熊本熊的日常

日常生活についての雑記

正確幻想

2014年09月30日 | Weblog

毎日の通勤に京王線とJR中央線を利用している。よく日本の鉄道の運行が時刻表に対して正確であると言われるが、どの程度の「正確」なのか疑問に感じている。例えば8月と9月の日々の通勤で遭遇した5分以上の列車遅延は以下の通りだ。時間はいずれも発車時刻での遅延状況である。

8月1日金曜日 JR中央線上り 新宿 12:24発 8分遅延
8月8日金曜日 JR中央線上り 新宿 12:40発 6分遅延 先行する特急の遅延による
8月15日金曜日 JR中央線上り 新宿 12:48発 5分遅延
8月21日木曜日 JR中央線上り 新宿 12:48発 5分遅延
8月26日火曜日 JR中央線下り 東京23:26発が人身事故のため四谷で運転見合わせ(23:35)
9月8日月曜日 JR中央線上り 新宿 12:40発 5分遅延 先行する特急の遅延による
9月13日土曜日 京王線下り 新宿 0:30発 5分延発 遅延しているJRとの接続
9月16日火曜日 JR中央線上り 新宿 12:24発 18分遅延 各停が大久保駅で人身事故、それに続く地震 遅延証明取得
9月20日土曜日 JR中央線下り 東京 0:20発 10分延発 人身事故で遅延中の京浜東北線との接続
9月30日火曜日 JR中央線上り 新宿 12:48発 7分遅延 ドアに荷物挟まる 

平日に限定した状況が上記の通りである。9月は1週間休暇を取得しているので、2ヶ月間の営業日は36日だ。36日の利用に対し10日に遅延に遭遇している。5分未満の遅延も含めるとほぼ毎日と言ってよい。これを多いと見るのか少ないと見るのかは人により、また立場によりいろいろだと思う。理由の説明が無かったものもあるが、総じて乗客側の問題で遅延が発生している。このような記録を取ったのは今回が初めてなので、遅延が増えているのか減少しているのか知らないが、少なくとも「ダイヤに対し正確に運行されている」とは言えない状況だ。

以前に、ロンドンの地下鉄の運行案内についてこのブログで触れたが、パリの地下鉄も同様に発車時刻ではなく次発列車の到着までの予想時間を表示している。高密度ダイヤで運行されている鉄道網について、ダイヤに基づいて運行されていることは当然理解できるのだから敢えてそれは表示せず、現況表示方式にしたほうが運行する側も利用する側もストレスが低下するのではないか。知る必要のないこと、知っていたからといってどうしようもないことは、知らないほうが心の平和につながると思う。


予習復習

2014年09月20日 | Weblog

生涯何度目かの落語教育委員会を聴きに亀有へ出かける。携帯電話のマナーを呼びかけるコントで始まる会で、開口一番の力量が白日の下に晒される残酷な会である。なぜなら、コントはあの3人がやるのである。面白くないわけがないのである。しかも、三人会で客は彼等をお目当てに来ている。ウケないわけがないのである。その余韻が冷めやらぬうちに開口一番の登場だ。登場する本人にしてみれば普段経験することのない異様な雰囲気のなかで高座に上がることになるのである。なかにはそういうところでも飄々と自分のペースを守る人もいたが、たいがいは本人の妙な緊張と客席の弛緩とのギャップが歳末助け合いにも似た白けた温かさを生み出す、これまた他にあまり例のない落語会になるのである。

ところで今日の会だが、「転宅」と「鹿政談」は家に帰ってからDVDとYouTubeで他の噺家のものを聴き直した。喜多八の会には行きたいと思っているのだが、この人の会は平日夜が多くてなかなか出かけられない。落語教育委員会は来月25日のよみうりホールの会を自分のなかの最終回にしようと思う。

本日の演目
「近日息子」 古今亭志ん松
「転宅」 柳家喬太郎
(仲入り)
「明烏」 柳家喜多八
「鹿政談」三遊亭歌武蔵
開演 14:00頃 終演 16:00頃
会場 かめありリリアホール 


遠近法神話

2014年09月14日 | Weblog

今でこそ誰もが「画家」と認めるアンリ・ルソーだが、現在の位置付けを得たのはそれほど古いことではない。ピカソによる「発見」から1世紀ほど、本家本元のフランスで認められるまでには紆余曲折があったようだ。そのあたりの事情はさておき、よく言われるのは彼の「自由な」描き方である。

遠近法を「無視」したのか、単に「知らなかった」のか知らないが、彼の風景画は人物の大きさと建物などの大きさとのバランスに独特のものがある。そのバランスによって絵画に奇妙な雰囲気というか存在感が生み出されているように見えることも、彼の画家としての今日の地位をもたらしているものなのだろう。本人は至って真面目に写実的な作品を描いていたつもりなのだそうだ。今回のパリへの旅行では彼の作品も当然に目にしたが、作品よりも実際の風景から彼の作品を想った。というのは、パリの街並みを形作る建築物の規模感が人間のサイズと合っていないように感じられるのである。パリで生活していたルソーが、あのような風景画を描くのは自然なことに思われるのである。

そもそも教育というものが個人にどれほどのものをもたらすのか、ということについては常々疑問に思っている。50数年の自分の人生を振り返ってみて、いわゆる制度としての教育について感心するような経験は皆無である。自分から学びたいと思って門を叩いたようなことについては、自覚するとしないとにかかわらず何がしかの成果があったかもしれない。また、人間というものの矮小さを学ぶにも学校という場は有効だろう。反面教師をたくさん得るということについては学校教育は最適な場である。そうした個人的な経験から類推するに、美術の場においても美大だの芸大だのといったところで得るのは詰まるところしょうもない人間関係くらいのものではないだろうか。

