熊本熊的日常

日常生活についての雑記

「坂の上の雲」

2009年11月28日 | Weblog
子供と話をしていたら、学校の図書室で「竜馬がゆく」の何巻目と何巻目がいつもなくて読み始めてはみたものの一向に読み終わらない、というので自分が持っている司馬遼太郎の作品を譲ることにした。「竜馬がゆく」も持っているのだが、「坂の上の雲」から渡すことにして、その前に再読してみた。

「子は宝」という言葉がある。第一義的には次世代の担い手としての価値を表現しているのだろうが、個人にとっては己の思考を深める触媒としての価値をも表現している。子供に何を伝えることができるかということを考えることは、自分の生き方を考えることでもある。生き方を考えることは、自分が置かれた状況を考えることでもある。

以前に何度も書いているが、人は生まれることを選ぶことができない。どの時代にどの国のどの親のところに生まれるか、当事者に選択の余地はない。生まれたが最後、その生を全うしなければならない。にもかかわらず、生とか命というものに過剰なまでの価値を置こうとする考え方が世の中に蔓延しているのは、そうしないと秩序が維持できないからだろう。生命体がその自己保存のために自らのなかに組み入れた先天的な思考パターンのようなものだ。とはいえ、生命の継承が目的なら、100ある命が100のまま維持されなければならない必然性は無い。1つでも2つでも次世代につながるなら、それで十分ということになる。

自分は、現在のところその継承作業に微力ながらも寄与できたことになる。生命体としての使命は果たしたので、もう何時生きることを止めてもかまわないということだ。それでも敢えて残された義務のようなものがあるとすれば、その継承した生命をより強固なものにすることだろう。それは様々な意味における知恵を次世代と共有し、その発展のために協働することだと思っている。

そうした協働作業のためには具体的な媒介物が必要不可欠である。本とか映画といったもの、あるいは文学と呼んでもよいかもしれないが、そこに描かれる無数の仮想人生が物事を具体的に考える際の絶好の材料になる。ここで言う「文学」には映画や美術も当然に含み、仕事とか社会での処世術といったものも包含するものとしておく。健康な親子の関係というのは、端的に語るなら、そうした文学を語り合える関係である。文学を語り合えない親子というのは、その関係が根本から崩壊しているということだ。

子供というのは自分にとっては最も身近な他人であり、自分の分身でもある。そこに自分自身の影を、程度の差こそあれ、見るものである。親の存在も同じである。身近な他人の姿を目の当たりにすることで、そこから人は何事かを学ぶのである。人というものの実体は不定形であり、そこに刺激を与えることで得る反応にその人を見るのである。その刺激には自分が良きにつけ悪しきにつけ心を動かされた文学が良い。それについて感じたことや考えたことを相手に投げかけてみて、どのような反応があるかというところに、自分と相手との距離もおのずと見えてくるものだ。

司馬が取り上げる人物は皆美しい生き方をした人たちだ。「美しい」というのは自分が何者であるのかということをとことん追求している姿だ。明治という時代がどのような時代であったのかということは、想像に任せるしかないのだが、人々の価値観の軸が大きく振れた時代であったことは確かだろう。だからこそ、列強がその混乱に乗じて火事場泥棒のように乗り込んできたのであろうし、窮鼠が猫を噛むが如くに、そうした列強に立ち向かわなければならない状況もあったのかもしれない。いずれにしても、現代の日本とは比べ物にならないほどに困難な時代であったことだろうと思う。

「坂の上の雲」では、そうした時代を生きた3人の人物に焦点が当てられ、彼等が活躍した2つの戦争が描かれている。人の真価というものは、その人が困難な状況に陥ったときにこそ発揮されるものだ。どこまでが史実でどこまでが虚構なのかは知らないが、彼等3人の生き方に、その強さに、圧倒される思いがした。日々の暮らしのなかで、些細なことに不平不満を抱いている自分自身が、とてつもなく矮小に感じられて、恥じ入る思いである。そういう矮小さも含めて、この作品について考えたことを、いつか子供と話してみたい。

