熊本熊的日常

日常生活についての雑記

メルアド変更

2008年07月31日 | Weblog
メルアドはいくつか持っているのだが、使用頻度が最も高いもののところに来る迷惑メールの数が増加の一途を辿っている。かなり高い確率で迷惑メール用のホルダーに格納されるので、特に不都合は無いのだが、不愉快なので、そのメルアドを潰してしまおうかと思っている。しかし、長年使っていて、いろいろ付帯機能も使っているので、すぐに切り替えるわけにもいかない。少しずつ別のアドレスに移していくしかないのだろう。

それにしても、ネット版のダイレクトメールというのはどれほどの効果があるものなのだろう? 私のように開かずにそのまま削除してしまう人が多数派なのではないかと思うのだが、これも確率の問題なので、数多く打てば、それなりに商売になるものなのだろうか?

今、取り敢えず、テレビと新聞は無くても全く不自由がないことが確認できている。車も自転車も勿論いらない。電話は、通話するという機能としては、固定電話か携帯電話のいずれかを持っていればよいことが、やはり確認できた。モバイル・インターネットはいらない。問題はパソコンである。これを持たないと、金融機関とのやりとりが面倒になりそうだ。したがって、パソコン無しというわけにはいかないだろう。自分の周りからモノがどんどんなくなっていくのは、なんだか妙に嬉しい。

親子

2008年07月30日 | Weblog
毎週子供とメールのやりとりをしている。先日、6月10日付のブログ「あの世はどこに」と同内容のことを書いて送ったら、一生懸命考えたと思しき返事をよこしてきた。中学生ともなると、伝えたいことは伝わるものだと感心しながらその返事を読んだ。

今読んでいる須賀敦子の全集のなかにも、父親とのことがしばしば登場する。必ずしも良好な関係ではなかったようだが、そもそも親との関係が良好などというのは、どこか薄っぺらな感じを受けるのは、自分にそのような関係が無いからかもしれない。その須賀の随筆のなかでも、私は「ヴェネツィアの宿」に収められている「オリエント・エクスプレス」が好きだ。

子は親に対して反発しながらも、どこか自分のなかの拠り所として親の存在を意識するものなのではないだろうか。ちょうど、船が沿岸を航海するときに灯台の光を要所要所で確認するように。しかし、やがて船は灯台の光の届かない大海へ出ていく。そして、灯台ではなく、天体を観察しながら大海原を渡るのである。それがまっとうな航海だろう。いつまでも灯台の光の見えるところをぐるぐる回っているという航海もあるだろうが、それはかえって寂しいことのように思う。

裁判

2008年07月29日 | Weblog
同僚との会話のなかで、裁判官という職業に対する形容の仕方が話題になった。個人的には裁判官と関わった経験があり、そのことを思い出した。

ライブドア事件に関し、7月25日に東京高等裁判所が堀江被告に対する一審の実刑判決を支持し、被告の控訴を棄却、被告は即日上告したと報じられた。私は堀江被告の弁護人の一人と民事訴訟裁判を戦ったことがある。私が被告で、そのヤメケン弁護士は原告側代理人の一人であった。既に判決は確定し、原告側の主張が全て退けられたが、裁判の被告というのは裁判に勝っても何も得ることはない。少なからぬ弁護士費用の負担と、自分の側の証人をお願いして回る精神的負担と、証拠集めやそのための多大な時間の負担がついて回る。それで原告の訴えを退けても、それで終わりである。負担だけが残る。しかし、そうした経験を通じ、学んだことは山のようにある。特に、裁判、さらに敷衍すれば世の中、のしくみを実体験として理解できたことは大きい。

このブログのなかにも時々書いているが、「白黒つける」という言葉がある。なるほど、最初から白かったり黒かったりするものなどないのだな、ということはこの裁判というものを経験して自分のなかに刻み込まれた認識である。