税関吏ルソーは1886年から毎年アンデパンダン展に自作を出品し、そのたびに見る者から嘲笑を受けたそうだ。嘲笑の理由は当時の絵画に当然にあるべき「常識」が無かったことにあるという。嘲笑された、という事実が伝えられているのは彼の作品が観る者の眼を引いたということでもある。本当に嘲笑されるだけの絵なら、嘲笑されたという記録すら残らなくて然るべきではないか。なぜ観る者の眼を引いたのか、それはこういうことらしい。

「ルーソーと云ふ人は最多数の出品をして居るが、彼の画は昔の画に擬したものである。ただ昔の画に擬すると云ふ丈では可笑なこともないが、彼のは昔の極下級な拙い画に擬して居るから変わって居るのである。…さうしてそれは大きな油画から鉛筆のスケッチに至るまで一貫して、原始的な稚気のある間違った形が画いてある。戯談かとも思はれる。…はじめは故意とやつたことがつひに習い性となって今ではこれが彼の真面目となつて居るのではあるまいか。」

これは石井柏亭が1911年7月21日の東京朝日新聞文芸欄に寄せた「アンデパンダン展のサロンとファン・ドンゲンの諸作」のなかでルソーの作品について触れた部分だそうだ。(遠藤望「ルソーの1世紀ーアンリ・ルソーと日本の近・現代美術」「ルソーの見た夢、ルソーに見る夢」2006-2007 図録 15頁)つまり、展示されていた作品の数が多かったというのである。

嘲笑されることをものともせずに多くの作品を出品し続けるというのもたいしたものだが、そうした状況にもかかわらず1893年には絵画の制作に注力すべく税関の職を辞めてしまう決断もたいしたものだと思う。何事かを産み出すのに本当に必要なのは体系立った知識よりも何事かを産み出そうという意志なのである。時に常識だの知識だのがそういう意志の働きを阻害することがある。常識的たろうとすることでちまちましたことしかできずに一生を終る人が圧倒的に多いのが現実だ。常識というのは権力の側から見た「常なる見識」であって、決して普遍的なものではない。権力が統治を容易にするために統治される側の人間を扱い易くする仕組みが教育というものだ。教育を受けたがために削がれてしまった能力というのは思いの外大きいのかもしれない。教育というものを否定するわけではないが、学歴だの資格だのという目に見える形で表現されるものというのはつまらないものだという思いが齢を重ねる毎に強くなっている。


あれから10年

2014年09月13日 | Weblog

映像翻訳の学校に通っていた頃の同窓会に出かけてきた。同窓会といってもオヤジ4人である。同じ翻訳学校に通っていたという以外に何の接点もないのだが、大人どうしなのでそれなりに話に花が咲いて愉しい一時を過ごすことができた。

4人のうち幹事役の人は翻訳者として生活している。その学校を修了してからすぐに学校の斡旋で仕事をするようになり、以来10年間、翻訳者として生活している。私の知り合いのなかで数少ない自営業者のひとりである。他の3人は翻訳とは縁のない生活を送っている。同窓会の呼びかけは同じクラスにいた20数名全員に対して行われているが、年に一回程度のこの集まりに参加するのは今回の4人プラスアルファといったところ。クラスの生徒は男性が5人で、こういう集まりには一切参加しないもう一人の男性も翻訳者として活動している。残り20名ほどの女性で翻訳者になったという人の話は聞かない。映像翻訳というのは特殊なルールがいろいろあるので、一般の翻訳とはかなり違った技能が要求される。総じて翻訳者や通訳には女性が多いのだが、そうしたなかにあってこうして「翻訳」を軸にオッサンどうしの人間関係が10年に亘って続いているというのは珍しいのではないだろうか。

幹事役の翻訳者以外は給与生活者である。この10年というのはリーマンショックに象徴されるような社会経済の大きな変化があった時期だが、給与生活者の3人はいずれも勤め先からの解雇を経験している。世間が不景気になったとはいえ、解雇を経験するというのは日本ではまだ少数派だろう。社会人を経験した上で学校に通って映像翻訳というようなものを勉強しようと考えるのは、社会の本流から外れているということか。外れているものどうしだからこそ、こうして集まることができるのかもしれない。

映像翻訳を学ぼうという人は殆どの場合、映画好きである。私は今はもう映画に対する関心はなくなってしまったのだが、当時は勉強の意味もあってよく観た。まだ家にテレビのある生活をしていた時代なので、ビデオを借りてくることも多かったし、もちろん映画館でも観た。飯田橋のギンレイホールは年間パスポートを買って通っていたし、ポイントカードのようなものを発行している映画館のなかには会費を払ってでもカードを取得して通ったところもあった。学校を修了して勉強として観る必要がなくなったということもあるのだろうが、映画作品への関心が徐々に失われてしまった。それに代わるように美術館やギャラリーへ足を運ぶことが増えた。自分でもよくわからないのだが、作り手の表現の過剰さに食傷したのかもしれない。絵画や彫刻などの静物は、もちろん作り手があってそこに存在しているのだが、それを見てなにを感じるか考えるかは見る側の自由である。映像作品はストーリーがあり、映像があり、音声があり、というように作り手の手数がやたらに多いのである。そこに見る側が自分の世界観と共感し合えるものを見出すことができれば楽しいと感じたり感動したりできるのだろうが、そうでないと煩いだけだ。煩いといえば、ちかごろ世の中が喧しく感じられて仕方が無い。生きる場というものは自分とそれを取り巻く環境との総体なので、自分のなかになにかが増えてくれば、それに反していると感じられる世間の雑音が喧しく感じられるようになるということかもしれない。ある種の加齢現象なのだろう。

