながらも、革命家であったと言えるだろう。その倒幕という志がほぼ実現したところで暗殺されてしまうが、仮に生きて明治を迎えたとして、彼はそこで次に何をしただろうかと考えずにはいられない。司馬遼太郎は「坂の上の雲」のなかでこう書いている。「多くの革命は、政権の腐敗に対する正義と情熱の持続によって成立するが、革命が成立したとき、それらはすべて不要か、もしくは害毒になる」
幕末の志士たちが明治政権の閣僚になったとき、彼等もまた権力にあぐらをかき、国家という巨大なものが自分たちの力でのみ動くものだという錯覚に陥る。その証拠に、明治から太平洋戦争に至るまで、政治の世界は薩摩か長州かというような、およそ国家あるいは国民の利害とは無関係の、矮小な門閥意識に支配されることになる。その矮小な意識が、頑迷な皇国思想という幻想に姿を変え、太平洋戦争という狂気に向かったのは歴史の教えるところだ。幕末から維新へ、それによって成立した大日本帝国から太平洋戦争へ、そして戦後の被占領期間を経て今日へと、日本の国のありようは、少なくとも外見上は大きな変化を遂げてきた。しかし、社会のありようはどれほど変わったのだろうか。竜馬が今の日本の姿を見て何を語るのか、そんなことを思いながらこの作品を読み終えた。
人間に限らず、生き物は欲望の塊である。人間の場合は社会という関係の構造を構築して、そのなかで自分の位置というものを求める。社会は、そこでの物事を決定する決定権者が必要とする。それが合議制の組織であるか、独裁者であるか、形態は違っていても権力の執行機関という位置づけは同じことである。人の欲望というのは際限のないものだが、その発現形態にはその人なりの個性があるものだ。人によっては権力を握ることで自己の存在を確認するものもあり、そうした人々が政治家であるとか組織内部の管理者を目指すことになるのだろう。権力獲得という彼等の本源的欲望の実現手段として、武力を行使する場合もあるだろうし、言説を駆使する場合もあるだろうし、陰謀をめぐらすこともあるだろう。いずれにしても、そうした人々は権力を掌握することが目的であって、その目的のために広げた大風呂敷を具体化することは、それが権力を維持するのに必要な場合にのみ実施に移されるものである。明治維新で幕府が倒れても、それを機に西洋の文明が取り入れられたという現象面での変化はあるにせよ、権力者が徳川家から新政府の要人に移行しただけで、社会の実質はそれほど変わらなかったのではないかと思うのである。倒幕の精神として「一君万民」という平等思想があったはずなのだが、かつての志士も権力の座に座るや、既得権を守ることに汲々とし、華族と呼ばれる貴族社会を創造するに至るのである。結局、人はヒエラルキーのなかでしか生きることができないのではないかとさえ思ってしまう。
竜馬は倒幕運動で重要な役割を果たしたという点で、時の幕府の要人と親しい関係にあったとはいいながらも、革命家であったと言えるだろう。その倒幕という志がほぼ実現したところで暗殺されてしまうが、仮に生きて明治を迎えたとして、彼はそこで次に何をしただろうかと考えずにはいられない。司馬遼太郎は「坂の上の雲」のなかでこう書いている。「多くの革命は、政権の腐敗に対する正義と情熱の持続によって成立するが、革命が成立したとき、それらはすべて不要か、もしくは害毒になる」
幕末の志士たちが明治政権の閣僚になったとき、彼等もまた権力にあぐらをかき、国家という巨大なものが自分たちの力でのみ動くものだという錯覚に陥る。その証拠に、明治から太平洋戦争に至るまで、政治の世界は薩摩か長州かというような、およそ国家あるいは国民の利害とは無関係の、矮小な門閥意識に支配されることになる。その矮小な意識が、頑迷な皇国思想という幻想に姿を変え、太平洋戦争という狂気に向かったのは歴史の教えるところだ。幕末から維新へ、それによって成立した大日本帝国から太平洋戦争へ、そして戦後の被占領期間を経て今日へと、日本の国のありようは、少なくとも外見上は大きな変化を遂げてきた。しかし、社会のありようはどれほど変わったのだろうか。竜馬が今の日本の姿を見て何を語るのか、そんなことを思いながらこの作品を読み終えた。
