川島武宜『日本人の法意識』岩波新書
たまたま書店で目に留まって購入。世間ではどちらかというと世情の変化に注目する傾向が強いように感じられるのだが、こういう本を読むと人の発想とか考え方というものはそれほど変わらないものだとの思いを強くする。岩波新書もだいぶ入れ替えが行われたがそうした淘汰を経て残るものにはそれなりのものがあるようだ。
倫理観というものに漠然と興味がある。10年以上前のことだが、職場で同僚と雑談に興じていたとき、その人が「みんな善悪の基準を何に求めているんだろう、ってよく思う」と言っていたのがずっと記憶に残っている。どういう会話のなかでそんな話になったのかは全く覚えがないのだが、「善悪の基準」を明示的に考えている人がいるということが印象的であったのと、そんなことを改めて考えたこともない自分を改めて意識したことが印象的であった。その人は幼少時からミッション系の学校で学び、当たり前に聖書を読んでいたことと、世間にはそういうものを読まない人が多いことから、素朴に気になっているらしいのである。
落語に「芝浜」という噺がある。主人公の魚屋は商品を仕入れに市場に出かけた折、浜で財布を拾う。拾った本人は、拾った物は拾った者のものだと言って自分のものにしてしまうのだが、女房はそういう理屈に違和感を覚えて大家に相談する。大家は他人のものは勝手に自分のものにはできないと、女房にその財布を奉行所に届けさせるのである。この噺を聴いて、落とし物の所有権を巡る考え方に何の抵抗も感じないのだが、それは都市生活者の感覚らしい。封建的な社会構造の下、農業という共同作業を基礎に置くなかで被支配層間で培われた所有権の感覚は、賃労働と貨幣経済を基礎にした都市市民のそれと同じであるはずがない。物が自由に動く前提の社会と動かない前提の社会では所有権の在り方が異なるわけで、権利に対する感覚が異なれば倫理観が異なるのは当たり前のことである。
「当たり前」と言ってしまえばその通りだが、感覚としてそうした差異を受け容れることができるかどうかは別の問題だ。世間には様々な詐欺事件があるが、全部が全部、悪意によるものではなく、犯罪当事者にとっては相手の隙に付け込むのは当然という意識で結果として犯罪になるというようなことも案外多いのではないかと、ふと思った。
倫理観というものが、例えば母語にたいする感覚の如く、その人にとっての自然な世界観であるとするなら、その「自然」を理屈で変容させることは可能なのだろうか?つまり、懲役を科すことで犯罪者は自己の「犯罪」を「犯罪」として認識し了解できるものだろうか?犯罪者を検挙するのはよいとして、懲役を科しただけで終わりということで、治安を守ることができるものなのだろうか?
所有権というはっきりした権利のことだけではなしに、社会生活においては様々な種類の諍いや揉め事がある。それも当事者間の世界観の不一致に起因するのではないかと思うのである。世界観の違うものどうしを和解させることは可能なのだろうか?法律の世界では「調停」とか「仲裁」という手段がある。
現代の法律上の用語として「調停」というのは、紛争当事者以外の第三者が和解の条件(内容)を紛争当事者に示して、当事者の合意(和解)によって紛争を解決するように当事者にはたらきかけること、を意味する。・・・「仲裁」というのは、紛争解決の手段として、紛争当事者以外の第三者たる私人(仲裁人)(一人である必要はなく、複数ー通常は三人ーであってもよい)が紛争に対し或る決定を下すこと、を意味する。(154頁)
これも不思議なことで、紛争にまで至ってしまったほどのことを第三者に委ねることが可能なものだろうか?
落語の「胴乱の幸助」という噺がある。喧嘩の仲裁を趣味にしている人物が主人公だが、彼が喧嘩の仲裁に用いるのは、当事者の言い分を傾聴することと宴席を設けることである。紛争の種を相互に客観化させることで紛争の感情的な要素を抑制し、たいしたことではないとの了解を導くのである。これが可能なのは、喧嘩の当事者が幸助という人物を知っていて、その言動に一定の信頼を感じるからである。その幸助に当たるところを法とか制度、つまり権力に置き換えることは可能だろうか?