私の件では、私と原告とのやりとりのなかで言及されていた人々のなかに、自殺された方もおられるので、詳細は伏せておく。

月曜日的風景

2008年07月28日 | Weblog
ロンドンで暮らし始めて11ヶ月目だが、月曜日は交通機関の障害が多い傾向があるように感じられる。総じて曜日に関係なく、あちらこちらで故障や事故があるものなのだが、特に月曜、しかも定期保守作業直後の障害が多いように感じられる。

今日も帰宅時に地下鉄Jubilee LineとDLRが運行を停止しており、バスによる振替輸送が実施されていた。これまでの経験から、こういう時は自分の足に勝る確実な通勤手段が無いことを学んでいるので、迷うこと無くCutty Sarkまで歩き、そこのMarks & Spencerで果物とパンを買い、バスで帰宅した。

このところ暑い日が続いており、今日も30度近くまで気温が上がっていたのではないだろうか。こちらの地下鉄やバスにはエアコンが無いので、そんな時はなおさら混雑混乱した交通機関は使いたくないものである。代替バスに並んでいる人も多かったが、歩いている人も多い。

ドックランドとグリニッチを結ぶ歩行者専用の川底トンネルは、普段人影がまばらなのに、今日の帰宅時は蟻の行進のように大勢の人が利用していた。それでも川底は涼しく、湿度は高いのだろうが、陽に晒されて30分近く歩いた後の身体を穏やかに冷やすには、エアコンよりもはるかに快適である。

それにしても、Regular Engineering Worksと呼ばれる定期保守作業とはどのような作業なのだろうか?

備忘録 Paris 2日目

2008年07月27日 | Weblog
9時過ぎに宿をチェックアウト。昨日ルーブルの監視員に教えてもらった教会に向かう。ルーブルを突っ切り、Pont des Artsを渡り、川沿いにオルセー方面へ歩く。日曜の朝なので、開いている店はないが、骨董の店が目立つ。瀟酒な家具や調度品がウインドウを飾っている。Rue du Bacを左に折れ、そのまま道沿いに進む。昨日、宿の周りを歩いたときにも感じたのだが、カフェやレストランがやたらに多い。こんなに集まってしまって商売になるのだろうかと心配になってしまうほどである。どの店も昨日今日開店したという様子ではないので、それなりに商売は成り立っているのだろう。ということは、このあたりに暮らす人たちは頻繁に外食を楽しんでいるにちがいない。

日曜の朝の所為なのだろう。人影が殆どない。それでも、所々に路上生活者が座っている。その前を通り過ぎる時、「ボンジュール、ムッシュー」と声をかけてくる。やがて、人の流れが見えてくる。一列に疎らに人が吸い込まれていくところがある。人の流れがなければ、そのまま通り過ぎてしまいそうな佇まいである。ここが140 Rue du Bacだ。

その入口を抜けると、中にいる人たちが私の頭上を見上げている。振り返って見上げると入り口の上に白い聖母像がある。石であることはわかるが、石とは思えない滑らかな肌に見える。なるほどこれはすごいと思う。その聖母像のある入口を背に正面に伸びる通路の左側が壁になっており、そこに表札のようなものがびっしりと貼付けられている。この教会に関係のあった人たちの名前が刻まれているらしい。右側は事務所になっていて、その一画に売店がある。ここで販売されているメダルが有名らしく、それを買い求める年配の婦人が大勢いる。この教会の由来を漫画を使って説明した冊子があり、日本語版もあったので、それをざっと読んでメダルのことを認識した次第である。このメダルに関して、Sante Catherine Laboureという人が重要であるらしい。その人の姿を描いた絵や写真のカード類も商品として並んでいる。この教会はもともと修道院の一部であったようだが、現在の地図にはChapelle de la Medaille Miraculeuseと書いてある。日曜日なので教会ではミサが行われていて、賛美歌が外にも聞こえてくる。教会のほうへ行くと、扉は開放されていて出入り自由のようだったので、中に入り、最後尾のベンチに腰掛けてミサを聴講させて頂いた。前方の祭壇にも大きな聖母像が並んでいる。ミサの最中なので近づいて見るわけにはいかないのだが、外の入口にあった像のほうが出来はよさそうである。いずれの像も、まるでミルクを流し固めたかのような柔らかそうな肌合いであり、大理石をそのように彫り磨くというのは、単なる技巧だけの問題ではないだろう。そこには、強い意志とか情熱といったものが感じられる。その意志が、石像を通じてそれぞれの時代の人々に伝えられるのだろう。