探し物があって、久しぶりに秋葉原の電気街を歩いた。少なくともここ5年ほどはご無沙汰だったのだが、その変わりように驚いた。報道で老舗電気店が閉店したり倒産したりしているのを耳にしていたので、変貌しているのはわかっているのだが、目の当たりにしてみると唖然とする思いだった。
時代が変わるのだから商店街のありようも変わるのが当然である。ただ、問題だと思うのは、閉店した店舗の後が埋まらないことだ。典型的には地方都市の所謂シャッター商店街に見られる現象だが、それはロードサイドの大型店に客が流れたというような言い訳がなされることが多い。しかし、より根本的にはその地域の商圏人口の減少という冷厳な事実があるのだろう。
秋葉原の場合はどうなのだろう。商店街のなかにコインパーキングが虫食いのように広がっている。ラオックスのコンピューター館跡は廃墟のようになっている。たしかに、かつては貨物駅があった場所が再開発され、そこにヨドバシの大型店舗が立地していることで動線に変化があったことは事実かもしれないが、それはかつての電気街の衰退の本当の原因ではないだろう。量販店にしても決して楽な商売をしているわけではあるまい。現に、勢いのあるチェーンは数えるほどしかない。
都心にありながら寂れている商店街というのは珍しいことではない。「住みたい街ランキング」の上位に入るような地域でも、例えば神楽坂は坂の上のほうにはかなり大きなコインパーキングが並んでいる。私が今暮らしている巣鴨の地蔵通り周辺にしても、人通りは多いが、出退店の回転率は決して低くはない。
端的には人口が減少に転じていることの現象面での変化がこうしたところに現れているのだろう。そうした大きな流れに加えて昨年の金融危機で、皮膚感覚としてこの国が迷走し始めているように思われる。おそらくそうした景気の低迷が先の選挙で政権が交代した原動力となっているはずだ。ところが、政権交代で前政権時代の景気対策が中途半端なまま停止してしまっているようだ。先ごろの事業仕分けなど、噴飯物だった。岡目八目ということで、思わぬ効果が現れるのかもしれないが、経済というのは結局のところマインドによって動くものだろう。総理大臣になるような人には、株の配当やら譲渡収入というような資金源が必要なように、一国の経済の振興にも消費や投資を支える安心の源のような政府や社会への信頼感が必要なのである。馬鹿丸出しの猿芝居をわざわざテレビカメラを入れて衆目に晒して、いったい何をしようというのだろう。尤も、聞くところによると、あれがけっこう大衆受けしたらしい。間抜けな国民にはこの程度の政治がちょうど身の丈に合っているのかもしれない。
かつて賑わっていた商店街跡を歩きながら、「ここは確か○○があって、あそこには△△があったっけなぁ…」などと昔日の影を思ったりする。そのうち、廃墟のようになった東京を、「昔、ここに東京という大都市があってね…」などと言いながら、今は外国の人たちが歩く時代になるのだろう。
時代が変わるのだから商店街のありようも変わるのが当然である。ただ、問題だと思うのは、閉店した店舗の後が埋まらないことだ。典型的には地方都市の所謂シャッター商店街に見られる現象だが、それはロードサイドの大型店に客が流れたというような言い訳がなされることが多い。しかし、より根本的にはその地域の商圏人口の減少という冷厳な事実があるのだろう。
秋葉原の場合はどうなのだろう。商店街のなかにコインパーキングが虫食いのように広がっている。ラオックスのコンピューター館跡は廃墟のようになっている。たしかに、かつては貨物駅があった場所が再開発され、そこにヨドバシの大型店舗が立地していることで動線に変化があったことは事実かもしれないが、それはかつての電気街の衰退の本当の原因ではないだろう。量販店にしても決して楽な商売をしているわけではあるまい。現に、勢いのあるチェーンは数えるほどしかない。
都心にありながら寂れている商店街というのは珍しいことではない。「住みたい街ランキング」の上位に入るような地域でも、例えば神楽坂は坂の上のほうにはかなり大きなコインパーキングが並んでいる。私が今暮らしている巣鴨の地蔵通り周辺にしても、人通りは多いが、出退店の回転率は決して低くはない。
