平和な一日。といっても、これを平和と言えるのかどうかは受け取り方によるような気もする。というのは、ほぼ終日、宿のオーナーの熱い語りに付き合うので、時に独断と偏見に飛んでしまう論理を追うのもけっこう難儀なことではある。ただ、誰しもそうしたバイアスはあるものなので、そういうことを受け流すことができるなら、殊に農や自然に関する話は、様々な分野に敷衍することのできる深さのあることが多く、愉快この上ない。
田畑という世界において、「豊かさ」というのは何が豊富に在ることなのか、というのは立場によって答えが違うはずだが、意外と見過ごされているのではないか。例えば、米の作り手にとっては、米の収量の多寡が「豊かさ」の尺度ということに異論はないだろう。しかし、それが、今年の収量なのか、向こう10年間の総収量なのか、となると話は単純ではなくなる。目先の収量を追うなら農薬や化学肥料をふんだんに投入してターゲットとなる米の収穫が極大になるようにすればよい。しかし、化学的に合成したものに依存すれば、田の生態系は破壊されて地力が衰え、翌年はより大量の化学品の投入が必要になる。田の本来の生産力を維持増強しようとすれば、米だけでなく、田の中に暮らす生物全体のバランスの取れた生態系を確立することが必要になる。そうなれば、米にとっては競合相手となるような植物や動物の生存圏を許容しなければならず、その田から収穫可能な米の量を自ずと制限することになりかねない。それを両立させるのが科学技術だろう、と言われればそうかもしれない。しかし、それができるほど現在の科学技術は進歩しているだろうか。
敢えて単純化した言い方をすれば、部分最適は全体最適には必ずしも結びつかない、ということだ。あるいは、所謂「多体問題」の一種とも言える。しかし、目先の収量を増やす、ということよりも、多様性を確保して持続可能性を目指すということに、生命体としての自然を感じる。 こじつけになるが、自分の生活において、目先の収量に相当することと、持続可能性に相当することに相当するのはどのようなことがあるだろうかと考えた。生活圏の多様化というのは、例えば、自分以外の人と生活を共にするということではないかと思うのである。当然、ある程度の時間や手間隙をかけて、その生活圏を構成する参加者間の考え方や置かれた状況の調整といったことは必要になるだろう。しかし、そうした手間隙や煩わしさというようなものは人としての生活のなかに存在する当然の負荷でしかないと思う。もちろん、負荷が個人の負担能力を超えてしまっては生活圏そのものが成り立たない。だから農業において地力の維持向上のために輪作の組み合わせを考えるように、ふさわしい共存相手を選ぶことが必要になる。多様性というのは秩序ある共存共栄であって、単なる混合混乱とは違う。
他にも、今日はいろいろ示唆に富んだ話を聴いたのだが、とりあえず、今日はこれくらいにして、また別の機会に譲ることにする。