9時半から10時頃までミサに参列した後、オルセーに向かう。歩いていってもよかったのだが、せっかく乗り放題券を持っているので、最寄のSevres-Babyloneから12号線に乗ってSolferinoで下車。駅からオルセーまで人の列が続いている。10時半頃に美術館に着き、入口のセキュリティでその時背負っていた着替え一式の入ったリュックを全部開けられる。問題があるはずがないのだが、気分が悪い。気を取り直して、館内案内図を手に取り、エスカレーターで最上階のカフェに向かう。腹がへっていては落ちついて美術の鑑賞などできるはずがない。

カフェを出て最初の区画がルノワールの裸婦像である(区画番号39)。昨日、ルーブルでさんざんルーベンスを観た後なので、その肌色がルーベンスのそれにぼかしを入れたもののように見える。人物の肉付きも同じような感じである。自分の理解では、ルノワールは苦労人で、売り絵を描く人だと思っている。陶磁器の絵付職人がどのようないきさつで画家になったのか知らないが、官立美術学校で学んでいるので、当然、美術史や先人の作品も研究しているのだろう。果たして、ルーベンスの影響があるのかないのか、私は門外漢なのでわからない。影響があったとすれば、育った文化の違いを超えて共鳴するものがあるということで興味深いし、なかったとすれば、違う道を辿りながら似たような表現に行き着くというところが、やはり興味深い。

ルノワールの区画の隣に照明を落とした区画がある(区画番号40)。ここには主にドガのパステル画が展示されている。パステルの退色を防ぐために照明を暗くしてあるのだ。パステルというと子供の頃の図画の時間を思い出すが、水彩画や油絵に比べて手軽に描くことができるのは確かなようだ。ドガは経済的に恵まれた家庭の出身なのだが、父親が事業に失敗したかなにかで、その負債を負うことになり、手早く描くことのできるパステル画を数多く手がけるようになったと聞いたことがある。どの世界でも生活をしていくというのは容易なことではないらしい。

再び通常の照明の区画になる(区画番号41)。ここにもモネの花の絵がある。ロンドンのコートールドにある似たモチーフの作品よりも一回り小さいが、これもまたグッとくる絵である。

モネの花をみて、やはりこういう作品は作家の縁の地にこないとみることができないのかと思いながら隣の区画42に移ると、もっとグッときた。アンリ・ルソーである。大好きな作家の一人である。まず目に飛び込んでくるのが「La guerre」。背景は夕暮れのような深い青と夕日がまさに沈もうとするような黄金色なのだが、全体の印象としては黒である。中央を飛ぶように疾走している馬のような動物と木々の表現の所為だろう。馬と並んで白い服の少女も疾走しているのだが、ルソーの作品らしく、人の表情がいいし、なにより画家本人が楽しんで絵筆をふるっているかのような印象を受けるのである。絵に限らず、仕事というのは、傍からみていて楽しそうでなければ、良い仕事とは言えないと思う。

区画43と44にはゴーガンが並ぶ。「Les lavandieres a Pont-Aven」のような日本ではおそらく見ることのできない作品もあるが、総じては、どこでどう見てもゴーガンという作品ばかりである。