端的には人口が減少に転じていることの現象面での変化がこうしたところに現れているのだろう。そうした大きな流れに加えて昨年の金融危機で、皮膚感覚としてこの国が迷走し始めているように思われる。おそらくそうした景気の低迷が先の選挙で政権が交代した原動力となっているはずだ。ところが、政権交代で前政権時代の景気対策が中途半端なまま停止してしまっているようだ。先ごろの事業仕分けなど、噴飯物だった。岡目八目ということで、思わぬ効果が現れるのかもしれないが、経済というのは結局のところマインドによって動くものだろう。総理大臣になるような人には、株の配当やら譲渡収入というような資金源が必要なように、一国の経済の振興にも消費や投資を支える安心の源のような政府や社会への信頼感が必要なのである。馬鹿丸出しの猿芝居をわざわざテレビカメラを入れて衆目に晒して、いったい何をしようというのだろう。尤も、聞くところによると、あれがけっこう大衆受けしたらしい。間抜けな国民にはこの程度の政治がちょうど身の丈に合っているのかもしれない。
かつて賑わっていた商店街跡を歩きながら、「ここは確か○○があって、あそこには△△があったっけなぁ…」などと昔日の影を思ったりする。そのうち、廃墟のようになった東京を、「昔、ここに東京という大都市があってね…」などと言いながら、今は外国の人たちが歩く時代になるのだろう。
ある雑誌のアンケートで「幸せとは」というようなことを尋ねられた。
「あなたの幸福度は100点満点で何点か」とか「幸せは何によって得られるか? - a 仕事、 b 収入、 c 家族、d 健康」といった、しょうもない質問が並んでいた。幸せというものにまで点数を付けて枠をはめてしまうという企画やアンケートを考えた人たちというのはあまり幸せではないのかもしれない。
幸せというのは、自分の外にあって獲得するものではないだろう。自分の置かれた状況のなかで、充足を感じることのできる感性あるいは才能であると思っている。したがって、それに100点満点もへったくれもない。幸せかそうでないか、二者択一でしかないだろう。感性に依存するのだから、仕事だの金だのに左右されるような幸せはそもそも存在しえない。そんなものを気にしていること自体が何より不幸に他ならない。
尤も、マスメディアというのは何事もデジタルで表示して、色のないものにも白黒つけて、読者を煽ってみたりするのが仕事だと信じて疑わない人たちが作っているのだろう。不定形のものに無理やり形を押し付けてみたり、当たり前のことをさも自分たちが発見したかのように張りぼてのような浅薄で脆弱な「ご意見」を掲げてみたり、傍目には猿芝居のようなことをして世の中をわかっているかのようなつもりでいるのがマスコミ関係者だと、私は思っている。
今年は170誌もの雑誌が休廃刊したそうだ。こうした状況の背景にはさまざまなものがあるのだろうが、ネットで代替されてしまう程度の内容しかなかったということも読者が離れてしまった理由の大きなものではなかろうか。むしろ、いままで続いていたのが幸せというものだろう。
「あなたの幸福度は100点満点で何点か」とか「幸せは何によって得られるか? - a 仕事、 b 収入、 c 家族、d 健康」といった、しょうもない質問が並んでいた。幸せというものにまで点数を付けて枠をはめてしまうという企画やアンケートを考えた人たちというのはあまり幸せではないのかもしれない。
幸せというのは、自分の外にあって獲得するものではないだろう。自分の置かれた状況のなかで、充足を感じることのできる感性あるいは才能であると思っている。したがって、それに100点満点もへったくれもない。幸せかそうでないか、二者択一でしかないだろう。感性に依存するのだから、仕事だの金だのに左右されるような幸せはそもそも存在しえない。そんなものを気にしていること自体が何より不幸に他ならない。
尤も、マスメディアというのは何事もデジタルで表示して、色のないものにも白黒つけて、読者を煽ってみたりするのが仕事だと信じて疑わない人たちが作っているのだろう。不定形のものに無理やり形を押し付けてみたり、当たり前のことをさも自分たちが発見したかのように張りぼてのような浅薄で脆弱な「ご意見」を掲げてみたり、傍目には猿芝居のようなことをして世の中をわかっているかのようなつもりでいるのがマスコミ関係者だと、私は思っている。