「行旅死亡人」

2009年11月23日 | Weblog
出演者には申し訳ないが、登場するのは知らない俳優ばかりである。それでも、十分に面白いと思った。無理してギャラの張る俳優を使わなくても、良質な作品を作ることができるということである。実話に基づいているという所為もあるのかもしれないが、物語の構成が明瞭で、全体としても、部分を構成しているサイドストーリーにしても、論理の破綻が無いので、安心して最後まで物語の展開に身を任せることができる。華はないけれど、アイデンティティとか夫婦の絆といった普遍性のあるテーマが盛り込まれた見応えのある作品だ。

「行旅死亡人」というのは法律用語で「こうりょしぼうにん」と読むのだということを初めて知った。身元不明で亡くなった人のことで、この映画に登場するような訳ありの人である場合もあれば、北朝鮮の工作員というようなケースもあるのだそうだ。

自分が自分であることを証明するというのは容易なことではない。昨今、個人情報というものに対し必要以上に過敏な人が増えているように感じられるのだが、確かに、住所だの電話番号だのは自分を表す記号ではあるが、それらが自分そのものであるわけはない。現に、重大事件の犯人が懲役を終えた後、名前も戸籍もすべてを一新して娑婆に戻ってくる事例もあるのだから、「個人情報」というものに実体があるわけではないのである。

それにしても、替え玉殺人が事故死のまま処理されてしまうのでは、警察の実況見分というのは無意味ということだろう。最近話題になった婚活詐欺の被害者も、実体としては限りなく殺人に近いと思うのだが、自殺として処理されていた案件が複数存在する。ある特定の人物に関係する人々が、揃いも揃って練炭自殺を図っていたら、そこに事件性を見出さないほうが不自然であると思われるのだが、被害者が所轄の警察を超えて存在する場合には、それらを結び付ける発想というのは、少なくとも警察の側からは生まれないものらしい。確かに、厄介な事件を抱え込んで別の部署との連絡や調整を要する面倒な作業に関わったり、ただでさえ低下が続く検挙率をさらに低迷させる可能性を増やすよりは、交通違反のような身近で容易に検挙できる事件処理に注力したほうが、警察関係者自身の保身に有利であるという官僚的事情があるのは想像に難くない。人間の行動原理の根底に自己保存というものがあるのは常識だ。

ところで映画のほうだが、替え玉殺人を犯したほうの事情としては、天候不順によって栽培している農作物が壊滅的打撃を受けて生活に窮したという同情すべきところもあるという設定だ。その農家の夫婦が事故と見せかけて妻が亡くなったことにして保険金を受け取り、その金を元に夫が生活の立て直しを図り、事件が時効となる15年後に夫婦としての生活を再開するという計画なのである。

15年もの間、別々の生活を送りながら、夫婦としての関係を維持できるものだろうか。夫婦とか親子というのは、結局のところは幻想ではないかと思う。健康な精神は、自己の領域を確かなものと認識することによってのみ維持できる。人は密度の濃い幻想で自己を包み込むことによって精神の安寧を得ていると思うのである。ごく普通に家族関係を持つ人にとっては、それが良好であるか否かに関係なく、親子であるとか夫婦であるということは既成のものとして認識されていると思う。この作品で自分を消して潜伏生活に入った妻のほうは身寄りが無いという設定になっている。つまり彼女が自己の存在を確かなものにするのは夫の存在以外に無いのである。だからこそ、8年間も世間の隙間に身を埋めるようにして生きることができたのであろうし、おそらく病を得なければ15年間の時効を全うできたであろう。夫のほうを取り巻く人間関係は描写されていないのだが、親兄弟の存在を示唆するものが登場してこないので、おそらく似たような状況という設定なのだろう。こうした特殊な状況を想定することによって、この物語はファンタジーではなく、極めて現実的なものとなるのだと思う。

「千年の祈り」(原題:A Thousand Years of Good Prayers)

