今回の旅行でやってみたかったことのひとつに在来線をいろいろ乗ってみるということがある。初日に乗った福塩線、昨日は山陽本線、今日は伯備線と吉備線だ。福塩線は期待以上に楽しかった。ああいう乗り心地の線というのは今ではかなり貴重なのではないか。倉敷の駅も面白い。蔵の街としてブランディングを図っているのだろう。駅の施設も海鼠壁風の装飾が施してある。発想としては安直だが、そういう安っぽさが親しみやすさにつながらないとも限らない。吉備線は非電化でたまに桃太郎をモチーフにしたイラストが描かれた車両にも遭遇する。おそらくデザイナーに依頼して考えてもらったのだろうが、こういうのはつまらないと思う。
吉備津神社を訪れることはあらかじめ決めていた。宿をどこに取るかというのは少し迷った。最初、岡山で探したのだが、適当なところが見つからなかったので、倉敷にしたのである。倉敷から吉備津神社へ行くには、山陽本線で岡山に出て、吉備線に乗り換えるのが手っ取り早い。しかし、倉敷は山陽本線と伯備線の分岐駅だ。伯備線に乗らないという選択肢はないのである。
ところで伯備線といえばD51の三重連が牽く貨物列車が名物だった。特に布原信号所と新見の間の橋渡る姿はD51の写真の定番のようなもので、私の家にも従兄弟が作ってくれた大きなパネルがあった。今はすでに電化されて久しく、今日は113系の普通列車で倉敷から総社までのささやかな旅路だ。
総社で吉備線に乗り換える。ここからは非電化単線だ。キハ40系の賑やかな床下を感じつつ田園風景のなかをゆっくり走る。キハ40もそろそろ引退だろう。近頃は非電化区間を蓄電池とモーターで駆動する機関車や列車で運用しようなどと大胆なことになっているようだが、非電化区間というのは要するに何もない土地なのである。田園地帯や山林地帯をドッドッドッと静寂を破るように走るところに生活の存在感とか鉄道というものがあることの安心感といったものがあるのではないか。COxの排出規制など糞食らえだ。ものすごい勢いで世界人口が増えているのだから、小手先の延命策など焼け石に水だ。気象は時時刻々人間の生活に対する脅威の度合いを増すことはあっても穏やかになることなどあるわけがない。そんなことは誰でもわかりそうなものだが、深刻に考えるふりをして、毎年のようにどこかで国際会議を催してどうでもよいことを決めて、遊びに来たんじゃないのよ、みたいな顔をしている人たちがいる。日本でも何年か前に京都で会議が開かれて京都議定書が作られた。京都のほかにどこで開かれたのかと思ったら、京都の次がブエノスアイレス、ほかにマラケシュ、ニューデリー、ミラノ、モントリオール、ナイロビ、バリ、ポンツァ、コペンハーゲン、カンクン、ダーバン、ドーハ、ワルシャワ、リマ、パリなどなど。なんだか観光地ばかりのような気がする。地球環境のことを真剣に議論しようというのなら、サハラ砂漠の真ん中あたりで命がけでやったほうが実ある議論になるのではないか。要するに、キハ40のエンジン音がいいじゃないか、ということだ。
それで総社を発車した吉備線のキハ40だが、順調に走行を続ける。一時間に上下各2本かそこらのダイヤなのだから順調でなくてどうする、ということだ。が、備中高松で下り列車との列車交換を待っていて、その下り列車が近づいて駅のすぐ脇の踏切の遮断機が閉まりかかったところをトラックが通過して遮断機を破壊してしまったのである。下り列車は踏切を目前にして停車し、私たちの乗っている岡山行きは発車できなくなってしまった。たまにしか閉じない踏切なのだからおとなしく停車して列車の通過を待てばよさそうなものだが、よほど急いでいたのか、あるいはぼんやりしていたのか、警報機が鳴って遮断機が下りることの意味を理解できないのか、いずれにしてもトラックを運転していた奴はろくなもんじゃない。自慢じゃないが、私たちが暮らす京王線沿線では踏切というものは滅多に開かないというのが常識だ。聞いたところによれば、ある踏切は一時間のうち52分間閉じたままの時間帯があるそうだ。これほど閉じっぱなしなら、そもそも踏切など設けないほうがよさそうなものだと思う。そう思うのは私だけではないようで、かなり以前から高架化の話があって、沿線の用地買収は少しずつやっているようだ。