今年は170誌もの雑誌が休廃刊したそうだ。こうした状況の背景にはさまざまなものがあるのだろうが、ネットで代替されてしまう程度の内容しかなかったということも読者が離れてしまった理由の大きなものではなかろうか。むしろ、いままで続いていたのが幸せというものだろう。
粋な作品だ。私のなかでは確実に「名作」のひとつに数えることができる。
「縁は奇なもの味なもの」という言葉を地で行くような物語である。街道沿いにぽつんと一軒だけあるカフェが舞台だ。大喧嘩をして亭主を追い出した直後のカフェの女主人ブレンダと、やはり大喧嘩をして夫が運転する車を降りて街道の路肩を歩いてこのカフェにたどり着いた旅行中のドイツ人女性ジャスミンが、奇妙な友情を確立するまでが描かれている。
モーテルを併設したカフェを営業しながら、宿泊したいという客が現れると警戒するブレンダも妙だが、宿泊客がいないことが当然のように荒れ果てた宿に泊まって、それを掃除したり手入れをしたりするジャスミンも妙だ。ただ、部屋や事務所がきれいに片付けられたことに腹を立てるブレンダの気持ちはわからないでもない。傍目には荒れていても、当事者にとってはそれなりの秩序があるということは珍しいことではない。要するに自己の領域というものが誰にでもあるということだ。
この場末のカフェの何が気に入ったのかわからないが、ジャスミンはこの場所に馴染もうと一生懸命の行動を始める。掃除もそのひとつだし、ブレンダの子供たちとも積極的に関わろうとする。それがブレンダの側にすれば、縄張りを侵されているように感じるのだろう。敵意をむき出しにしてみたり、保安官を呼んで追い出しを図ってみたりするが、それがジャスミンの一生懸命さを煽ることになってしまう。ジャスミンには子供がいない。そのことが彼女にとっては何か意味があるようなのだが、その事情はわからない。彼女の荷物のなかに何故か手品セットがある。本職が使う小道具ではなく、玩具店などで売られている類のものだ。それを取り出して練習を始め、その成果をカフェの客を相手に披露すると、たちまち評判になる。その評判というのが、トラック運転手どうしの無線を通じて広がるというのもおもしろい。
それまで日に数えるほどしか客が来ないカフェにマジックショー目当てに大勢のトラック運転手が押しかけるようになる。その頃にはジャスミンとブレンダとはすっかり打ち解けている。しかし、ここで問題が起こる。ジャスミンは観光目的で入国しているので労働行為は違法である。カフェでマジックショーというのはまずいのである。ようやく居場所を確保できたと思った矢先にジャスミンは帰国を余儀なくさせられてしまう。彼女のマジックショーを取り締まったのは、トラック運転手の間の無線を傍受して事態を知った保安官だった。無線で広がった評判が無線が原因で打ち消されてしまう皮肉。
カフェはブレンダの家族と、調理場を任されているインディアン風の青年が切り盛りしている。ほかに、宿に居ついてトラックの運転手相手に商売をしている若い女性の彫物師、カフェの前に停めたキャンピングカーで生活する自称「映画セットの背景画の絵描き」が絡む。さらに、ジャスミンが転がり込むのと同時期にブーメランをたくさん抱えた青年バックパッカーがどこからともなく現れて、カフェの敷地内でテント生活を始める。
客が少なかった時は、ブレンダは何かにつけ亭主や子供たちを怒鳴りつけ、カフェ全体がとっつきにくい雰囲気で、そこに変わり者の彫師と絵描きが居候のように居ついていたのだが、マジックショーで活気付くとブレンダの怒鳴り声も聞かれなくなり、カフェ全体が和気藹々とした雰囲気になる。すると、彫師が出て行くと言い出す。ブレンダが理由を問うとその答えは”too much harmony”だというのである。人と人との心地よい距離というのは誰にとっても同じではない。他人と上手く付き合うというのは容易なことではない。