2009年11月19日 | Weblog
原作は中国人が英語で書いた小説、監督は香港出身、主演は中国人、プロデューサーは日本人、舞台は米国。私が観る映画を決めるのに、よく参考にしている媒体に掲載された紹介記事。なんとなく期待感が強かった所為か、観終わって少しがっかりした。

物語は12年前に結婚して故郷の北京を離れて米国に移り住んだ一人娘を父親が訪ねるところから始まる。父は離婚した娘の様子を案じ、やって来たのである。娘を元気付けようと、北京で料理教室に通って料理の腕を磨いた父は、娘のために毎日炊事に精を出す。娘の好物を食べきれないほど作って、娘の帰りを待つのだが、娘にとってはそれが疎ましい。友達と食事の予定が入ったと言って一人で映画を観て暇つぶしをしてみたり、恋人と会ったり、なんとか父を避けようとする。それは、そもそもこの親子の関係がぎくしゃくしたものであったという所為もある。父と食卓を囲んでいても、会話らしい会話があるわけではない。そのことが父には気がかりなのだが、娘にしてみれば食卓が静かなのは今に始まったことではないとの思いが強い。父は自称「ロケット科学者」だが、それが嘘であることは娘も亡くなった母も知っていたのである。何故、父がそんな嘘を家族につき通さねばならなかったのか、何故、家族の食卓が無言であったのか。その理由がこの親子のぎこちない関係の理由でもある。父は娘に自分の嘘を指摘され、その弁明を契機に親子の距離が少しだけ縮まる。

作品の造りが大雑把で、露骨に芝居じみている。映画なのだから芝居じみているのは当然なのだが、もう少しなんとかならないものかと思う。

例えば、娘の離婚原因は娘がロシア人と不倫関係に走ったことにあり、娘の寝室のドレッサーにはマトリョーシカが飾られ、オーディオ装置の近くには、CDが無造作に置かれている。娘の留守中に父がそのCDをかけてみると「カチューシャ」が流れ出す。恋人が青森出身だったとして、部屋にねぶたをモチーフにした人形を飾ってみたり、津軽三味線のCDを聴いたりするだろうか。

父の台詞には、物事を前向きに捉えようとする姿勢が強く表現されている。そのことが、作品後半で語られる辛い過去を乗り越えたことで得た彼の人生観を示唆しているかのようである。しかし、無闇に人を励ますのは、本当の苦労というものを知らない人がすることなのではないだろうか。人の感情というものは、深いものほど言葉では表現できないものだろう。節操無く言語化してわかったようなつもりになるのは浅薄で虚飾に満ちていて醜悪に感じられる。

この作品のタイトルの由来は作中の台詞で説明されている。

修百世可同舟
修千世可同枕

人と人との出逢いは長く深い祈りの結果だというのである。だからこそ、何度ひびが入っても修復できる、と。祈って物事がどうにかなるものなら、世界はもっと平和で、人生はもっと気楽であるはずだ。

食事の扱いは上手いと思う。食事を作ることは、単に食欲を満足させるための下準備ではなく、そこに食事を共にする相手への想いが込められているはずであり、ひとりで食べる場合でも、その人の生活というものに対する姿勢が反映されているはずだ。父は食べきれないほどの料理で食卓を埋め、沈黙に満ちた食事があり、残飯を娘が捨てる、というシーンがある。その何気ないシークエンスがこの親子の何事かを象徴しているようだ。何度も書いているので、またかと思われるのは承知なのだが、家族というものに特別な関係であるかのような幻想を抱くことほど不幸なことはないと思っている。その微妙な不幸が、こうした食事の描写で表現されているように見える。

食事の場面に限らず、日常の風景を重ねているのも、親子の感情の微妙な変化を描写するには効果的であると思う。映画のチラシにも使われている場面で、壁を挟んで父が娘に隠していたことを告白するところなどは、部屋の壁が親子の間の心理的な壁を象徴しているかのようであり、視覚的にも壁を挟んでそれぞれの表情が捉えられていて印象に残るものだった。