 


住んでいる家

2014年09月12日 | Weblog

パリから戻ったとき、団地の自分の住戸に着いてとてもほっとした。旅行から自宅に帰ってほっとしたという感覚はあまり経験したことがなっかったような気がする。毎日の生活のなかでも、住まいのある団地の敷地に入るとなんとなく空気が変わるように感じられるのである。おそらく個別具体的な要因があるわけではないだろう。団地の敷地は緑が多い。建屋の高さは5階建で、竣工から50年近くを経て成長した木々と建物の高さとのバランスが視覚に好印象を与えているということもあるかもしれない。土と緑が多いことで不快な雑音などが吸収されているということもあるだろう。古い団地というのは、エレベーターが無いとか設備が貧弱であるとか、主に物理的な面での短所を指摘されることが多いのだが、そういうものが生活にとってどれほど重要なのかということは考えてみる価値があるのではないか。適度に身体に負荷があるくらいが生き物としての生活には自然だと思うし、そもそも生活の満足度は物の有無だけで計れるものではあるまい。そこそこに生活環境が整っていることも大事だが、生活にまつわる人間関係が円満でなければ、どれほど理想的な住環境に暮らしていても快適には感じられないだろう。


住みたい家

2014年09月11日 | Weblog

自分がどんな家に住みたいか、ということについてはあまり考えたことがない。街を歩いていて惹かれる家というものに出会わない所為もあるだろうし、生来の貧乏暮らしで家というものをリアルに考える習慣がないという所為もあるだろう。5月にこのブログに書いた遠山邸はよく出来ていると思うし、こういうところなら暮らしてみてもいいとは思うが、現実味がない。駒場の民藝館別館になっている柳邸は窮屈な感じがする。写真で見ただけなのだが芹沢介が蒲田で暮らしていた家には興味がある。もとは宮城県の農家の板倉だった建物を移築して改造したのだそうだ。板倉なので直方体の至って単純な形状で、一階は土間と20畳の板の間、二階は10畳二間の和室だそうだ。間取りが素直で健康な暮らしができそうな気がする。そういえば白洲次郎・正子が暮らしたという武相荘も良い雰囲気だった。昔の農家のような間取りに無駄のない家というのが私は好きらしい。


開かずの窓

2014年09月10日 | Weblog

今暮らしている団地の私の住居のベランダの眼下に建売住宅が広がっている。すぐ手前の家は窓がいつも閉まっている。その窓は全て曇りガラスで、どの窓もカーテンが引かれている。開く事の出来ない窓などあってもしょうがないのではないかと思うが、それでも採光には有効だろう。開くことのできない窓のある家での暮らしというのはどのようなものなのだろう。周囲の視線が気になって窓を開けることができない家を何千万も出して買おうという神経が理解に苦しむが、街を歩けばそんな家ばかりである。何度もこのブログに書いているが、私も10数年前にそういう家を建て、今もその住宅ローンを払い続けている。私が買ったのは売建といって、建築条件が事細かに決まった土地である。施工業者も家屋のスペックも決まっていて、その上で価格が付いている。もともと一軒の家があったところを四分割した一画なので、広さなどは期待できないし家屋の回りの空間も規制をぎりぎりで満足する程度のものでしかない。住んでみれば隣家の夫婦喧嘩などが手に取るようにわかる。敷地一杯なので、外壁などは気にする必要もないのだが、それでもあれこれ考えて決めたものである。あのサイディングというのは不思議なもので、表面のデザインが煉瓦風であったり石積み風であったり木目調だったりする。そういうデザインにしたいのなら、本物の煉瓦とか木を使えばよさそうなものだが、そういう予算はない。しかし、そういう外壁に憧れる。妥協の策としてサイディングを利用する。実にセコい話である。そんな家で暮らすような奴に世のため人のためとなるような大きな仕事ができるはずがない。それが地価の高い都市部に限ったことなのかと思いきや、妻の実家の周辺にもそういう家屋が少なからず建っているので驚いた。物価がどうこうという以前に身の程とか、もっと大袈裟な言い方をすれば個人の世界観が貧相なのだと思う。こういうところに明るい未来などないのだろう。


あなたとわたし

2014年09月09日 | Weblog

昨日、地下鉄の様子のことを書いていて気になったのだが、公私の別の感覚、「私」の領域というものをどれほど意識することができるか、あるいは他人の「私」についてどれどほど想像力を働かせることができるか、ということによって生活の快適さの度合いはずいぶん変わるのではないだろうか。「私」が意識や物理的空間においてどれほどの領域を占めているのか、端的には生活空間のありように表れるのだろう。例えば整理整頓が行き届いている人というのは、それだけ他者の眼を意識しているということではないだろうか。つまり、「私」というものを座標軸のようなものでそれなりに定義して自他の別についての秩序を作り、そこそこに安定した世界観を持って暮らしているということではないか。逆に整理整頓と無縁な人というのは自己が薄弱ということになる。自己が薄弱だとその弱さを補おうとする意志が働くので何かに依存したり虚勢を張ったりして薄弱な自己を支えようとする。依存症的な習慣から抜け出すには、薬物やカウンセリングのような対処療法的なことではなしに、「私」とは何者なのか、更に言えば人間とは如何なる存在なのか、というような世界観をたとえおぼろげながらであっても持つよりほかにどうしようもないのではないか。近頃、薬物依存にまつわる犯罪が注目されているが、そんなたいそうなことでなくても誰しも身近に困った人のひとりやふたりは当たり前にいるのではないか。権限が無いのにやたらに場を仕切りたがるとか人を見下げたがるとか、年齢とか入社年次とかデジタルで表示されるものに過敏に反応するというような輩は自分の身の回りにも存在する。しかし、できないことをやれというのは土台無理な話なのである。あなたの「私」とわたしの「私」とが共存できる相手としか平和裡に付き合うことしかできないものなのである。自分の生活を成り立たせるのに必要な領域にそういう相手が多いほうが、おそらく楽しいだろう。無理に妥協して共存できない相手と付き合うくらいならひとりでいたほうがいい。以前から薄々そう思っていたのだが、年齢を重ねる毎にその思いは強まるばかりだ。