再びバグダッド・カフェに静寂の日々が戻る。そこへジャスミンが現れる。客が潮の満ち引きのように増えたり減ったりするのも、ジャスミンがドイツへ一旦帰ってから戻ってくるのも、バックパッカーの青年が投げるブーメランの動きのようだ。そして、物事はブーメランのように、時に暴投になったりもする。それもまた愉しいと思えるような人でありたいと、ふと思う。
ラストシーンは落語の下げのようだ。この作品は米国を舞台にしているがクレジットではドイツ映画ということになっている。日本とは無縁のはずなのだが、脚本家や監督はひょっとして落語を知っているのではないかと思って、なんとなく仲間意識を感じてしまう、とても単純な私であった。
「縁は奇なもの味なもの」という言葉を地で行くような物語である。街道沿いにぽつんと一軒だけあるカフェが舞台だ。大喧嘩をして亭主を追い出した直後のカフェの女主人ブレンダと、やはり大喧嘩をして夫が運転する車を降りて街道の路肩を歩いてこのカフェにたどり着いた旅行中のドイツ人女性ジャスミンが、奇妙な友情を確立するまでが描かれている。
モーテルを併設したカフェを営業しながら、宿泊したいという客が現れると警戒するブレンダも妙だが、宿泊客がいないことが当然のように荒れ果てた宿に泊まって、それを掃除したり手入れをしたりするジャスミンも妙だ。ただ、部屋や事務所がきれいに片付けられたことに腹を立てるブレンダの気持ちはわからないでもない。傍目には荒れていても、当事者にとってはそれなりの秩序があるということは珍しいことではない。要するに自己の領域というものが誰にでもあるということだ。
この場末のカフェの何が気に入ったのかわからないが、ジャスミンはこの場所に馴染もうと一生懸命の行動を始める。掃除もそのひとつだし、ブレンダの子供たちとも積極的に関わろうとする。それがブレンダの側にすれば、縄張りを侵されているように感じるのだろう。敵意をむき出しにしてみたり、保安官を呼んで追い出しを図ってみたりするが、それがジャスミンの一生懸命さを煽ることになってしまう。ジャスミンには子供がいない。そのことが彼女にとっては何か意味があるようなのだが、その事情はわからない。彼女の荷物のなかに何故か手品セットがある。本職が使う小道具ではなく、玩具店などで売られている類のものだ。それを取り出して練習を始め、その成果をカフェの客を相手に披露すると、たちまち評判になる。その評判というのが、トラック運転手どうしの無線を通じて広がるというのもおもしろい。
それまで日に数えるほどしか客が来ないカフェにマジックショー目当てに大勢のトラック運転手が押しかけるようになる。その頃にはジャスミンとブレンダとはすっかり打ち解けている。しかし、ここで問題が起こる。ジャスミンは観光目的で入国しているので労働行為は違法である。カフェでマジックショーというのはまずいのである。ようやく居場所を確保できたと思った矢先にジャスミンは帰国を余儀なくさせられてしまう。彼女のマジックショーを取り締まったのは、トラック運転手の間の無線を傍受して事態を知った保安官だった。無線で広がった評判が無線が原因で打ち消されてしまう皮肉。
カフェはブレンダの家族と、調理場を任されているインディアン風の青年が切り盛りしている。ほかに、宿に居ついてトラックの運転手相手に商売をしている若い女性の彫物師、カフェの前に停めたキャンピングカーで生活する自称「映画セットの背景画の絵描き」が絡む。さらに、ジャスミンが転がり込むのと同時期にブーメランをたくさん抱えた青年バックパッカーがどこからともなく現れて、カフェの敷地内でテント生活を始める。
客が少なかった時は、ブレンダは何かにつけ亭主や子供たちを怒鳴りつけ、カフェ全体がとっつきにくい雰囲気で、そこに変わり者の彫師と絵描きが居候のように居ついていたのだが、マジックショーで活気付くとブレンダの怒鳴り声も聞かれなくなり、カフェ全体が和気藹々とした雰囲気になる。すると、彫師が出て行くと言い出す。ブレンダが理由を問うとその答えは”too much harmony”だというのである。人と人との心地よい距離というのは誰にとっても同じではない。他人と上手く付き合うというのは容易なことではない。