枝葉末節ながら字幕が気になった。米国を舞台としているが、台詞の殆どが中国語である。ところが、日本語の字幕がついていない箇所がかなりある。特に父が公園で知り合ったイラン人女性との会話のなかにそういう空白が多い。イラン人女性との会話は互いに片言の英語で交わされるのだが、所々に中国語とペルシャ語が混じる。その中国語とペルシャ語に字幕が入らないのである。想像するに、映像翻訳者は中国語の台詞を英文に翻訳したものを日本語に翻訳しているのではないだろうか。つまり、中国語の翻訳者ではなく英語の翻訳者ではないだろうか。作品の中心となる親子の会話は英語訳の脚本があるのだが、背景の一部でしかない公園での会話には英語訳が無く、従って、日本語字幕も付かないということではないのかと思う。英語の翻訳者は掃いて捨てるほどいるのだが、中国語となると映像翻訳者がいないということなのだろう。

昔、3ヶ月毎に台湾へ出張していた時代があった。当時、せっかくの機会なので中国語でも勉強しようと思い、ベルリッツで個人レッスンを受けた。その甲斐あって、少しは中国語もわかるのだが、その後は何も勉強していないので中国語は忘れる一方である。この作品を観ていて、多少認識できる言葉があり、ふと改めて中国語の勉強を再開してみようかなどとも思ってみたりした。

天気の良い日は

2009年11月15日 | Weblog
天気が良かったので東横線多摩川駅から田園都市線二子玉川駅まで多摩川沿いを往復した。

あまり社交的ではないのだが、人と話をすること自体は好きである。仕事の終業が終電に間に合わないとタクシーで帰宅するのだが、そういうときは必ずと言ってよいほど運転手と話をする。深夜なので、運転手のほうは客が眠いのではないかと気遣って行き先と経路を確認した後に、話しかけてくることは稀である。たいがいは私のほうから話しかける。
「いやぁ、プリウスのタクシーに乗るの初めてだなぁ」とか
「昔はこのあたりは個人タクシー少なかったですよね」とか。
相手も客商売なので、適当に会話が弾み、15分ほどの乗車時間があっという間に終わる。いちどだけ、鉄道ネタで会話が盛り上がってしまい、車の速度がいつもより遅く、料金が高くなってしまったことがあり、以降は当たり障りの無い話題を心がけるようにしている。

今日は多摩川駅で待ち合わせ、田園調布倶楽部で昼食を共にしてから出発する。河原にはグランドが整備されていて、野球やサッカーの試合に興じる人々がいたり、テニスを楽しんでいる人々がいる。話題には事欠かない相手を誘っているので、そもそも話に詰まることはないのだが、眼に入る風景のなかに話のネタがふんだんにあるので、会話が途絶えることがなかった。二子玉川の高島屋でトイレ休憩の後、多摩川駅へ向かって河原の歩道を戻る。夕焼け空が広がる頃、多摩川駅に着いて解散となった。

長い時間、歩き続け、話し続けたので、適度な疲労感が残り、それがまた快適であったりする。なにがなくとも語り合う相手さえいれば、豊穣な時間を過ごすことができる。ただし、相手も同じように歩いたり、話をしたりすることが好きな人でないと、このようなわけにはいかないだろう。愉しさとか、豊かさというものに関する価値観をある程度共有できる相手にたまたま恵まれたので、今日のこの時間があったということだ。

半日を楽しく過ごすことができる相手と、半年、半世紀も同じように一緒に歩み続けることができるとは限らない。しかし、半日すら共有できない相手とは、そもそも胸襟を開いて付き合うことなどできない。人間関係については過去に何度も手痛い失敗をしているので、それだけ習得した教訓も多いと、自分では認識している。たとえ茶飲み友達といえども、これからは中途半端な妥協はせず、納得のできる関係を構築していきたいと思う。