 


パリの地下鉄

2014年09月08日 | Weblog

少なくとも自分たちが利用した線は、どれも3分程度の間隔で運行されていた。それでも区間によってはかなりの混雑だったのだから、パリ市内の人の往来はかなりなものである。東京のようなベンチシートではなく基本は4人ひとまとまりの対面式シートなので車内の印象はそれだけでも違うが、決定的に東京と違うのは乗客の所作である。携帯端末をいじっている人が少ない。例えば東京なら、7人掛のベンチシートで少なくとも5人は携帯を操作している。操作に夢中になって自分の下車する駅でばたばたと慌てる馬鹿も少なくない。パリは人それぞれの所作をしているが、熱中している様子はない。国民性というものもあるだろうが、大きな要素のひとつとして治安というのはあるだろう。パリは物盗が多く、地下鉄の車内や駅構内での犯罪が多いのだそうだ。特に気をつけなければならないのは車両の出入口だという。発車直前に鞄などから貴重品を抜き取られたり、鞄そのものを強奪されたりということがあるという。その所為かどうか知らないが、パリの人たちは車内に入ると奥のほうへ積極的に進んでいく。東京では入口に固まってしまって「奥へお進みください」というアナウンスが頻繁に流れている。要するに公共の場においての人々の緊張感が根本的に違うのである。それは内と外との区別、私と公の区分、個人と市民という意識の切り替え、言い方はいろいろだが、文明や文化の在り方が違うのだろう。公共の場で無防備に自分の世界に浸ってしまうことができるというのは、それだけ社会が安全であるということでもあるので喜ぶべきことかもしれない。ただ外見としてはみっともない。

犯罪が多いので緊張しながら外を歩かなければならない社会が良いとは思わないし、恥の無い社会が良いとも思わない。程度の問題なのだろうが、公私の別の感覚というのは個人レベルの諍いや犯罪から国レベルの国境紛争に至るまで全ての対立事の根底に関わっていることは確かだろう。地下鉄の車内で何憚ることなく携帯端末をぼんやりいじっているのが当たり前という感覚と、北方領土や尖閣諸島の問題とは、たぶんどこかでつながっている。


「おかえりなさい」

2014年09月07日 | Weblog

帰国前から「おかえりなさい」というメールがいくつか届いた。フライトやホテルなどを予約したサイトからのものだ。利用に対する所謂クチコミを要請する内容だった。昨年、ロンドンを訪れたときは英国のサイトで宿泊先を予約した。今回も当初はそのサイトでパリのホテルを検索したのだが適当なものが見つからなかったので、日本のサイトで予約した。そこでは出発前に使った蒲田の宿も予約した。その宿泊予約サイトには蒲田、パリそれぞれの宿について以下のようなコメントを投稿した。

蒲田:「羽田を7:35に発つ国際線に乗るために利用しました。JR、京急いずれの蒲田駅からも大きな荷物を持って徒歩10分以内で到達できる立地です。京急蒲田5:19発の羽田行き始発を利用して余裕を持って搭乗できました。」

パリ:「ホテルはXXXのチエーン店なので、部屋の状態であるとか接客に対しては一定水準を超えており、全く不満はありません。利便性についても地下鉄4号線のChateau Rouge駅から徒歩2分程度と抜群。CDG空港からタクシーを利用すると渋滞にはまらなければ30分圏内、2014年9月現在の料率でチップ込みで50ユーロ程度の距離です。しかし、立地は治安に問題のありそうな場所で、6泊しましたが毎晩深夜になると外で罵声のようなものが飛び交い、時にパトカーも登場するようなところです。モンマルトルの丘の中腹に位置するので、東京の「山の手」のイメージで予約したのですが、その自分の判断は誤りでした。尤も、治安云々に頓着しなければ、ホテル内部は快適ですから、パリ市内の他の同系列より割安と言えます。」

どちらのホテルもクチコミ評価としては星3つとさせていただいた。蒲田のホテルには私以外にもクチコミ評価が寄せられており、かなり厳しいコメントをしている人でも星4つだったりする。星3つというのは「普通」と感じたのでそうしたまでのことで、別に大きな不満があるわけではない。宿泊客が快適であると感じるのは当然のことで、その当然が実現した上に特筆すべきことがあれば、その度合いに応じて評価が上下するものだと考えて投稿した。特に蒲田のほうは殆ど寝るためだけに利用したものなので、立地の他に評価のしようがなかったのである。クチコミの星というのは各自好きなように投票しているので、全く参考にはならないのだということが、自分の投稿と他の投稿を比べてよくわかった。

ついでに航空券のほうのサイトだが、こちらも昨年のロンドン行とは別のサイトを利用した。予約をしたのは6月下旬だったが、その時点では行き先はパリでなくともよかった。欧州のどこかで1週間ほど過ごしたいと思っていただけだ。いくつかのサイトで価格を比較したところ、サーチャージ等込みで直行あるいは直行に近い2人分の最安値料金が以下のようであった。括弧内は参考データである。乗り継ぎの便や訪問先で想定される活動などを総合的に勘案し、結果としてパリに落ちついたのである。