再びバグダッド・カフェに静寂の日々が戻る。そこへジャスミンが現れる。客が潮の満ち引きのように増えたり減ったりするのも、ジャスミンがドイツへ一旦帰ってから戻ってくるのも、バックパッカーの青年が投げるブーメランの動きのようだ。そして、物事はブーメランのように、時に暴投になったりもする。それもまた愉しいと思えるような人でありたいと、ふと思う。
ラストシーンは落語の下げのようだ。この作品は米国を舞台にしているがクレジットではドイツ映画ということになっている。日本とは無縁のはずなのだが、脚本家や監督はひょっとして落語を知っているのではないかと思って、なんとなく仲間意識を感じてしまう、とても単純な私であった。
この作品に関しては何も言うことはない。人間の愚かしさを突きつけられたようで、言葉が無いのである。
冒頭の狂ったような犬の姿は、人間性とやらの一面の象徴なのだろう。畜生の姿を使って客体化をしているが、人も畜生も生を貪るのがその本能であるというのは同じだ。ほぼ全編がアニメーションだが、最後のシーンだけが実写になる。アニメという様式で描くことで、他人事のように見えていたものが実写になることで、その内容がいつ自分に降りかかってもおかしくない現実のことなのだ、というふうな製作意図があるのかもしれない。しかし、このような小細工は蛇足ではないか。こんなことをしなくとも、人も畜生も根元は同じだということは、痛いほどによくわかる。
人にはそれぞれに物事を俯瞰する際の居心地のよい立ち位置というものがある。最後の実写など無くても、作品の中の世界を敏感に認識できる人もいれば、全編実写でも自分には無関係のことにしか思えない人もいる。誰にでも理解できるようなものは、それなりの浅薄なものでしかないということであり、真に伝えたいことがあるのなら、伝える相手にもリテラシーを要求せざるを得ないのではないか。妙な妥協をしないと制作費を賄うスポンサーが付かないということなら、そうした小細工もやむを得ないのかもしれない。
世の中で公開されている映画の圧倒的多数は程度の差こそあれ、エンターテインメントであろう。それを観ることで素朴に楽しいとか面白いとか思えるようなものであるからこそ、世情の話題になり、話題になるからこそ、いくばくかの費用を投じてでも観ようと思うものだろう。物語を創造するというのは無から有を創り出すようなものなので、創り出した分は作り手や関係者の利益となるはずだ。創り出したもの、とは端的には興行収入である。もちろん、どの程度の費用をかけて創り出すのかということにも拠るが、そもそもは無から創造するのだから、収入があるというだけでも驚異的なレバレッジが利いているわけであり、観客動員力に秀でた俳優や関係者が巨額のギャラを手にするのは当然のことなのである。
では、観るべき作品とは、そのような誰もが楽しめるようなものだけなのだろうか。興行収入を得るという目的を追求するならば、世に存在しうる作品は、そのようなものに行き着かざるを得ないだろう。しかし、それが文化であり文明というものだ、と言われてしまうと釈然としない。価値というものの尺度を金銭に求めれば、収益の極大化は我々が暮らす市場経済の掟なのだから仕方が無い。釈然としないのは、人間というものが市場というものだけに収まりきれるものではないからだ。
収まりきれないものを無理に収めようとするところに様々な歪みが生じるのは当然だ。犯罪も戦争も病も結局のところはそうした歪みが具象化したものではないか。個人も社会もそれぞれの規模に応じてそれぞれの歪みを抱えているのだと思う。その歪みを発散させるのも芸術やエンターテインメントの役割ではないだろうか。発散の方法は一様ではないが、歪みと真正面から向かい合うというのもひとつだろう。
ここ数年の間に観た作品のなかでは、この「戦場でワルツを」のほかに「亀も空を飛ぶ」や「ホテル・ルワンダ」が直視系としてすぐに思い浮かぶ。どれも今の日本人には絶対に撮ることのできない作品だろう。なぜなら、この種の修羅場を我々は経験していないから、そのような現実が存在することを想像することもできないし、存在することくらいは想像できたとしても、自分がその場面に立ち会っていることは考えも及ばないからだ。
そういうことの想像力が働かないということは、おそらく恐ろしく幸運なことなのだと思う。
