熊本熊的日常

日常生活についての雑記

読書月記2020年6月

2020年06月30日 | Weblog

桂米朝『上方落語ノート 第一集』岩波現代文庫

米朝を直接聴いたことはない。しかし、普段ネットの動画で聴く噺は圧倒的に米朝が多い。その時々に上がってくるものの中から選んで聴くのだが、「百年目」「除夜の雪」「一文笛」といったところは自然にクリックしてしまう。DVDも何枚か持っているが、パッケージソフトは買った時は頻繁に聴いても、そのうちネットの方で聴くようになる。だったら買わなければ良いのにとは思うけれど、買いたいと思う時期がある、あった。風邪のようなものだ。

落語は芝居や古典文学の素養の上に成り立つ。よく噺家が「勉強しないと聴けないかのような印象が蔓延していますが、本来は気楽に聴いていただくものです」などという。騙されてはいけない。それは営業の呼び込みのようなものだ。やはり、落語を聴くことを楽しもうと思えば、それなりの下地は準備しないといけないと思う。

短歌や俳句をかじるようになって思うのだが、芸事というのはその芸を抜き出してどうこう語るものではなく、文脈の中で味わうものだ。日本語がそういう言語だと思う。語彙や文法も大事かもしれないが、言葉の置かれた文脈がわからなければ真意は理解できない。文脈は日常生活の中で自然に醸成される部分もあるが、やはり意識的に決め事やその背景を学ばないと、本当の言葉の意味というものは理解できない。

 

桂米朝『上方落語ノート 第二集』岩波現代文庫

米朝の書いたものは、エッセイのようなものでも学術書のような厚みがある。芸というのはここまで多くのことを咀嚼できていないと成り立たないのだと改めて知る。世に簡単な仕事というものは一つもないとは承知しているつもりなのだが、ひとつひとつの動作にそれを必然にする「何か」がないと仕事にならないのだとつくづく思う。近頃は何かと数値化して表層の効率ばかりを喧しく言われるようだが、表層の変化ばかり追うというのは光に反応する虫のようなものだ。街灯に戯れてただ死ぬ。そういう喧しいだけの笑いも芸には違いないだろうが、そんな芸をやっていて楽しいだろうか。その時は高いギャラをもらうのだろうが、人前に曝されて消費されるだけの「芸人」を見るのは人の世の儚さを突きつけられているようで辛い。

ところで、本書に書かれていたのだが

ちくちくと、れんげを食わぬ人はない

という狂歌があるそうだ。「れんげ」とは擂粉木のことで、どこの家庭でも毎朝、摺鉢で味噌をすって味噌汁を作っていたのだそうだ。我が家でも毎年寒の時分に味噌を仕込んでいるのだが、大豆の潰し残しが気になっていた。この歌の話を読んで、味噌に残る豆粒のことが気にならなくなった。

 

桂米朝『上方落語ノート 第三集』岩波現代文庫

本書に小林恭二という俳句の先生が書いたものが引用されていた。

***以下、引用部分***
かつて名句と言われた句がまったくかえりみられなくなってしまったのである。名句と言われる句は、どれも多少難解である。シンプルなものもないではないが、そういう句は内意ひどく難解だったりする。それがかえりみられなくなった。(中略)要するに俳句は難解であるという迷信が崩壊したおかげで、誰も本気で俳句を読み解こうとしなくなってしまったのである。これは結構困った事態である。
…(中略)…
その結果、現代の言葉はおおまかにいってふたつの傾向下におさまったようである。すなわちひとつはその受け手が、何も考えないでも理解できるよう、最初からよくかみ砕かれた離乳食のような言葉。これはこれで悪いものではない。よかれあしかれ現代における膨大な情報をひとつひとつ自分でかみ砕いて理解することなど不可能だからだ。

もうひとつは、その反対にアイキャッチだけを目的とし、最初から理解されることを求めていない言葉。新種のスローガンと言い換えてもよい。

良い悪いの問題ではない。だがその二種類の言葉の狭間にあって、自分で考えて理解されることを要求する難解な言葉は、どうやら居場所を失ったようなのだ。
…(中略)…
俳句は現在、易しすぎて何ら謎を内蔵し得ないものと、ほとんど理解されることを求めていないものとの二種類に分裂しつつある。これはこの文芸にとってあまり幸福なこととは言えない。何となれば、全長十七文字という極端に短い詩型でありながら、十分な謎とそれに対する答えを含みうるところに俳句の醍醐味はあるのだから。

俳句は今、危機にあると思う。季語がどうのとか定型がどうのという問題ではないのだ。言葉の質がかわってしまっているのだ。俳句が生き残るとすれば現代の言葉の環境が再び変化するか、俳句そのものが変化するかの二つにひとつだろう。いずれにせよその確率は高くない。現代俳句は正念場を迎えているのである。
***以上、引用部分***

米朝は落語も同じだと続ける。言葉とは人間関係だと思う。人間と人間、価値観と価値観、世界観と世界観、それらの交渉、その活動の総体が言葉というものに結実しているのだと思うのである。人の生活の様々なものが分割され細分化され、本人の預かり知らないものになってしまったのが今の姿ではないだろうか。自ら手足を動かすことなく、出来合いのものを大した考えもなく組み合わせて「自分」だと思い込んでいる。自ら手足を動かさないから身の回りの道理を実感する機会に恵まれない。腑に落ちる経験が乏しいからモノを考える切掛も乏しい。勢い考えるという習慣が廃れる。世に「心の病」とやらが蔓延するのは当然なのである。

妙な病気が流行るとか、どこぞとどこぞの大国が対立するとか、そんなこと以前に人類は内部から崩壊するのである。


梅干 6日目

2020年06月20日 | Weblog

梅酢たっぷり

自分で作った陶器の壺で漬けていたときは、重石が不十分であったり、貫入から水分の蒸発があったりして、梅酢がヒタヒタになるまでに時間がかかった。今回は重石を十分にしたのとガラス容器であるため、梅酢の上がりがこれまでになく早い。


梅干 初日

2020年06月15日 | Weblog

梅干を仕込む

梅:和歌山の農家産直通販ショップ 和味 にて購入した自然落下完熟梅(南高梅)5kg
塩:家にあった各種粗塩 約600g

ビニール袋に水を入れたものを重石代わりにする。

以上