パリ: エールフランス・KLM 315,300円
ロンドン: エールフランス・KLM 354,680円(ヴァージン 438,280円)
マンチェスター: エールフランス・KLM 349,600円(英国航空 427,440円)
ベルリン: エールフランス・KLM  331,780円(ルフトハンザ 574,880円)
ミュンヘン: エールフランス・KLM 332,880円 アエロフロート 274,160円(ルフトハンザ 394,020円)
ウィーン: エールフランス・KLM 331,140円
アムステルダム: エールフランス・KLM 301,680円

乗り継ぎ時間を全く考慮しないで、単純に価格だけを比較すればもっと安い便はいくらでもある。例えば、ベトナム航空でハノイ経由パリ往復は1人16,000円+サーチャージ等だし、中近東やロシアの航空会社を利用してもかなり安くなる。時間の制約がなければそういう選択肢もあるのだが、生憎、給与生活者であり、また、加齢による心身の衰えもあるので、無謀な移動は避けることにした。

ところでヴァージンのロンドン=東京便が廃止となるという。仕事でも私的にもよく利用した便なので、今の生活では自分とは無縁なのだが、妙に寂しい思いがする。やはり、日本は衰退が約束されている場所に見えるのだろうか。

 


パリを発つ AF1740-A319, AF8246(KL0863)-B777

2014年09月06日 | Weblog

昨晩、外出から戻ったときにホテルのフロントにタクシーの予約を頼んでおいた。朝9時半ということでお願いしておいたが、今日、荷物をまとめてその時間にチェックアウトすると、タクシーは既にホテル前に待機していた。帰り路は渋滞に巻き込まれることもなく順調に約30分ほどでシャルルドゴールのターミナルFへ。既にネットでチェックインは済ませておいたので、カウンターで荷物を預けて出国審査を済ませて、ターミナルビルのなかで飛行機の出発までを過ごす。ターミナル内の店舗で土産物の追加を買う。欧州線用のターミナルである所為か、店舗は思いの外少なかった。昼過ぎのエールフランスでアムステルダムへ。そこで夕方発のKLMで成田へ向かう。アムステルダムでの待ち合わせ時間は時刻表上では約4時間。実際には乗り換えでもアムステルダムでのパスポート審査が必要だし、時間ぎりぎりで飛行機に駆け込むわけにもいかないので、空港から外に出るわけにもいかない。ターミナルに並ぶ商店を冷やかすだけでは時間をつぶせない。かといって、カジノに入る度胸もない。スキポール空港にはターミナル内に美術館があるのだが、生憎、改装中で営業していなかった。幸い連れがいるので徒然なる時間もそこそこに楽しく過ごすことができる。成田まではB777のエコノミーの真中の席で、しかも満席。苦行の11時間半である。機内食は往路のエールフランスよりも美味しい気がした。


パリ6日目 Chantilly, Bateaux-Mouches

2014年09月05日 | Weblog

シャンティイ城へ足を伸ばす。パリ北駅から国鉄で25分、ということはパリに来る前から知っていた。問題はどうやって電車の切符を買うかということだった。ガイドブックなどには駅の自動販売機で買うことができると書かれている。確かに、国鉄の自動販売機には英語表示もある。しかし、切符の種類であるとか料金設定の仕組みを知らなければ販売機の画面表示は意味をなさないのである。出札窓口を探して駅職員から切符を買う。あっけないほど簡単だ。特急だの急行だのという特別な列車に乗るわけではないので座席の指定など必要ない。目的地と片道か往復かの別と何人分かということだけわかればよいのである。東京の鉄道も自動販売機だらけになって有人の窓口が無い駅が多い。これでは日本人であっても慣れない人は切符の購入に苦労するだろう。ましてや外国の人にとっては鉄道利用の大きな障害だ。外国からの観光客を増やすことが日本の政策目標のひとつに掲げられているが、旅行者の動線確保という基本中の基本がほんとうに考えられていると言える状況にあるだろうか?ちなみに日本政府観光局のサイトによれば2013年のフランスへの外国人観光客数は8,300万人で、2位米国に約1,300万人の差をつけてダントツである。日本は漸く1,000万人を超えて27位だ。(注:この日本政府観光局の資料がまとめられた時点でフランスの2013年の数値が未公表のため、フランスの値は2012年実績で代用されている。)

パリから25分という時間距離の割に列車の本数は少ない。切符を買ったのは9時半頃だったが列車の発車時間は10時49分だったので、ひとまず駅周辺で時間をつぶすことにした。地図を見るとモンマルトルが近そうだったので散策がてらサクレ・クール聖堂を目指して歩く。あっちに引っ掛かりこっちに引っ掛かりして歩いていたので聖堂にはたどり着けなかったがサンピエール広場には着いた。この広場の南に面した通りにはユザワヤのような手芸用品店が軒を連ねていた。どの店もそこそこの規模で本当にユザワヤの支店レベルの品揃えなのである。列車の時刻が迫っていたのでゆっくり眺めているわけにはいかなかったが、機会があれば再訪したいような場所だった。