冒頭の狂ったような犬の姿は、人間性とやらの一面の象徴なのだろう。畜生の姿を使って客体化をしているが、人も畜生も生を貪るのがその本能であるというのは同じだ。ほぼ全編がアニメーションだが、最後のシーンだけが実写になる。アニメという様式で描くことで、他人事のように見えていたものが実写になることで、その内容がいつ自分に降りかかってもおかしくない現実のことなのだ、というふうな製作意図があるのかもしれない。しかし、このような小細工は蛇足ではないか。こんなことをしなくとも、人も畜生も根元は同じだということは、痛いほどによくわかる。
人にはそれぞれに物事を俯瞰する際の居心地のよい立ち位置というものがある。最後の実写など無くても、作品の中の世界を敏感に認識できる人もいれば、全編実写でも自分には無関係のことにしか思えない人もいる。誰にでも理解できるようなものは、それなりの浅薄なものでしかないということであり、真に伝えたいことがあるのなら、伝える相手にもリテラシーを要求せざるを得ないのではないか。妙な妥協をしないと制作費を賄うスポンサーが付かないということなら、そうした小細工もやむを得ないのかもしれない。
世の中で公開されている映画の圧倒的多数は程度の差こそあれ、エンターテインメントであろう。それを観ることで素朴に楽しいとか面白いとか思えるようなものであるからこそ、世情の話題になり、話題になるからこそ、いくばくかの費用を投じてでも観ようと思うものだろう。物語を創造するというのは無から有を創り出すようなものなので、創り出した分は作り手や関係者の利益となるはずだ。創り出したもの、とは端的には興行収入である。もちろん、どの程度の費用をかけて創り出すのかということにも拠るが、そもそもは無から創造するのだから、収入があるというだけでも驚異的なレバレッジが利いているわけであり、観客動員力に秀でた俳優や関係者が巨額のギャラを手にするのは当然のことなのである。
では、観るべき作品とは、そのような誰もが楽しめるようなものだけなのだろうか。興行収入を得るという目的を追求するならば、世に存在しうる作品は、そのようなものに行き着かざるを得ないだろう。しかし、それが文化であり文明というものだ、と言われてしまうと釈然としない。価値というものの尺度を金銭に求めれば、収益の極大化は我々が暮らす市場経済の掟なのだから仕方が無い。釈然としないのは、人間というものが市場というものだけに収まりきれるものではないからだ。
収まりきれないものを無理に収めようとするところに様々な歪みが生じるのは当然だ。犯罪も戦争も病も結局のところはそうした歪みが具象化したものではないか。個人も社会もそれぞれの規模に応じてそれぞれの歪みを抱えているのだと思う。その歪みを発散させるのも芸術やエンターテインメントの役割ではないだろうか。発散の方法は一様ではないが、歪みと真正面から向かい合うというのもひとつだろう。
ここ数年の間に観た作品のなかでは、この「戦場でワルツを」のほかに「亀も空を飛ぶ」や「ホテル・ルワンダ」が直視系としてすぐに思い浮かぶ。どれも今の日本人には絶対に撮ることのできない作品だろう。なぜなら、この種の修羅場を我々は経験していないから、そのような現実が存在することを想像することもできないし、存在することくらいは想像できたとしても、自分がその場面に立ち会っていることは考えも及ばないからだ。
そういうことの想像力が働かないということは、おそらく恐ろしく幸運なことなのだと思う。
愛だの恋だのというのはある種の宗教だ。信じている限りにおいて幸福だが、醒めてしまえば他人事でしかない。苦痛に苛まれているときの鎮痛剤のようなものとも言える。
主人公のレオンは病院の焼却炉で廃棄物の処理を担当している。同じ病院に働く看護師のアンナのことが気になってしょうがない。彼女は病院の寮に住んでいるが、その部屋がレオンの家から遠くに見える。レオンの仕事は多忙というわけではないようだ。白昼、近所の川へ釣に出かける余裕がある。ある日、彼は釣をしていて雨に降られた。雨宿りに飛び込んだ納屋でアンナが見知らぬ男に陵辱されていた。すぐに助ければ彼の株が上がったのだろうが、彼は恐怖のあまり立ちすくんでしまい、警察を呼びに近くの公衆電話に走るのがやっとだった。生憎、アンナも恐怖のあまり相手の顔を記憶していない。現場にはレオンの釣道具が散乱し、しかも彼が唯一の目撃者でもある。結局、彼が犯人ということになり、裁判で一貫して罪状を否認するのだが、有罪になってしまう。