区画45と46は点画の作品である。多くの作家が点画を手がけており、その技法がある時期において流行であったかのような印象もある。しかし、今、点画といえば、シニャックとスーラくらいしか思い浮かばない。点画の理屈はわかるのだが、いかにも生産性が低そうな技法であり、よほど高額で売ることができないと、画家にとっては商売にならないだろう。それでも、スーラの「Cirque」は面白い作品だと思う。構図は、客席の並びと馬の運動方向、画面の右端に立つ人物が持つ鞭の流れる方向が水平に並び、客席の観客、ピエロのバク転、馬の背に乗った曲乗師の身体の伸びなどが垂直方向に流れる。そうしたざっくりとした升目のような画面の中央に曲乗のダイナミズムが描かれて全体に安定感のあるなかに躍動感が与えられている。そうした動きの表現の一方で、空席の目立つ客席が微妙なリアリティも醸し出す。図録にはこの絵に静謐感が見られると書いてあるが、私には全く逆に見えた。静謐感があるとすれば、点画によって、それが夢の中のできごとのように見えるからだろう。

区画47は再び照明が落とされた部屋である。ここにはロートレックのパステル画が並ぶ。区画48は通常照明で、ナビ派と呼ばれる作家の作品が展示されている。ヴュイヤールの作品はベタっと平らに色を塗った感じで、どこか守一のようにも見える。

ここから一旦エスカレーターで下の階に下がると照明を落とした区画49がある。ここにはモネのパステル画がある。画家なのだから、デッサンや習作も当然あるので、パステル画があっても当然なのだが、なぜかモネが描いたとなると驚いてしまう。区画50は普通の部屋で、ゴッホの「I’hopital Saint-Paul a Saint-Remy」がある。予備知識なしにこの作品を見てもゴッホだと思うだろうが、たぶんこの絵を見るのは今日が初めてのような気がする。

また上の階に登り、今度は区画36から番号の若いほうへと移動する。区画36はセザンヌである。つい最近、ロンドンのコートールドでセザンヌ展を見たばかりなのだが、この作家も予備知識なしに見て、それとわかる作品が多い。確か、六本木の国立新美術館が開館したとき、開館記念の展示会の入口を入って最初の作品がセザンヌの静物画だったと記憶している。ブリヂストン美術館や国立西洋美術館の常設にも印象深い作品がある。それくらい、セザンヌは日本人にとっても身近な作家ということなのだと思う。

区画35はゴッホ。今更何も言うことはない。どこでどのような作品を見ても驚きがないところに、その画家の偉大さがあると思わせる、そんな作家のひとりである。

区画34-32はモネの作品を中心に、ピサロ、ルノワール、シスレーが並ぶ。31-29はマネ、ドガ、カイユボット、ファンタン=ラトゥール、ホイッスラーである。去年の冬、東京都美術館で開催されていた「オルセー美術館展」で観た覚えのある作品も少なくない。なかでもマネの「月光」「逃亡」「ベルト・モリゾ」やホイッスラーの「母の肖像」は、けっこう鮮明に記憶している。やはり去年の春から初夏にかけて国立新美術館で開催された「モネ大回顧展」で観たものもある。どちらの展覧会にも何度か足を運んだので、比較的記憶に新しい作品が目についた。たまたま去年は国立新美術館の開館という大きなイベントがあった所為かもしれないが、わずか半年ほどの間にオルセーの作品が東京の二つの展覧会に供されているのである。改めて東京という都市の存在感を認識する。

階段で中階まで降りる。この階はロダンやマイヨールの彫刻、アールヌーボーの家具などが展示されている。絵画はまとまった展示としてはナビ派だけである。単品ではハンマースホイとかジェームズ・アンソールがあるが、あまり興味を引くものはなかった。ナビ派は面白い(区画番号70-72)。日常生活のなかの無防備な風景が持つ艶かしさのようなものを気付かせてくれる。ピエール・ボナールの「La toilette on la toilette rose」と「La table de toilette」は鏡に映った女性の裸体を描いているのだが、これは裸体だから艶かしく見えるのかと思ったらエドアール・ヴュイヤールの「Janne Lanvin」はオフィスで仕事をしている中年女性を描いているのだが、これも生々しさがある。なんて思うのは私だけなのだろうか。