今週は天気が良くなかったが、今日は見事に晴れ渡った。夕焼けもきれいだった。

詫びるということ

2009年11月12日 | Weblog
夜勤とはいえ、終電に間に合う時間には職場を出ている。平日はほぼ毎日、終電かその一本前の電車を利用して帰宅している。鉄道というものはダイヤ通りに運行されるものと信じていたが、少なくとも深夜の山手線は時刻通りに運行されていることのほうが少ない。理由は「○○駅で線路に人が立ち入った」とか、「△△駅で非常装置が作動したため安全の確認」とか、要するに客側の問題であることが多いようだ。尤も、そのような構内放送があるというだけで、それが事実であるかどうかはわからない。

そのような事情がある所為かどうか知らないが、車掌や駅職員の「電車が遅れましたことをお詫び申し上げます」という言葉の調子は、どこか投げやりで、「詫びる」という意味が理解されていないのではないかとすら思われる。不測の事態により鉄道の運行に支障が出るのは止むを得ないとしても、そのことへの対処が、客への侘びも含めて本当に適切なのだろうかといつも疑問に思うのである。

障害が発生したときの列車運行上の対処に関しては、私の関知するところではないが、客に対する心遣いというものは無きに等しいように感じられる。詫びるのであれば、詫びる気持ちを持って言葉を発して欲しいものだ。口先だけの「お詫び」は、かえって不愉快だと思うのは私だけだろうか。

極端な対比であることは承知しているが、かつて硫黄島において日米間の戦闘が行われた際、日本軍の責任者であった栗林中将は、いよいよ最後の突撃に出発するに際し、本土へ打った電文にこのように記述している。

「戦局、最後の関頭に直面せり。敵来攻以来、麾下将兵の敢闘は真に鬼神を哭しむるものあり。特に想像を越えたる物量的優勢を以ってする陸海空よりの攻撃に対し、宛然徒手空拳を以って克く健闘を続けたるは、小職自ら聊か悦びとする所なり。

然れども飽くなき敵の猛攻に相次で斃れ、為に御期待に反し此の要地を敵手に委ぬる外なきに至りは、小職の誠に恐懼に堪えざる所にして幾重にも御詫申上ぐ。

今や弾丸尽き水涸れ、全員反撃し最後の敢闘を行はんとするに方り、熟々皇恩を思い粉骨砕身も亦悔いず。

特に本島を奪還せざる限り、皇土永遠に安らかざるに思ひ至り、縦ひ魂魄となるも誓って皇軍の捲土重来の魁たらんことを期す。

茲に最後の関頭に立ち、重ねて喪情を披瀝すると共に、只管皇国の必勝と安泰とを祈念しつつ永へに御別れ申上ぐ。

尚父島、母島等に就ては、同地麾下将兵、如何なる敵の攻撃をも断乎破摧し得るを確信するも、何卒宜しく御願申上ぐ。

終りに左記駄作、御笑覧に供す。何卒玉斧を乞う。

左記

国の為重きつとめを果し得で矢弾尽き果て散るぞ悲しき

仇討たで野辺には朽ちじ吾は又七度生まれて矛を執らむぞ

醜草の島に蔓るその時の皇国の行手一途に思ふ」

こちらは「御詫申上ぐ」のところだけ抜き出すのが不遜に思われて、全文を引用してしまうほど重い「お詫び」だ。極端を知れば、その間が中庸ということになるだろう。人の生活というものは、中庸でありたいものである。

だいこんの花

2009年11月11日 | Weblog
森繁久彌といえば、何故か「だいこんの花」を思い出す。子供の頃に観ていたテレビドラマなのだが、森繁は元海軍大佐で巡洋艦「日高」の艦長だったが、今は隠居の身、というような設定だったと記憶している。日高の部下のひとりが近所で「日高」という名の小料理屋をやっていて、そこに夜毎通っては楽しげに飲んでいるという絵姿が印象に残っている。かつての部下からは「艦長」と呼ばれ、本人も当然のように艦長然としているというのが、子供心にも「戦友」というのはこのような関係なのかと思わしめた。そこはドラマなので、勿論脚色があるのは、今は承知しているのだが、当時の私は小学生だったので、そんなことまでは思い至らず、ただ良い雰囲気だと漠然と感じていたと思う。