それで備中高松だが、遠くに巨大な鳥居が見える。このまま列車が動かないようならここで下車してあの鳥居の神社に参拝しようかという話もちらっと出たのだが、幸いにして備中高松駅から保線員の姿のおじさんが踏切のほうへ道具袋のようなものを持って走って行ったのが見えたのと、巨大な鳥居ということは本殿はうんと先ということである、ということでもあり、このまま発車を待つことにした。その鳥居の主は最上稲荷だ。確かに駅からかなり遠い。幸い踏切の応急修理がすぐに終わって、列車は約10分遅れで吉備津駅に着いた。
吉備津駅を下りて岡山方面へちょっと行ったところに大きな鳥居がある。先ほどの最上稲荷の鳥居よりはこじんまりとしている。つまり、この鳥居と目指す吉備津神社との距離はそれほど遠くはないということである。吉備津神社は本殿が国宝だ。「芸術新潮」の2016年8月号には「厳島神社と並ぶ神社建築の最高峰」との記述がある。なにがどういう点で「最高峰」なのかということについては触れていないようだが、ま、諸々「最高峰」なのだろう。そういう神社だから参拝客がわんさか往来してたいへんなのではないかと多少の覚悟はしていた。駅近くの鳥居を前にしたとき、参拝客と思しき人影は私たち夫婦のほかに誰もいない。人混みが嫌いな割に、こういう場面では不安になる。我ながら我儘だと思う。しかし、神社や寺の参道というのは静かなほうがいい。
参道の突き当たりに丘というか山というか高いところがあって、そこに吉備津神社の本殿拝殿がある。この山こそは名山「吉備の中山」だ。「名山」というのは山容が美しく昔から多くの和歌に詠まれているということなのだそうだ。その山の麓のところが駐車場だがあまり車がいない。たぶん初詣のときには溢れんばかりの大混雑になるのだろうが、普段はこんなものだ。オフとピークの差が大きいと設備のサイズをどうするかというのは難しい問題だ。ま、そんなことはともかく、本殿拝殿へ至る階段の登り口に手水場がある。ここで手を清めて階段を登る。登ったところが拝殿だ。これまでに訪れた大きな神社に比べると間口と建物の高さのバランスが高さ方向に偏っている。間口はそれほどでもないのに天井の位置が妙に高いのである。拝殿を正面に見て右手に回ると迴廊が伸びている。とりあえず迴廊を歩いてみるが、迴廊だからといって本殿の周りをぐるっと回っているわけではなく、一直線でおしまいだ。迴廊の終わりのあたり、吉備津神社の外側に宇賀神社がある。吉備津の摂社かもしれないが、周囲に池が巡りなかなかに立派なので後でお参りすることにする。宇賀神社の手前に弓道場があって、女子高生が練習している。弓道場と宇賀神社の間に御竈殿がある。この竈の下に温羅という鬼の首が埋められているらしい。ここで鳴釜神事が行われる。吉備津の境内に戻り国宝の本殿を外からじっくりと眺めてみる。
参詣を終えて階下の駐車場の片隅にある土産物屋を覗いてみる。まずは甘酒をいただいて一服。妻が職場への土産を物色していて「吉備団子」を手に取る。店の人が、「それはよく出ますよ。黍入りはこちらね」といって別の団子を指す。桃太郎の童謡で「ももたろさん、ももたろさん、お腰につけたきびだんご、ひとつ私にくださいな」とある「きびだんご」は「黍団子」だと思い込んでいたが「吉備団子」だったのか、と衝撃を受ける。
衝撃の余韻が醒めやらぬうちに、駐車場を突っ切って宇賀神社へ向かう。途中、駐車場の脇にかなり高い台座の上から下を見下げるように立った人物の銅像がある。誰だろうと思って近づいてみると犬養毅だった。こういう人を見下げたような銅像を建てるから暗殺されるのだと思ったが、銅像が立てられたのは暗殺の後かもしれない。それにしても、高い台座の上から前傾姿勢で台座の前に立つ人を見下げるように立つ姿というのは、政治家としてどうなのだろう?