それでアンナへの熱が冷めればよかったのだが、相変わらず熱い。彼は相変わらず毎夜、彼女の部屋の窓をじっと見つめている。そして、彼女のある習慣を発見する。夜、病院勤務から帰宅すると、お茶を淹れるのである。そのお茶に入れる砂糖の瓶が窓辺に置いてある。彼女は猫を飼っていて、窓には猫が出入りできるように小さな区画が開くようになっている。彼はそこから腕を突っ込んで内側の鍵を開け、窓辺にある砂糖の瓶に睡眠薬を混ぜて戻しておく。帰宅後、彼女はお茶を飲んで、ほどなく就寝するのだが、睡眠薬の所為で多少の物音では目覚めない。彼女が寝入った頃、彼が窓から彼女の部屋に侵入するのである。
といって、何をするというわけではない。彼女の服のボタンが取れそうになっているのを見つければ、それを繕うし、部屋に友人を呼んで飲んで酔ってそのまま眠っていれば、そこに毛布をかけてやったりする。それは彼にとっては至福の時間だったのだが、4日目に彼女の鳩時計を一旦自宅に持ち帰り、修理して彼女の部屋へ戻しに行くところをパトロール中の警察官に見つかり逮捕されてしまう。
映画は、彼が逮捕されるまでの物語と、逮捕されてから裁判、懲役を経て釈放されるまでを、交互に見せる。それは、彼女への熱い想いというファンタジーの世界と、警察での取調べや裁判、刑務所での日々という現実の世界とを対比させているかのようだ。逮捕前と逮捕後を結婚前と結婚後というふうに読み替えることもできると思うのだが、このような見方はいささか個人的な経験に走りすぎだろうか。
主人公のレオンは病院の焼却炉で廃棄物の処理を担当している。同じ病院に働く看護師のアンナのことが気になってしょうがない。彼女は病院の寮に住んでいるが、その部屋がレオンの家から遠くに見える。レオンの仕事は多忙というわけではないようだ。白昼、近所の川へ釣に出かける余裕がある。ある日、彼は釣をしていて雨に降られた。雨宿りに飛び込んだ納屋でアンナが見知らぬ男に陵辱されていた。すぐに助ければ彼の株が上がったのだろうが、彼は恐怖のあまり立ちすくんでしまい、警察を呼びに近くの公衆電話に走るのがやっとだった。生憎、アンナも恐怖のあまり相手の顔を記憶していない。現場にはレオンの釣道具が散乱し、しかも彼が唯一の目撃者でもある。結局、彼が犯人ということになり、裁判で一貫して罪状を否認するのだが、有罪になってしまう。
それでアンナへの熱が冷めればよかったのだが、相変わらず熱い。彼は相変わらず毎夜、彼女の部屋の窓をじっと見つめている。そして、彼女のある習慣を発見する。夜、病院勤務から帰宅すると、お茶を淹れるのである。そのお茶に入れる砂糖の瓶が窓辺に置いてある。彼女は猫を飼っていて、窓には猫が出入りできるように小さな区画が開くようになっている。彼はそこから腕を突っ込んで内側の鍵を開け、窓辺にある砂糖の瓶に睡眠薬を混ぜて戻しておく。帰宅後、彼女はお茶を飲んで、ほどなく就寝するのだが、睡眠薬の所為で多少の物音では目覚めない。彼女が寝入った頃、彼が窓から彼女の部屋に侵入するのである。
といって、何をするというわけではない。彼女の服のボタンが取れそうになっているのを見つければ、それを繕うし、部屋に友人を呼んで飲んで酔ってそのまま眠っていれば、そこに毛布をかけてやったりする。それは彼にとっては至福の時間だったのだが、4日目に彼女の鳩時計を一旦自宅に持ち帰り、修理して彼女の部屋へ戻しに行くところをパトロール中の警察官に見つかり逮捕されてしまう。
映画は、彼が逮捕されるまでの物語と、逮捕されてから裁判、懲役を経て釈放されるまでを、交互に見せる。それは、彼女への熱い想いというファンタジーの世界と、警察での取調べや裁判、刑務所での日々という現実の世界とを対比させているかのようだ。逮捕前と逮捕後を結婚前と結婚後というふうに読み替えることもできると思うのだが、このような見方はいささか個人的な経験に走りすぎだろうか。