戦時中の上官と部下の関係がこのように良好な状態で継続することが果たして一般的なことなのか、例外的なことなのか、身近に軍隊経験者がいないので想像もつかない。時間には人の記憶を浄化する作用があると思う。そのときは辛いことでも、後になってふり返ってみれば良い思い出、というようなことは誰にでもひとつやふたつはあるのではないだろうか。生きるか死ぬかという切羽詰った状況を共有した人たちの関係は、その状況が深刻であればあるほど強固になるものなのかもしれない。あるいは、それが悲惨を極めれば、その悲惨な状況と一緒にして記憶から消し去りたいと思うものかもしれない。不況だのなんだのと言われながらも平穏な時代に暮らす自分には、やはり想像できないことである。

そうした強固な人間関係とは無縁でいるということは、幸福なことなのか、不幸なことなのか。

好楽・王楽 二人会

2009年11月07日 | Weblog
昨今はどこの世界でも、所謂「二世」が多くなったように感じられる。身近な人の後を継いで自分の人生を組み立てるというのは、それだけ継がれるほうの生き方に魅力があるということでもあるのだろうし、継ぐほうが親を超えようとする意欲を持っている限りにおいて、そこに何がしかの進歩や発展が期待できるというものである。しかし、世襲が当然ということになると、社会としては新しいことに挑戦する気概が殺がれ、閉塞感に襲われやすい状況になる危惧もあるのではないだろうか。

90年代のバブル崩壊以降、この国は政治も経済も基調として凋落の一途を辿っているように思われるのだが、そうした背景のひとつには、既存の発想や価値観を打破しようとする気概が乏しい社会にあるように思う。敗戦の混乱から国民ひとひとりの努力の積み重ねとそれを後押しするかのような無数の僥倖に恵まれて奇跡的ともいえる復興を果たし、その頂点があのバブルであったような気がする。そして、その成功体験が裏目に出ているのが今という時代なのではいだろうか。経済成長のなかで築き上げられてきた様々な仕組みがあり、そのなかには大小様々な閨閥の復活とか形成といったものもあるのだろう。そうした権威が幅をきかせるようになると、ろくに考えもせずに既存の権威に盲従する風潮が蔓延しやすくなるように思う。権威に合理性があるのならそれでもよいのだろうが、考えるという習慣が失われてしまうと、この国の実質はやがて消えて無くなるのだろう。

さて、好楽・王楽の二人会を聴いた。親子でありながら、兄弟弟子という珍しい関係である。落語の世界では、子が親を師匠として芸の鍛錬を積むというのはよくある。しかし、子が親と同じ師匠につくというのは聞いたことがない。おそらく、親の側、子の側、それぞれに考えがあってのことなのだろう。私は落語のことは何も知らないので、あれこれ批評することはできないが、単純な感想としては、なるほど芸に関しては親子ではなく兄弟だなと思う。

二人の師匠は先日亡くなられた三遊亭円楽だ。似たところは無いように感じるのだが、好楽の演目が「薮入り」という人情噺であった所為か、そこには円楽を彷彿とさせるものを感じた。対する王楽は「三方一両損」で、噺の舞台が江戸時代ということもあり、噺家の内容の咀嚼が不十分であるように感じられた。円楽から稽古をつけてもらった演目なのだそうだが、師匠最晩年の弟子という所為もあるのだろう。真打を襲名するにしては、付け焼刃的な感が、少なくとも私のなかでは、否めなかった。

落語には舞台装置というものが殆ど無い。技巧も大事だろうが、語る話を自分のものにできていなければ、相手の心には伝わらない。古典落語のように話の時代背景が現代とは大きく異なる場合、どうしても自分の人生に重ねることが困難な部分というのは残るのが当然だろう。だからといって、自分の体験として取り込むことのできない部分を残したままにしておくと、話がまるごと他人事になってしまい、その噺が本来備えていたはずの、人の琴線を震わせる躍動感が失われてしまうように思う。結局のところ、舞台装置がない芸というのは、芸の主の人間としての総合力が問われているということなのだろう。つくづく難しい芸だと思う。

