熊本熊的日常

日常生活についての雑記

移動日

2015年05月31日 | Weblog

4時半頃起床して5時過ぎには宿を出る。京急蒲田5:19発の電車で羽田空港へ向かう。フライトのチェックインを済ませてからクレジットカード会社のラウンジでくつろぐ。

AF0279は機材がB777-300なのだが、一見してトイレが少ない。客を積めるだけ積み込もうという意欲満点だ。昔の空の旅というのはオツなものだったのだろうが、いつのまにかセコイものに成り下がった。もっとも、こちらが払う料金が、移動距離とその所要時間を考えればタダみたいなものなので、セコイのは当たり前だ。不平不満などあろうはずもなく、空気の代わりにそっと乗せていただいているようなものなのだ。パリには定刻に到着。ミュンヘンへのフライトに乗り継ぐため、空港内を別のターミナルへ移動する。昨年パリを訪れたときの帰りにアムステルダムへのフライトで利用したのがF33というゲート。今回ミュンヘンへのフライトが出るゲートがF30。同じ棟だ。なんとなく昨年の旅行からつながっている感じがする。

ミュンヘンには予定通りに到着。空港からルフトハンザのバスで中央駅へ向かう。バスは空港内で3箇所ほど停留所に停まり、空港を出るときにはほぼ満席となった。中央駅までの所要時間は40分ほど。バスを降りたのは21時過ぎで、そこから目と鼻の先にあるホテルにチェックインして一息ついたのは21時半を回った頃だが、まだ夕暮れ時だ。部屋は広くて快適そうだった。


地震雲

2015年05月30日 | Weblog

何日か前、電車の窓から外を眺めていて、妻が「地震雲だ」と空をさした。層状の雲が夕暮れの赤みかかった空に広がっていた。今日、夕飯を食べようと蒲田の商店街を歩いていたら地面が揺れているのを感じた。外を歩いていて感じるのだからかなりの規模だろうと思った。揺れを感じたのが、ちょうど韓国料理屋の前だったので、これも縁だと思ってそこに入った。席について料理を注文して一段落してから携帯電話を見ると小笠原のあたりの深いところを震源とする地震で、都内は震度4くらいだったとのこと。震度4なら鉄道はすべて一旦止まってしまう。このところ火山の噴火だの地震だのと日本列島は大揺れだ。

常々不思議に思っているのだが、世間ではコスト削減とやらでさまざまなことが自動化省人化されている。背景には情報通信技術の進歩があって、なんでも遠隔で操作できるようになっている。また、電子機器は小型化を超えて微細化が進み、人間の眼では見えないところで動作する機器類ばかりになっている。このブログを書いているパソコンが典型的な例で、キーボードを打ったとき、それがどのようなメカニズムで文字を表現するのか、見た目では全くわからない。要するになんだかよくわからないけれど動作するもので生活が成り立っているのである。

昔はたぶん違っていた。例えば、鉄道の運転手というのは、ドライバーが1本あれば多少の故障は自分で直すことができたそうだ。今は、不具合が発生しても自分ではどうすることもできないようなことが殆どだという。東京大空襲のときでも、山手線は爆撃を受けた箇所に応急処置を施しながら運転をしたのだそうだ。8月6日に原爆が落ちた広島の路面電車は8月9日には運転再開にこぎつけた路線があったそうだ。あれから70年。今、同じことが起こったとして、同じように運転を続けたり再開したりすることができるだろうか?広島銀行は8月8日に比較的被害が軽かった日銀広島支店の一画を借りて営業を再開したそうだ。今、そんなことができるだろうか?そんなことが可能だったのは、機械は人間の手で直すことができる程度に仕組みが見えたからであり、銀行員の記憶が客を識別できたからであろう。人間の感覚を超えて複雑化した機構や仕組みは、それを稼働させる動力源を喪失したらただのゴミである。

なんだか知らないが、自動化だの省力化だのが世のため人のためになっていると盲目的に信じている人ばかりのような気がしている。自分の創意工夫のなかで物事が容易になるというのはよいのだが、自分の理解を超えたもので結果だけを与えられる生活というのはなんだか居心地が悪い。天災の報道を見聞きしたり、こうして大きな地震に遭ったりするたびに、そんな居心地の悪さを改めて思う。


絵のある暮らし

2015年05月29日 | Weblog

アートフェアで熊谷守一の作品を見かけて惹かれてしまった、という話は以前に書いた。その後、何度か千早の美術館を訪れ、今月半ばに館内に販売用として飾られていたリトグラフの「御嶽」を購入した。最初、絶筆の「あげ羽蝶」にしようと思ったのだが、リトグラフが実物の四分の一のサイズでちょっと印象が違ってしまい、買おうか買うまいか迷ってしまった。その時、同じ壁面の入り口側に飾られていた「御嶽」を妻が眺めていて「これいいね」と言った。なるほどいいなと思い購入したのである。今日、額装されたものが届いたので、さっそく玄関に飾った。写真だと伝わらないのだが、我が家のような粗末なところでも、たとえリトグラフとはいえ気に入った作品が飾ってあるとその場の空気が変わるような気がする。これには美術館の館長である榧さんが同作品の絵葉書に作品の説明を書いてくださり、そういう心遣いにも感激してしまった。

