土屋武之 『ビジュアル図鑑 鉄道のしくみ』(基礎編、新技術編) ネコ・パブリッシング
三省堂書店池袋店で購入。「ビジュアル図鑑」というくらいなので、図や写真ばかりで読むところがあまりない有難い本。小学生高学年の頃、『鉄道ファン』という雑誌を読んでいたが、中学以降はそういうものとの縁が切れてしまっていた。数年前に思い立って鉄道友の会に入会したが、専門分会がなんとなく敷居が高く結局一年でやめてしまった。それでもなんとなく気になっていて、気軽にぱらぱらと目を通すことのできるものがないかと思っていた。たまたま書店で手にとってこれがいいなと思い、ぱらぱらではなく一気に2冊読み通してしまった。読み終わってみるとかなり物足りない。どうしてこんなものを買ってしまったのか。
竹沢尚一郎 『西アフリカの王国を掘る 文化人類学から考古学へ』 臨川書店
みんぱくのフィールドワーク選書の10巻目。アフリカは人類のふるさとだ。人類が誕生した土地であるということは、たぶん文明も早い時期に生まれていただろう。今は「文明」というと「先進国」と呼ばれる地域での生活のイメージ、あるいは歴史の教科書に登場する四大河文明とか古代ギリシャ・ローマを思い浮かべる人が多いのかもしれない。しかし、文明というものが人間の知識や情報の蓄積の上に成り立つとすれば、当然に人類が長く暮らした土地に興るものだろう。ということはそれがアフリカ大陸であるであることになんの不思議もない。確かに四大河文明のひとつエジプト文明はアフリカ大陸のものだ。
アフリカの地図を見ると、国境線が不自然に直線であることに違和感を覚える。人が自他を区別するのは、自分の生活圏が自分自身の延長線上にあると意識されているからだろう。人の生活というものは自然環境のなかにおいて成立しているのだから、土地の地理や自然と密接に関係しているはずだ。とすれば、生活圏というものは地形や気候と適合したものであるはずであり、そういうものを無視して自他の区分などできるはずはないのである。ところが現に直線の国境が設定されている。そこで生活をしている人たちがそのような境界線を考えるはずはない。つまり、その国境はそこにいない人が決めたものである。
他人が勝手に決めた「自分」を押し付けられて生活しているのが、そういう土地の人たちだ。そういう状況が安定するはずがないのである。アフリカというところには行ったことがない。英国に留学していたときに暮らしていた寮の同じフロアにエジプトやエチオピアからそれぞれの国費で留学していた人たちがいて、そういう人たちと寮の廊下ですれ違ったり、たまに立ち話をする程度のことが私のささやかなアフリカ体験である。とてもそんなものからアフリカを語ることはできない。しかし、地図を一瞥しただけで血の臭いを感じるのは、断片的な情報が偏見をもたらしている所為だけではないだろう。
それで本書のことだが、「西アフリカの王国」というのはガオ王国のことで、ニジェール川流域に発展した国らしい。現在のマリ、ニジェールあたりのようで、どちらの国も直線国境だ。マリもニジェールも独立前は仏領西アフリカの構成地域だが、ニジェール川が大西洋に注ぐ河口はナイジェリアで、これは旧英国植民地。リビアのカダフィ独裁政権が崩壊してから、リビア軍として行動していたトゥアレグ人たちが軍備を抱えたままマリへやってきてガオやトンブクトゥを含むマリ北部の独立を宣言した。マリはそんな独立を認めるはずもなく、旧宗主国のフランスもトゥアレグ族の一方的な独立を非難し、軍事介入を実施。一応の治安の回復を見たが、遺蹟の発掘どころではない。ちなみに現在の我が国外務省ではマリに関する危険情報を出しており、その大部分の地域について退避勧告(レベル4)の指定となっている。
国民国家あるいは民族国家なら安定する、というような単純な話ではないことは承知しているつもりだが、自他の区別において「私」が安定するというのが社会の平穏とか個人の幸福感の基本であるのではないだろうか。
秦秀雄 『やきものの鑑賞』 平凡社