つまり、法が機能するには権力に対する承認がなければならないということになる。信頼や承認のない権力は、社会秩序の表層を取り繕うことができたとしても、結局は被支配層の不平や不満を蓄積させることになって崩壊の可能性を高めるという自己矛盾を抱えることになる、というのが歴史の語るところであるように思う。長期安定権力というものがそもそも存在するのか、というのは歴史をどう見るかということとも関係するが、いつの時代でも誰にとっても信頼に足る権力というのは、今のところ、残念ながら幻想の域を脱していないように見える。
『人と物 6 米原万里』MUJI BOOKS
これは本と呼ぶほどのものではないので、「読書」に含めるかどうか迷ったが「BOOKS」というので入れておくことにした。
ひところこの「読書月記」には米原の『打ちのめされるようなすごい本』に由来する本が並んでいた。たぶん「ほぼ日」で米原の対談を読んで興味を持ったのだと思うが、自分のことなのに記憶が定かでない。読書記録から想像するに2014年のことのようだ。既に米原その人は亡き人となって久しいので、過去の対談のアーカイブをたまたま目にしたのだろう。そこを起点に米原の書いたものや米原について書いたものをいくつか読んだ。そういう行為自体が彼女の書いたものに対する自分の評価だ。その内容に対して同意するかしないかはともかくとして、骨太の意見はそれ自体価値がある。ただ、あまりにも真面目で「そうムキにならなくても、、、」と思ってしまう。
岩波書店辞典編集部(編)『世界の名前』岩波新書
職場では、メールのやり取りとたまに電話で世界各地の人と交渉があるが、時々妙に長い名前の人がいて、それをそのままメールの書き出しに「Hi XXXYYYZZZ」とやってよいものかどうか迷うのである。また、馴染みのない音とか語は間違えやすい。仕事でたまに遣り取りする相手でSundeepという人がいるのだが、この人はメールの末尾の自署にはSundeepと書いているが、メルアドのほうはSandeepだ。意図して変えているのか、一旦登録したものを修正するのが億劫でそのままにしているのか、あるいはまったく別の理由があるのか、私は知らない。私の名前は長くはないと思うのだが、Kumamotoを正確に書いてもらえないときがあったりする。学生の頃にインドを旅行したとき、列車の指定席を予約すると、その列車の当該車両の乗降口に乗客名と座席番号を記載した紙が貼り出されるのだが、一か月間の旅行の間に何度か利用した列車で自分の名前が間違いなく書かれたことが一度もなかった。
外国へ出かけて、その国の入国カードを記入するとき、当然のようにFamily Name, Middle Name, Given Nameなどと氏名欄に書かれている。こちらも氏名とか姓名とか、要するに姓と名から名前が構成されていると当たり前のように思っている。しかし、そういうことになっている国や地域が当たり前に多数派なのだろうか?少なくとも日本で今のような名前の造りになったのは明治維新以降のことだ。名前は社会のなかで個人をどのように認識し位置付けるかということの表現なので、社会が変われば名前が変わる。「社会」というのも様々な階層があり、家族、友人知人、地域、職域、など関係性の在り方は一様ではない。名前は社会のなかでの個人の在り方の何事かを表現している、というと大袈裟に過ぎるだろうか。名前に流行りということがある。著名人にあやかりたいということなのだろうが、こうした現象に関係があるのかないのかわからないが、本書に興味深い記述がある。
上流階級ほど、聖人の名にちなんだ伝統的な名を好む傾向が強いのに対し、庶民はそうした伝統から離れた、アングロサクソン起源の名をしばしば子どもにつける。(75頁)
生活のなかに拠って立つ世界観があるのか否か、ということかもしれないし、慣習や因習に捕らわれない自由な発想がダイナミズムを生み出すということかもしれない。どのように見るのかは、見る側の視点の在り方の問題とも言えるだろう。ちなみに、この記述はフランスについてのものだ。
関山和夫『落語風俗帳』白水Uブックス
近頃は落語が流行っているらしい。落語会の切符を取るのに難渋する噺家も結構いる。以前はそれでも抽選に応募して切符を取ったりしていたが、そこまでして聴くほどのものかと考えると、何だかばかばかしくなってしまい、このところ落語会の抽選には応募していない。たまに寄席に出かけてみたりするが、その場はそれなりに楽しく過すものの、かつてのように熱心に切符を取ってまで出かける気にはならなくなってしまった。
著者は愛知県江南市にある日輪山曼陀羅寺に生まれ精全という僧名を持つが生家を出てしまう。そのあたりの事情は当事者にしかわからないことだが、日本の文化、殊に庶民の生活において仏教がどれほど深く影響をしているかということに強い関心があるらしい。本書の題名のなかの「風俗」が指すのは庶民生活のなかの仏教的なる要素である。確かに日本には至る所に寺があり、仏教に由来する言葉や諺も多い。落語は説教に由来するという説もあるらしい。しかし、それは所謂「信心」とか「信仰」といった宗教的なものに通じることなのだろうか?人の心的風景は宗教で語り尽くせるものではあるまい。