自分の生活の場に絵や写真を飾るようになったのは2012年からだ。前年末に勤務先から解雇され、気分を変えようと僅かばかりの退職金でそれまでの自分なら買わないようなものを買ってみようと版画を買った。たまたま或る新聞社のサイトで山口晃がアダチと組んで制作した浮世絵作品「新東都名所 東海道中 日本橋 改」について語っている動画を見て、興味を惹かれてその場でアダチのサイトから購入予約をしたのである。版画が特別好きというわけではないのだが、気に入った肉筆画を買うほどの余裕はなく、かといって内容の無いものを買う気もなく、結果として版画になる。いつかは肉筆画をポンと買えるようになりたいとは思っているが、それがいつのことになるのか具体的な目処は残念ながらまだない。

部屋に何かを飾ることで化学反応のようにその場の空気が変化するという経験をすると、それが病みつきになる。また、同じ作品がいつも同じに見えるわけではないということも経験することになる。そういうことが愉快なのである。


そうだ アウグスブルク行こう

2015年05月28日 | Weblog

アウグスブルクという町がずっと気になっていた。1989年の夏とクリスマス、1990年の夏を過ごした土地だ。滞在期間が通算3ヶ月半と短い所為もあって、良い印象しか残っていない。いつか再訪したいと思いながら今に至ってしまった。2014年6月に思い立って当時通っていた語学学校にメールを送ってみた。その学校はご夫婦で運営されていた小さな学校だった。生徒のほとんどはイタリアやスペインの10代の子供達で、現地在住のタイ人や韓国人の家庭の子供達もいた。ネットで検索してみると学校は大きくなったが、経営陣や講師陣に創業夫婦の名前はなかった。それでもなにか反応があるかもしれないと思って送ってみたが、返信はなかった。結局、昨年の休暇はパリですごすことにした。そのときのことはこのブログにも書いた。

今年は縁のある人がいようがいまいが、とにかくアウグスブルクへ行ってみようと思ったのである。2月の中旬にネットでミュンヘンまでの往復のフライトを予約した。昨年のパリ同様、羽田発の朝の便だったので出発前日の夜は蒲田に宿を取った。フライトは2人でサーチャージ類一切込みで234,460円。昨年のパリは往路が直行便で復路がワンストップであったが、今回は往復ともワンストップという所為もあり、昨年のパリ往復に比べて72,040円安くなった。一昨年にロンドンへ遊びに出かけた時は往復直行便であった所為もあり、フライトには426,700円かかった。回を重ねる毎に40万円台、30万円台、20万円台とコストが下がっている。この調子でいくと再来年あたりはタダになるのではないかと期待している。

毎年ヨーロッパへ行かなくてもよいのだが、いつ死んでもおかくない年齢になると見たいところ行きたいところにふらりとでかけてみたくなるのである。それがたまたまロンドン、パリ、ミュンヘン(アウグスブルク)だったというだけのことだ。これまでのところはいずれも自分が知っていて再訪したい場所だった。まずはそういうところを優先するものだ。自分というものを形作っってきたものに素朴に好奇心を覚えるのである。やはりどこも自分にとっては異文化の地であり、そういう場所で短期間でも生活をしたという経験がいろいろな面において刺激となったのは確かだと思う。そういう意味ではマンチェスターやインドへも行ってみたい。

フライトを予約した同じサイトで宿を予約することもできたのだが、どれも高く感じられてとりあえずは見送った。昨年のパリの宿を予約したサイトでは、海外のホテルは某外資サイトを経由していることがわかったので、その外資サイトへ直接アクセスして駅前のホテルをとりあえずおさえた。結果としてそこに宿泊した。ちなみに宿の費用は一昨年のロンドンが7泊で875ポンド(朝食付き、現地精算)、昨年のパリは6泊で82,823円(朝食別、予約時支払)、今年のミュンヘンは6泊で737.6ユーロ(朝食別、現地精算)だ。今年は直前まで無料でキャンセル可能で、しかも宿泊前の支払は一切なしという、こちらにとってはありがたいシステムだった。尤も、旅行の段になって円安が進んだので、結果としては予約時に支払も済ませておいたほうが割安ではあった。

ミュンヘンでもアウグスブルクでも、楽しかったという印象は鮮明なのに、いざ再訪の計画を考えようとすると、多くの細かな記憶が失われている。忘れる、というのは精神の健康にはある程度重要な作用なのだろうが、印象だけ残って実体が無いというのは寂しいことである。