宇賀神社にお参りした後、吉備津彦神社へ向けて歩き出す。吉備津神社と吉備津彦神社の間は2kmほどなのでぶらぶらと歩いて移動することにした。ふたつの神社をつなぐのは山の周りを巡る道路。今日も暑いが山側から吹き降ろしてくる風がひんやりしている。この山道の外側を吉備線が走っている。吉備津神社の最寄駅が吉備津で吉備津彦神社のほうはひとつ岡山寄りの備前一宮。吉備津彦神社は備前一宮である。吉備津神社は備中一宮。近くにあるが間に備前と備中の境界線が走っている。
吉備津彦神社にはボランティアの説明員がいる。かなり積極的に参詣客に声をかけてあれこれ話をしてくれる。地域をあげて神社を盛り立てていこうという姿勢が感じられる。それでも参詣客は吉備津神社にくらべると少ない印象だ。名前が似ているし、なによりも同じ主祭神を奉っているのだから、もう少し連携しようとか、互いに参詣客を融通しあうとか、あってもよさそうなものだ。何か根拠があるわけではないのだが、私個人の印象としては、なんとなく互いの存在を無視しあっているような雰囲気がある。神様の世界がどういうことになっているのか知らないが、仲良くやってほしいものだ。
もう昼時なのだが、吉備津神社から吉備津彦神社に至る道には商店はなく、それどころか民家がほとんどなく、吉備線の駅周辺にも商店はほとんどない。尤も、それは想定の範囲内だ。なにはともあれ、岡山へ向かう。朝の吉備線はのんびりした雰囲気だったが、昼は客が多い。備前一宮駅で列車を待つ人もけっこういるし、到着した列車も混んでいる。それでもなんとか乗り込んで岡山駅に到着。田舎の列車はドアの開け閉めを客がボタンを押して行う。岡山に着いても誰もボタンを押そうとしない。つまり、混んでいるが、ほとんど観光客なのであろう。あるいは、このあたりの人はぼんやりした人が多いのだろう。僭越ながら私が後ろのほうから伸び上がってボタンを押した。
とりあえず、駅とつながっているホテルのレストランへ行ってみる。先日、新潟の日航ホテルで飲茶が美味しかったので、ここでも中華の店に入り飲茶をいただく。
岡山といえば桃、とこのブログにも書いたが、あまり桃ばかりが並ぶとちょっとあざとさを感じてしまう。桃は福島も新潟も美味しいものは美味しいが、岡山産と比べると異様な価格差がある。それで桃だが、いたるところで高いやつを売っている。駅の売店、駅ビルのスーパー、駅前の地下街にある広場、どこもかしも桃だらけだ。これだけ桃桃桃桃桃となると意地でも喰いたくなくなる。天邪鬼。
それで岡山だが、私は路面電車にのれれば、それでよいと思っていた。妻は林原美術館だ、後楽園だ、などといろいろ言っていた。それで、路面電車に乗って林原美術館に行くことにした。以前の職場で岡山出身の同僚がいて、彼には岡山の実家に帰るつもりがないと言っていたのを思い出した。働き口がないというのである。そんなことはないだろうと思うのだが、彼曰く福武書店(現・ベネッセ)と林原くらいだというのである。彼と同じ職場だったのは1994年から98年にかけてのことなので、その頃の話だ。その後、林原は破綻した。幸い林原のコレクションを収めた林原美術館は、おそらく多少はコレクションを売却したのだろうが、美術館としての体裁を保っている。
林原美術館では「一挙公開!『清明上河図』と中国絵画の至宝」という企画展を開催していた。ここで展示されているのは林原美術館が所蔵している趙浙の手になるものだ。『清明上河図』といえば張択端の作品だが、これは北京の故宮博物院に所蔵されていて普段は公開されていないのだそうだ。そのホンマモンの『清明上河図』が描かれた当時の風俗を精緻に描き出しており、絵画としての価値もさることながら民俗や歴史の史料としての価値も計り知れないものがあるという。なにより、観る人を魅了するものがあるのだろう。その模写とか触発されて描かれた風俗画がたくさんあるのだそうだ。林原が所蔵している趙浙の作品は実制作者、制作年、作品の移動履歴が確定できることから絵画的価値と史料的価値とが兼ね備わった秀品として我が国においては重要文化財に指定されている。「価値」の評価のことは専門家の領分なので何も言えないが、素朴に楽しい絵だ。他所の国の風景だが、人々の日常というところにまで焦点を絞れば、人の考えることやることというのはそう違わないのではないかと思ってしまう。