地上階には好きな作品がたくさんある。区画14にマネの「Le dejeuner sur I’herbe」があり、隣の区画18にモネの同名の作品がある。描かれたのはマネの作品のほうが先で、1863年、モネのほうは1865-66年である。このマネのほうの「草上の昼食」は発表当初、スキャンダルとなったというのは有名だが、この作品に刺激を受けたモネは、マネの作品へのオマージュとして同名の作品を描いたのだそうだ。この作品の製作を契機に、モネは光の作用に魅せられ、戸外で描くようになったというのである。つまり、後の「睡蓮」につながっていくというのである。物事というのは、いつどこでなにがなにとつながるものなのか、本当にわからないものである。

マネの作品は、発表当初、スキャンダルとか酷評を受けるというのが他にもあるのだが、「Olympia」もそのひとつだ。同じ階の少し離れたところに、この作品と同じ年に発表されたアレクサンドル・カバネルの「Naissance de Venus」という似たような構図の裸婦像がある。似て非なる、とはこういうことを指すのかもしれないが、カバネルのほうの裸婦はヴィーナスという神話のなかの登場人物で背後にキューピッドたちが舞っている。キューピッドはヴィーナスの息子なのだが、ヴィーナス誕生と同時に息子も誕生というのはあり得ないではないか、と今なら誰でも思うだろう。しかし、これはヴィーナスとキューピッドの関係を強調しているのだそうだ。この作品はサロンで高い評価を得、ナポレオン3世が購入を即決したという。一方、マネのほうも若い裸婦像だが、こちらは売春婦で、背後に控えているのは客から贈られたと思しき花束を手にした世話係。カバネルの作品の2年後にサロンに出品され、スキャンダルを巻き起こした。同じようなものでも、そこに表現された記号をいくつか入れ替えると、全く違ったものになってしまうのである。我々の日常生活にも同じようなことがあるのではないだろうか。すぐには思いつかないのだが、妙に不安になってしまう。

国立新美術館のモネ展にも出品されていた「かささぎ」は上層階ではなく、こちらの地上階にある。これは私の好きな作品のひとつだ。雪に覆われた農村の朝の風景だと思っていたのだが、夕方なのだそうだ。雪の風景というのが良い。雪に覆われた風景は静謐だが、その下でしっかりと命が活動を続けている。見えないものの息吹が想像できる。見えないものが見えるというのが面白い。

クールベも見逃すわけにはいかない。「Un enterrement a Ornans」は巨大な作品だ。これも発表当初、スキャンダルとなったものだが、要するに、人間は世の中に定着している習慣を変えることに、とりあえず反対するものだということなのだろう。今となっては、この絵のどこがスキャンダルなのかわからないが、市井の人々をこのように大きく描くことが「あり得ない」ことなのだという。つまり、現実は醜いもので、それをそのまま絵画にするなど言語道断だというのである。美しくあるべきものを冒涜したということだ。この話を聞いて、ビートルズの来日公演のことを思い出した。演奏会場に武道館を使うことに強烈な反対があったのである。曰く、大和魂の神聖な場所を長髪の若造たちが騒々しい音楽を演奏するのに使うとは言語道断。洋の東西や時代を問わず、人の習慣を変えるというのは容易なことではないらしい。

ルーブルにも展示されているミレー、コロー、アングルの作品がここにもある。どの作家も好きな作家だ。ゴッホがミレーの影響を受けている、という話を聞いて驚いた。ゴッホの作品にミレーの何が影響しているのか、全くわからないのだが、そういうことらしい。ミレーの「晩鐘」と「落穂拾い」がよりによって東京の国立西洋美術館に貸出中で見ることができなかった。これには少しがっかりである。ミレーのあるべき場所にはコローが代替作品として展示されていた。コローも好きだ。