北駅には列車の時刻の10分前くらいに戻ったが、既に我々が乗ろうとしていた列車は入線して席もずいぶん埋まっていた。パリを発車するとシャンティイは2つ目の駅だ。下車したChantilly-Gouvieuxはなんでもない小さな駅だった。帰りの列車の時間を確認してから城に向かって歩き出す。ガイドブックによれば無料バスが巡回しているらしいが、歩いても30分ほどらしいので歩くことにした。駅前から道標に従って歩いていくと最初は街路樹が美しい歩道を行くことになる。落ち葉が適度に散らばって良い風情だ。森のなかを歩いているかのような道から、やがて視界が一気に広がる。草原が続き、その中を幾何学模様のように歩道が伸びている。奥には競馬場があり、その先に城のようなものが見える。その建物に近づいてみると、それは城の厩だった。これが城ですよ、と言われれば素直に信じてしまいそうな立派なものだ。この内部も見学できるが帰りに寄ることにして、ひとまず城を目指して歩き続ける。

城に着いて、レストラン La Capitainerie へ直行。メインは軽く、デザートは重く。写真のデザートの後、名物のシャンティイ・クリームも平らげる。今年はもう生クリームはいらない。

腹ごしらえが済んだところで城の中を見学する。パリ市内の美術館とはちがって館内に人影が殆ど無いので、物理的な空間の広がりを堪能できるだけでなく、気持の上でもゆったりとできる。壁面にびっしりと絵画を並べるのは19世紀の展示方法なのだそうだ。これでは絵を描いた人は情けないような気持になるのではないかと思うのだが、当代一流と言われる作品をこれでもかと並べることに意義があったのだろう。あまり良い趣味とは言えないが、そういう自己表現が城とか宮殿というものだ。思うに、人間の中味の貧相とそれに不釣合な立場という不安定性を抱えると、その不安を解消すべく極端な行動に走るのがホメオスタシスという自然なのではないか。英知と技巧のあらん限りを尽くして物を作るのも、戦略を巡らし技術と戦術を尽くして殺し合うのも、根は同じだ。たまたま欲求と権力が同居できたので驚嘆するようなことになったのである。結局は価値観の問題なのだが、権力であるとか物を所有することに対する欲求の強い人というのは気の毒な気がしてしまう。どちらかといえば、そういうものに翻弄されているほうが気楽でよいと思ってしまう。

宮殿のような厩は博物館としても公開されているし、現役の厩としても使用されている。博物館の区画に並ぶ模型類が良い具合に時代が入っていて、眺めていて楽しい。メリーゴーランドの馬のようなものもあるが、遊園地の遊具に哀愁を感じるのは私だけだろうか?ここに黒い猫がいる。人懐っこいというのか、ここの主のようなつもりでいるのか、近づいて来て何事かを語りかけてくるかのように啼くのである。こちらが反応して何かを言うと、それに対して啼き返してくる。たまたま職員が通りかかり、彼がその猫に声をかけると、会話をするようにそれに啼き返す。ちょっとしたことなのだが、愉快だった。

16時46分発の電車でパリへ戻り、City Passportのなかにある使い残しのチケットを消化すべくアルマ橋近くの遊覧船乗り場へ急ぐ。アルマ橋といえば、この近くの自動車専用道トンネル内でダイアナさんが亡くなったのは1997年8月31日のことだ。その日はたまたま出張で訪れたジュネーブの空港で出迎えの同僚から訃報を知った。数日後に仕事でパリを訪れたとき、事故現場のほぼ真上にあたるアルマ橋の袂には献花が山のようになっていた。今も同じ場所には花が手向けられており、ダイアナさんの存在感の強さを改めて認識させられた。ちなみに当時の勤め先は今はもう無い。一応社名は残っているし、社員の多くも残ってはいるのだが、今は或るメガバンクの傘下におさまり海外事業からは実質的に撤退してしまっている。当時のパリ現法が入居していたビルにも行ってみた。ビルそのものは昔とおなじようにあるのだが入居企業は総入れ替えだ。当時は自分の勤務先も含めていくつかの企業が入居していたが、今はスポーツ用品を扱う会社が単独で入居しているようだ。出張で宿泊したホテルも相変わらずホテルとして営業はしていたが、今は米系資本の傘下に入っている。ホテルの向いのレストランもそのままの風情だが、果たして当時と同じ経営なのかどうかまではわからない。なにもかも泡沫のように消え去ってしまった。

Bateaux-Mouchesという歴史の一番古い、その遊覧船はアルマ橋近くの発着場からシテ島方面へ下り、サンルイ島を過ぎたところで折り返して、発着場を通り越してエッフェル塔の辺りで再び折り返して発着場へ戻る。約1時間の遊覧だ。ぼんやり過ごすのにはいいかもしれないが、エンジンの排気が気になるし、遠くから眺めるよりは実際に訪れてみたいところが多いので、敢えてチケットを買ってまでは乗船したいとは思わなかった。ただ、乗船している他の乗客、特に団体で乗船している某国の人々の様子を眺めているのは楽しかった。昔は日本人もこんなふうだったのかなと思う。なにもかも、やがては泡沫のように消え去るのである。

 

 


パリ5日目 Musee de l'Orangerie, Musee Gustave Moreau, Centre Pompidou (Musee National d'Art Modeme)

2014年09月04日 | Weblog

今日はオランジェリー美術館、ギュスタフ・モロー美術館、ポンピドー・センターを訪れる。

オランジェリーはモネの睡蓮パノラマで有名だが、それよりも地下のギョーム・コレクションのほうが見応えがある。やはりピカソとアンリ・ルソーがいい。 マティスは東京のブリヂストンにあるもののほうが好きだ。2008年に初めてオランジェリーを訪れた時はもっと感激した気がするのだが、再訪してみるとそれほど感心もしない。今日の気分によるところもあるだろうし、この6年間の間に自分が変化した所為もあるのだろう。ある場所、ある物をある間隔を置いて体験することで自分の変化を実感するのも面白いことである。館内案内図のチラシを見て気付いたのだが、ここはオルセーの別館という扱いだ。