もちろん、様々に尺度や基準を換えてみれば個人というものはそれぞれに全く違うとも言えるし、同じだとも言える。そのあたりの感じはなかなか説明できないのだが、この絵が描いている明末の中国の都市風景というものを「楽しい」と感じながら眺めることができるということは、そこに描かれているものと自分の生活との間に何かしら響き合うものがあるということだ。同じような「楽しさ」は、例えばピーター・ブリューゲルが描く16世紀のフランドルの風俗画でも感じるのである。時代や場所が違うのだから描かれている人の形が違うのは当たり前だが、仕草とか様子が伝わってくるように感じられるというところに同じ人間としての何かを想うのである。
林原を後にして、岡山城の敷地を通り抜け、ちょっとオツな様子の橋を渡って、後楽園を訪れる。入園料を払って中に入るといっぺんに視界が広がる。駒込の六義園をでかくしたような印象だ。大名庭園というものには決まった形式のようなものがあり、どちらもそういうものを踏まえて作られているということなのだろう。規模というものは人に与える印象の要素としてとても重要なものだと思う。何事かを表現するのに、同じ対象でも規模の大小によって全く違ったもののように見えることがある。一方で、規模を変えてみても印象にさしたる影響がないこともある。もちろん、見る側の事情というものもあるだろう。大名庭園というものが箱庭の肥大したものと観るならば、規模はどのような作用をするだろうか。盆栽はその木の本来の姿ではなく、その木の特徴的なところを強調して取り出した表現なのではないか。だからこそ、それは松であって松でなく、盆栽の作者が考える松のエッセンス、つまり松を使った作者の世界観の表現であろう。そう考えると庭園というものはあれもこれもと盛り込んで作るものではなく、世界の根源を示すようなものではないだろうか。正直なところ、感動はなかった。
後楽園の正面口の前に県立博物館がある。外を歩いてだいぶ汗をかいたので、涼む意図もあって県立博物館に入る。企画展は赤羽刀と昭和の家財道具だが、総じて歴史に焦点を当てた展示を行っているようだ。今日の午前中に訪れた吉備は古墳時代に繁栄した土地で、主に朝鮮半島からやってきた渡来人が当時の先端技術や文化を伝え、鉄器と土器の生産が盛んに行われたという。当然、そうした高付加価値品の生産によって吉備には富が蓄えられていたはずで、それが巨大古墳群となって今にその名残をとどめている。富が蓄積された土地にはそれ相応に文化も発達するわけで、飛鳥・奈良時代にはここの出身の吉備真備が二度も遣唐使に選ばれて大陸へ留学している。時代は下って戦国時代、岡山一帯を治めたのは秀吉の五大老のひとりでもある宇喜多秀家。関ヶ原で西軍に参加したために八丈島へ配流となる。流人といっても元は大名だ。歌舞伎の俊寛のような寂しいものではなく、家臣団を伴っていた上に正妻である豪姫の実家である前田家からの援助もあり、元大名としては不自由であったかもしれないが一般の島民以上の暮らしは維持できていただろう。こういう宇喜多の話は実はこの博物館にはあまり展示されていない。今の岡山の元になるのは宇喜多よりも世の中が安定した江戸時代の藩主である池田家の時代という認識なのだろう。
ところで宇喜多秀家が配流された八丈島だが、2012年3月に訪れた。この島にはちょっとした縁があるのだが、行ったことがなかったので、失業して暇だった時期に竹芝桟橋から東海汽船に乗って出かけてみたのである。そのときのことはこのブログにも書いた。千畳敷と呼ばれる溶岩に固められただだっ広い海岸があり、その一角に宇喜多秀家と豪姫の石像がお雛様のように海に向かって並んで置かれているところがある。その石像がどの方向に向けられていたのか、今となっては記憶にないのだが海の向こうの日本本土のどこかであることは間違いない。岡山城の城壁に宇喜多秀家が改修をおこなったとされるところがあるのだが、そういうところをぼんやりと眺めなら歩いていて、ふと八丈島の石像を思い出した。
天満屋の地下のイートインコーナーの寿司屋でバラ寿司をいただいてから山陽本線の普通列車で倉敷の宿へ戻る。天満屋から岡山駅まで路面電車で移動。駅前の電停を降りて見上げた空がきれいだった。
本日の交通利用
0838 倉敷 発 伯備線 普通
0849 総社 着
0902 総社 発 吉備線 普通
0936 吉備津 着 ダイヤでは0926着だがトラックが踏切の遮断機を破損する事故で遅延
1239 備前一宮 発 吉備線 普通
1250 岡山 着
1413 岡山駅前 発 岡山電気軌道
1420 県庁通り 着
1839 県庁通り 発 岡山電気軌道
1848 岡山駅前 着
1853 岡山 発 山陽本線 普通
1910 倉敷 着