勿論、鑑賞する側にもリテラシーが要求される。演じ手と聴き手とが互いを高めあうことで、そこに単なる話芸を超越した世界が展開する、というのが理想の落語というものだと私は思う。個人的な体験として、その理想が実現される場にめぐりあいたいものだと思うのだが、それは宝くじの一等を当てるよりはるかに困難なことだろう。

美術館で考えた

2009年11月06日 | Weblog
根津美術館を訪れた。約3年半におよぶ建て替え工事が終わり、この10月に晴れてお披露目となった。

建物は変わったが、庭は以前とほぼ変わらず、起伏に富んで趣深い様子を楽しむことができる。園路を飛び石から石畳に変えたり、建物の建て替えに伴って経路にも手が加えられているが、全体の雰囲気は変わらない。なにより、苔がすばらしい。

美術館の展示は再開記念で当面は収蔵品の展示を行うのだそうだ。これからの1年間を8部に分け、各部にテーマを持たせた展示になる。現在は第1部「自然の造形」で11月8日まで。18日からは第2部の茶道具という具合。都心にある比較的小規模な私立美術館でありながら、その収蔵品には国宝7件、重要文化財87件が含まれている。これほど濃密な美術館というのは世界でも稀なのではないか。

今回の展示の目玉は5年ぶりの公開となる国宝「那智瀧図」。鎌倉時代の作品なので、それ相応の年季が入っているのだが、構図の美しさや技法の確かさは今の姿からも十分に感じ取ることができる。完成当時の姿はさぞかし観る者を圧倒する凄みのようなものがあったのではないかと思う。

絵はよいのだが、いつも軸装された墨跡を見ると不思議に思う。手紙や写本の一部を切り取り、それを掛け軸に仕立てるという神経がどうにも理解に苦しむ。文字が美しいのでそれを飾りたいという気持ちはわからないでもない。しかし、もともとひとつのまとまりがあるものを切り刻んでしまうことはないだろうと思うのである。絵でも巻絵は同じような災難に遭っているものが多い。持ち主が金策に迫られて、そのような形にして手放さざるを得なかったというような事情もあるようだが、それにしてもむごいことだと思う。今回の展示でも展示室2に並ぶ墨跡はそうしたものばかりである。

手紙であるとか、絵巻物であるとかを製作者の意図など考えもせず、自分の都合だけで切り刻むことが、権力や財力の誇示ならば、権力とか財力というものはろくなものじゃない。尤も、西洋の絵画でもその時々の保有者の都合に合わせて分割されたり周辺部分を切り落とされたものは少なくないようなので、権力者の横暴というのは人間の性向なのかもしれない。悩ましいのは、そうした権力者の庇護なしには、芸術というものが成り立たないのも事実であることだ。芸術は権力に認められてこその芸術であり、権力の認知がない自称「芸術」は単なる物好きの世界だ。確かに、日常使いの道具類が持つ美しさや使い尽くされることで輝くものもあり、そうしたものに注目する見方もある。とはいえ、そういうものは権力の対極に位置するものであり、その意味においてやはり権力に依存して存在しているといえなくもない。

結局、権力との関係を抜きに文明のなかで生きるということは不可能、ということなのかもしれない。

近そうで遠い

2009年11月03日 | Weblog
今日は休日だが、先週が休講だったので、その振り替えとして、今日は陶芸教室があった。本焼きに出していた3つの器が焼きあがってきた。そのなかのひとつは抹茶茶碗のつもりで作ったのだが、素焼きのときよりも、さらに縮んでしまった上に、全体として微妙にへたってしまい、とても抹茶を点てることのできる代物ではない。今日、素焼きであがってきた茶碗も、抹茶を点てるには使いにくそうな形状になってしまっている。施釉前のやすりがけで補正を試みるという姑息な手を考えてはみたものの、かなり無理がある。やすりがけでできるだけのことをした上で、織部釉をかけて本焼きに出した。自分が問題と感じている点については先生に相談して、いくつか助言をいただいたので、そうしたことも踏まえ、来週は轆轤で茶碗ばかり挽いてみようと思っている。