午後3時10分過ぎにオルセーを出る。歩いてセーヌの対岸にあるオランジュリーへ移動。3時半頃から鑑賞開始。睡蓮の前に、地下のヴァルター&ギョーム・コレクションを観る。最初はルノワール。ルノワールの裸婦像はどれも豊満だが、当時の人たちが平均的に豊満であったのかというと、そういうわけではなく、単に画家の好みということらしい。セザンヌの作品もあるが、特に語ることはない。次の区画がアンリ・ルソーとモディリアーニである。ルソーの何がいいのかよくわからないのだが、ルソーの作品を観ると幸せな気分になる。モディリアーニも何がいいのかわからないが、存在感がすごいと思う。その奥の区画にはローランサンが数点並ぶ。

隣の区画に移動すると長く続く壁にピカソの作品が並ぶ。その向側がマティスだ。マティスはデッサンと出来上がった作品との差が大きいのが、いつも不思議に思う。出来上がった作品は、ひどくおざなりのように見えるが、そのデッサンを観ると、それなりに計算されていることがわかる。それにしても、デッサンから完成に至る経路がよくわからない。でも、好きな作家の1人である。ピカソは他の画家とは一線を画したところにいる人だと思う。ここにある「L’Etreinte」「Femme au peigne」「Grande Baigneuse」どれもすごいと思う。

アンドレ・ドランはあまり自分には馴染みがないが、これから少し気をつけておきたいと思った。ユトリロの作品を観て、そういえばオルセーには彼の作品が無かったことに気がついた。これはどうしてなのだろう? スーティンは以前観たモディリアーニの映画のなかで「肉屋のスーティン」と呼ばれていたような記憶があるのだが、どうだったろう? 肉片を描くのにアトリエに本物の肉を持ち込んで描いていたというような描写のされ方が映画のなかであったような気がする。肉片の絵を観ているとよくわからないが、他のモチーフの絵を観ると、奇妙な歪み方をしている。それが不自然に見えないのは何故だろう? 楽茶碗の歪みは、人間の心の歪みを表現したものだという。その所為なのか、楽茶碗というものの存在が我々のなかに定着している所為なのか、楽茶碗の歪みに違和感を抱く人は少ないと思う。スーティンの絵も、我々の本来的な歪みとシンクロしているから、それを受け容れることができるのだろうか?

さていよいよ「睡蓮」との対面である。モネの睡蓮の絵はいろいろなところで目にするが、最終形はこれなのかと腑に落ちる。朝から夕方までを描いたパネルとそれを照らす自然光との組み合わせ。これを丸一日かけて鑑賞すれば、作品としては完成なのだろう。

時刻は午後4時半。ロンドンへの列車の出発時刻は午後7時13分なので、チェックインは6時40分頃までに済ませばよい。とすると、まだ時間はたっぷりあるので、ルーブルへ行って昨日観そびれてしまったところを観ておこうと考えた。オランジュリーからルーブルまではチュイルリー公園を突っ切るだけである。10分ほどでルーブルに着き、まずはエアコンのきいたリシュリユウの中庭で一休み。今日も外は暑い。

昨日は絵画の展示はほぼ全てまわることができたのだが、ただ一箇所、イギリス絵画の部屋だけは観そびれてしまった。今日はこの部屋から見学を始める。リシュリュウの中庭から2階にあがり、ルネッサンスの陶器やガラス器などがならぶところを抜け、シュリーの2階を通り抜けてその角の部屋がイギリス絵画の展示コーナーである。ターナーにゲインズバラ、カンスタブルといった自分にとってはすっかり馴染みになった作品に混じってジョージ・スタッブスの馬がいる。イギリス代表でルーブルに収まるとはすごいことだと、何故か我が事のように嬉しくなった。

同じ階にあるギリシア時代の陶器を観た後、再びイギリス絵画の部屋に戻り、そこを通り抜けて階段ホールに出て、「サモトラケのニケ」の前を通って階段を降り、「ミロのヴィーナス」を観る。昨日も観たが、やはり失われた腕が気になる。もともとどようような姿に作られていたのだろうか。あるいは腕が無いから、なおさら美しいのかもしれない。その身体の傾き加減が観る者に何事かを語りかけるのだろう。