『青花』の最新号で秦秀雄の特集が組まれており、それを読んで秦秀雄の書いたものが読んでみたくなった。あいにく、ほとんどの著作が絶版でブックオフでもこの本くらいしか手に入らなかった。本書に関する限り、柳宗悦の民芸に通じる内容であり、柳についての言及も少なくない。それ自体はすっと腹に収まる内容で、敢えて書くほどのことはなにもない。
白洲正子 『遊鬼 わが師 わが友』 新潮文庫
ブックオフでの送料無料化のために『やきものの鑑賞』とともに購入。アマゾンでもそうなのだが「秦秀雄」で検索をかけるとこの本もあがってくるのである。それは本書に「珍品堂主人 秦秀雄」という章があるからだろう。『やきものの鑑賞』のところで「敢えて書くほどのことはなにもない」と書いたのだが、秦秀雄というひとはトンデモナイひとであったらしいことが本書から知れるのである。そんなことよりも、著者の筆力の所為もあるのだろうが、本書に取り上げられている人々には例外なく惹かれてしまう。もう身の回りの整理をしないといけないと思いながら、ついアマゾンに小林秀雄や洲之内徹の著作を発注してしまった。
本書で取り上げられているのは登場順に並べると、青山二郎、秦秀雄、小林秀雄、柳原徳子、洲之内徹、龍神綾、鹿島清兵衛、福原麟太郎、田島隆夫、早川幾忠、菅原匠、高田倭男、梅原龍三郎、古澤万千子、そして最後に白洲次郎となる。これらの人々が章を超えて行き来するので、章のタイトルとは違う人のことが主題のように感じられるところもある。つまり、これらの人たち丸ごとで著者自身の世界観を語っているのだろう。
ところで秦秀雄だが、本書にこのような記述がある。
秦秀雄さんが亡くなった時、いくつかの雑誌社から、追悼のための座談会を頼まれた。秦さんは生前、とかくの噂のあった人であるが、何といっても骨董の世界では、独自の目を持った人物であり、私とは古い付合いであったから、むろん喜んでひきうけた。それは去年の秋のことだったが、いつまで経っても座談会は実現しない。ひきうけたのは私だけで、ほかの人々はみな敬遠して、逃げてしまったというのである。いずれも親しく付合っていた人たちだから、私は意外に感じるとともに、人の心の冷たさを見せつけられたように思ったが、人間にはそれぞれの立場というのものがあるのだろう。秦さん、と聞いただけで、コチンと来るものがあったに違いない。(26頁)
時間というものは解毒剤のようなもので、時間の経過とともにドロドロしていた記憶が清らかに澄み渡っていくことが多いのではないか。「古き良き時代」という言葉を耳にすることがあるが、昔も今も人の世というのはたいした違いはないだろう。それが昔のほうが良かったと思えるのは、時間の経過のなかで今の自分に都合の良いように記憶が整理されるからだろう。秦秀雄が亡くなった直後に企画された特集がことごとく流れてしまったのに、今頃になってメジャー系出版社の雑誌に特集記事が組まれるというのは、つまりはそういうことなのだと思う。事は特定個人のことにとどまらず、凡そ歴史というものは今を生きる人々にとって都合の良いように解釈される。過ぎてしまって今となっては知る人もいないようなことが国を挙げての「歴史論争」になったりするのも、人の記憶というものがそういうふうにできているからだろう。自分にとって清らかなものが他人にとってはそうではない、というのは人がそれぞれの世界を生きているのだから当然なのである。それを論争したところで解決などできるはずはない。わかっちゃいるけどやめられない、というのが人間でもあるのだろう。
白洲信哉(編)『小林秀雄 美と出会う旅』 新潮社
やはりブックオフでの送料無料化のために『やきものの鑑賞』とともに購入。この本も「秦秀雄」で検索するとヒットする。目次のなかに「やきものがとりもった眼敵との縁 秦秀雄」というのがあるからだろう。
編者は小林秀雄の長女の長男、つまり孫だ。小林秀雄の長女の息子ということは白洲次郎・正子の孫でもある。そういう人たちに囲まれて育つというのは幸せなようでもあり不幸なようでもある。自分には全く想像のつかないことでもあり、本人にしか語れないことでもあるのだが、この本には編者の言葉らしきものは殆どない。新潮社が小林秀雄コンテンツを使いまわして取りまとめ、そこに名義貸しをしたようなものに見える。それでもダイジェストとしては多少意味があるのかもしれない。