ギュスタフ・モロー美術館も2008年夏以来だ。当時に比べるとキャビネットの傷みが酷くなったような気がする。前回は建物の内部に興味を持ったが、今回はキャビネットに収納されているデッサンが面白いと思った。 なにより、手に取って眺めることができるのがよい。モローは画塾を主催していたので、おそらく塾生を指導するためなのだろうが、升目を引いた紙に絵を描き、所々に矢印をつけて何事かメモを記したものもある。私はフランス語が読めないので、そのメモが何を語っているかわからないのだが、そういう指導や制作の過程を明らかにするようなものを見ると描き手の息吹が感じられるような気がして、その作品が一層身近なものに思える。作家が実際にアトリエとして使っていた空間だからこそできることなのかもしれないが、パリには他にもこういう雰囲気の小さな美術館がいくつもある。なんということもない雰囲気を体験するというのは、何かを知る上でとても大事なことではないだろうか。私は特にモローが好きなわけではない。しかし、絵画であるとかパリの街とか文化というような漠然としたものを楽しむというのは、自分の持てる感覚を総動員する行為だと思う。そんなことは言うまでもないことかもしれないが、こういうなんでもない経験を通じて当たり前のことを改めて意識するというのも生活のささやかな楽しさだし、それがきっかけとなって新しいことを思いついたりすれば、喜びにもなる。絵という限定された範疇だけでなく手仕事に触れる楽しさとか喜びというのは、意識するとか思いつくとか発見するという自分の内面の活動が引き起こすことなのだろう。

ポンピドーセンターは20世紀以降の美術を扱うという役割を担っているが、その現代の美術というものを建物が体現しているかのようだ。美術館の空間は美術のために使われるものであり、美術に関係のないものは極力外に出す、ということで配管とかエスカレーターや通路が建物を包むようになっている。配管は機能別に色分けされ、例えば水道関係は青、空調は白、というような具合だ。別棟としてブランクーシのアトリエがある。ポンピドーセンターも2008年夏に初めて訪れたが、そのときはその外観に素朴に驚いた。ただ、ここ数日はローマ時代の遺跡から19世紀の大規模建造物に至るまで、その時代毎の特徴的なものを観て歩いているので、そうした眼には20世紀を代表あるいは象徴するかのようなこの建物は軽い感じを否めない。収蔵されている作品群も含めて、自分が生きているこの時代は瞬時の快楽を追い求めることに価値が置かれているのだということを再認識させるものだった。

 

 


パリ4日目 Musee de Cluny, Cathedrale Notre-Dame, Musee National des Arts Asiatiques - Guimet

2014年09月03日 | Weblog

クリュニー美術館、ノートルダム寺院、ギメ美術館を見学した後、ラファイエットで土産物を探す。

クリュニーは、昨年に貴婦人と一角獣の6枚組タペストリーが来日していたので、日本でも知名度が上がったのではないかと思う。地下鉄St Michelの出口からセーヌ川を背に大通りを少し行くとフェンスに囲われたローマ時代の遺跡が現れる。公衆浴場の跡なのだそうだが、この遺跡の上に14世紀に建てられた修道院が現在の美術館の基になっている。美術館の敷地のなかにローマ時代の遺跡も残されているのだが、遺跡のほうは立ち入り禁止だ。クリュニーはMusee de Cluny - Musee national du Moyen Ageという名が示す通り中世美術に焦点をあてた美術館である。なによりもその建物がコテコテのゴシックだ。壁も屋根も雨樋もどこもかしこもこれでもかといわんばかりに装飾が施されている。それでも長い年月を経ていい具合に角が落ちて静かなものである。門から建物の入口至るちょっとした空間の壁に日時計が作り付けられていた。

クリュニーは、ざっくり言うと1階がロマネスクで2階がゴシックだ。古いものを眺めると思うのだが、知識は我々を幸福にするのだろうか?例えば、ロマネスクの素朴な彫像とゴシックの精緻な彫像とでは観る者との距離感がかなり違うと思うのである。もちろんどちらも一生懸命に作られたものだろうが、ロマネスクの純朴な線や形のほうが心に染み入る感じがするのである。なぜだろう?小賢しい知識などなく、素朴に神だの悪魔だのの存在を信じていた時代のほうが人間の発想が豊かであったのではないか。一筆、一鑿に込められた想いに「上手くやろう」というような余計な我欲がなく、何物かを作ろうという動機の根源が素直に仕事に表現されるから、一見したところ素朴な線やかたちが力を持つのではないか。技巧は大事だが、技や知識を自慢する心が芽生えると、そうした技や知識の枠のなかでしか行動したり考えることしかできなくなってしまうのではないか。下手に知識を得て解ったつもりになってしまうと、その先を自ら考えるという作業をしなくなってしまうのではないか。結果として世界観が貧弱になってしまうのではないか。それは果たして幸福なことなのか。世界観の広がりがなければ、些細な事でその世界が破綻して閉塞感に苛まれることになってしまうのではないか。その追い詰められたという感覚が暴力を生むのではないか。

『貴婦人と一角獣』が来日したのは、その展示室の改修工事があった所為だ。今、この作品は新装成った展示室にある。古い建物を部分的に改修すれば、当然にその部分が他とは違った雰囲気になる。建物を維持するためには改修が不可避であることはわかるのだが、もう少し上手い方法はなかったのだろうか。来日時の展覧会のカタログに過去の展示室の様子が時代を追って写真で示されている。なんだか改修の度にそもそもの在り様から離れているような気がする。