ここからシュリーの地上階を見学する。古代エジプトのものがずっと並んでいる。スフィンクスの石像はよくよく見ると何か機械のようなもので彫られているように見える。そんなことはあるはずがないのだが、そう見える。なんとなく線が硬く、妙に直線的なのである。それほど当時の石工たちの技量が優れていたということなのだろうが、何か妙なものを感じないわけにはいかない。そんな不思議を抱えながら歩いて行くと、棺ばかりを集めたところがある。木製の棺はガラスのケースの中に立てて並べられているのだが、その様子が、まるで棺のショールームだ。これでいいのだろうかと不安を感じる。この棺コーナーのある部屋に、「ひとりよがりのものさし」に載っていたイヌイットのお守りに似たものがある。木切れのような舟の上にちょこんと人形のようなものが乗っている。これもお守りなのだろうか?

さらに進むとまたもや棺。今度は石でできたものばかりである。こちらはバビロニアのもの。古代文明というのは、大規模な石製品が欠かせないらしい。今のように機械類があるわけではなかったのだから、人海戦術で宮殿から調度品まで製作したのだろう。その時は未来永劫繁栄が続くと見えたと思う。しかし、歴史の現実はどうであっただろう。このようにバラバラになって、ルーブルだ、大英博物館だと、栄華の断片が散逸するのである。権威などという幻想を具現化しようという試みが繰り返されるから、我々後代の人間はそうしたものの名残りをこうして楽しむことができ、有り難いことではある。しかし、当事者はどうだったのだろう? それでみんな幸せだったのだろうか? 栄華を誇り、己の力を誇示し、それでもいつかは寿命を終えて死んで行く。生前、いくら財貨に恵まれていても、死ぬ時はそうした全てが無に帰すのである。人の営みというのは、こうして見るといかにも滑稽だ。

今日も閉館時間近くまでルーブルで過ごしてしまった。昨日、せっかく帰り道を下見したのだけれど、急に気が変わって、Les Hallesまで歩き、そこから地下鉄4号線に乗ってGare du Nordへ行った。ユーロスター乗り場へ行き、午後6時15分にはフランスの出国手続きとイギリスの入国手続きを終え、駅中のPaulで菓子パンを買って、それを食べながら列車の出発を待った。

備忘録 Paris 1日目

2008年07月26日 | Weblog
午前5時半、London St. Pancrasの自動発券機で乗車券を受け取る。ユーロスターのウエッブサイトや印刷したメモには、遅くとも発車時間の30分前までにはチェックインを済ませるようにとの注意書きがある。それで、余裕を見て駅までやってきた。いざ来てみると、特に時間がかかりそうなことは何もない。駅中のカフェで発車時刻の1時間前まで時間をつぶす。

改札からセキュリティチェックと入国審査を済ませるまで10分もかからない。フランスへの入国審査は、ここロンドンで行われる。つまり、パリ行きの列車のなかは既にフランスなのである。ブリュッセル行きの列車は、やはりここでベルギーの入国審査を済ませるのだろうか? 乗車開始は出発時刻の20分前である。それまでやることがない。

以前、ユーロスターに乗った時は、座席が大きいと感じたが、今にして思えば、あれはファーストクラスだった。スタンダードクラスの座席は新幹線の普通車とたいして変わらない。車内はほぼ満席。

ロンドンを出発すると間もなく、列車はトンネルに入る。ユーロスターが運行を始めた時、フランス側は専用線が整備されており、開業当初から所定の営業速度での運行が行われていたが、イギリス側は専用線の整備に手間取り、在来線の線路で運行されていたので、計画通りの高速運転ができなかった。昨年の11月に、ようやくイギリス側の専用線が完成し、計画通りの高速運転が可能になった。現在はロンドンとパリの間は2時間20分ほどで結ばれている。東京と大阪という距離感である。

英仏海峡トンネルはさすがに長い。海底部分の長さは世界一だが、トンネルそのものの長さは青函トンネルが世界一である。ロンドンを出発して1時間ほどでフランスに上陸する。

フランスに入ると、車窓には果てしなく広がる小麦畑が広がる。既に収穫は終わっており、ところどころに藁の束が転がっている。イギリス側は思いの外うねうねとした地形である。こうした地形の違いも、そこで暮らす人々の気質や考え方に影響を与えるのだろうか?