昨年の今時分にロンドンを訪れたときにセントポール寺院とウエストミンスター寺院を訪れたが、どちらもけっこうな入場料を課された。ノートルダム寺院は入口でセキュリティチェックはあるが無料だ。ここは観光地ではなく機能している教会であるということなのだろう。ぱっと見たところ圧倒的大多数は観光客のようだが、確かに礼拝に訪れていると思しき人々や懺悔に訪れている人たちも少なくない。もちろん、両方を兼ねている人も少なくないだろう。ただ、内部の一画に入場料のかかるところがある。教会所蔵のものを展示してあるところだ。数カ国語でその旨を記した掲示がありそのなかに日本語もあった。「秘宝館」と書いてある。中国語のほうは「珍宝館」だ。よく温泉場などにある「秘宝館」とどう違うのかと思い、1人5ユーロを払って中に入ってみた。キリスト教徒にとっては有り難いお宝の数々なのかもしれいないが、私には感じるものは無かった。

ノートルダム寺院の前の広場の地下に、パリ草創期のシテ島の遺跡があり、それが博物館のように整備されている。せっかくなのでこちらも見学した。地面の下で、クリュニーの遺跡とこの遺跡とがつながっているはずだ。遺跡と今との間にどのようなつながりがあるのかないのか知らないが、こうして「遺跡」として見れば過去は過去でしかない。つながっているもの、つなぐもの、というのはあるとすれば眼には見えないものだろうし、見える人にしか見えない性質のものでもあるのではないかと思う。見えない人ばかりの社会というのは世知辛くて生きづらい気がする。

ギメはフランスがカンボジアやベトナムを植民地にしていたことを思い起こさせるコレクションを中心に構成されている。親日家として有名なシラク元大統領は、ここで日本美術、殊に仏像に出会ったことがその後の日本文化への興味の入口になったという。数年前にギメも大規模な改修工事をして展示構成が変更されているそうなので、シラク氏が初めて訪れた頃とは内部が違うのだろうが、今も展示の中核はアジア各地の仏像である。 大きさということではクメール、カンボジア系が圧倒的だが、ガンダーラ、インド、東南アジア、東アジア、日本と流れがよくわかり、展示品そのものもさることながら、展示全体に感心した。企画展は鈴木春信で、小規模ながらうまくまとめられたもので、見学客も多かった。かつてのジャポニスムブームとは比べようのないのだろうが、日本の文物に対する当地の人々の関心の高さには戸惑うこともある。自分たちが見逃している大事なことがあるのではないかと不安になるのである。

 


パリ3日目 Musee d'Orsay, Petit Palais, Musee Carnavalet

2014年09月02日 | Weblog

オルセー美術館、プチ・パレ、カルナヴァレ博物館を見学。パリの美術館には火曜日休館のところが多いので、今日は選択肢が限られる。出かける前から行きたいと思っていたところがたくさんあったので、選択肢が限られるというのは今の自分には有り難いことである。

オルセーには開館時間15分後くらいに到着したが入口前には行列ができていた。尤も、これはセキュリティチェックの所為で、入館までそれほど時間は要しない。立ち止まることなく館内へ吸い込まれる。前回2008年に訪れた後、大改装があり、改装中は日本にも作品が回ってきて比較的規模の大きな「オルセー美術館展」が開催されていた。改装前後を詳細に比較できるほど前回のことを記憶しているわけではないのだが、5階の動線が違う気がした。現在は企画展示室になっているところにアンリ・ルソー、スーラ、ゴーギャンなどの作品が並んでいた気がする。今は以前よりも印象派の展示が前面に押し出されている印象だ。前にも書いた記憶があるが、美術館という場所を頻繁に訪れるようになったのは陶芸を始めてからのことなので、ここ8年ほどでしかない。それでも興味関心というものはけっこう大きく変化していて、今は所謂「印象派」にそれほど興味は感じなくなっている。連れも、そもそも印象派には関心が薄いようなので、5階の展示室はさっと通り抜けてしまった。通り抜けた後にある建物の時計の裏側からの風景が面白かった。誰もが同じようなことを考えるようで、ここは展示作品に負けず劣らず人気を集めているようだ。もともとこの建物は駅なので、作った人たちは時計の裏側が注目されるとは思っていなかっただろう。そういう不作為で生まれたものに値打ちがあるように思うのである。よく自分で「芸術家」だの「アーチスト」だのと名乗る人がいるらしいが、一体どういう神経をしているのだろうかと常々疑問に思っている。

プティ・パレも立派な美術館なのだが、ルーブルやオルセーの後だと小ぢんまりとしたものに感じられてしまう。ここの中庭に面したカフェで昼食をいただく。向いのグラン・パレとセットで1900年のパリ万博会場のひとつとして建てられたものだ。展示されている作品よりも、建物やモザイクを敷き詰めた床に目が行ってしまう。グラン・パレのほうは企画展の端境期であったが、10月から始まる北斎展の大きなポスターが眼を引いた。

カルナヴァレ博物館はこれまで回ってきた美術館とは違って、パリの歴史にまつわる雑多なものが集まっている。先史時代の遺跡の出土品もあれば、ナポレオン三世時代のパリ大改造で取り壊された建物のファザードや看板もあり、フランス革命の資料もある。パリの街の様子を描いた多くの絵画も展示されており、そのなかには藤田嗣治やピカソの作品もある。中庭は菜園になっていて、野菜や花を育てている。「パリの歴史」というテーマがあるだけで、展示品は種々雑多だ。その雑多さに圧倒されてしまう。