パリのGare du Nordには定刻通り現地時間の午前10時17分(イギリスとの間に1時間の時差がある)に到着した。ここで今日最初の問題が発生した。駅に着いて、構内の地下鉄の表示に従って歩いて行くと、案内所兼出札窓口があった。そこには長蛇の列ができていた。私はまず、ユーロスターの切符をネット上で予約する時に同時に予約した地下鉄乗り放題券と博物館美術館見まくり券を受け取るために、Tuileriesという駅の近くにある旅行会社の事務所に行かなければならない。そのTuileriesまでの切符を買わなければならないのである。最初、切符の自動販売機で買うことを試みた。しかし、すぐにやめた。表示がフランス語だけなのである。つまり、出札窓口に並んでいるのは、私のような訳の分からない連中なのである。列は容易に進まない。

40分ほど並んでようやく地下鉄の切符を手に入れた。1.6ユーロである。地図を見ると、Gare du NordからTuileriesまでは何通りかの行き方があるが、どれも1回は乗り換えが必要である。まずはB線かD線でChatelet Les Hallesへ行き、そこで1号線のChateletへ徒歩で移動して、1号線に乗りTuileriesで下車するというルートを考えた。今日2番目の問題はB線あるいはD線のどこ行きの電車に乗るかということである。もちろん、駅構内には至る所に案内表示がある。しかし、フランス語で書いてあるので、私には皆目わからない。駅員に聞こうにも、その姿が見えない。とりあえず、B線とD線が発着してるホームに降りてみる。ホームのなかほどに案内所があり、そこのオネエさんにテユイルリーに行きたいんだけど、と英語で尋ねて教えてもらう。その案内所のある隣の42番ホームへ移動し、電車を待つ。ここはD線のホームで、ユーロスターの車窓から見えていた二階建電車が発着している。B線とかD線というアルファベットの線は地下鉄ではなく、郊外へ向かう路線で、市内の一部が地下になっているらしい。来た電車に乗り、次のChatelet Les Hallesで下車、地下鉄1号線に向かって徒歩で移動。これは大手町で丸ノ内線から都営三田線に移動するようなものである。ここでLa Defense行きに乗る。Tuileriesは出口が一箇所しかないので、迷うことなく外に出て、旅行会社の事務所でチケットをもらい、再び1号線で1駅だけ移動。今受け取った地下鉄乗り放題切符が機能するのかどうか確認する。

地下鉄の出口から外に出ると小さな広場になっており、企画展の垂れ幕が下がった大きな建物がある。これがルーブル美術館だ。大きな壁のようにRue de Rivoli沿いに建物がずっと続いている。この道を渡り、建物の入口に入る。中に金属探知装置を備えた区画があり、そこで荷物の検査を受けて、地下へ向かうエスカレーターに乗る。降りたところが、ガラスのピラミッドの下で、そこにはチケットの販売窓口や案内所、売店やレストランなどがあり、大勢の人が往来している。今、11時半である。とりあえず、カフェの外にあるサンドイッチ類を売っているところでバゲットのサンドイッチとミネラルウォーターを買い、案内所で日本語の地図をもらい、建物の外、ピラミッドの広場に出る。まずは腹ごしらえである。

ルーブル美術館はリシュリュウ翼、シュリー翼、ドゥノン翼の3つの建物で構成され、建物はつながっている。リシュリュウとシュリーは半地下階から3階まで、ドゥノンは2階までが展示会場になっている。これを3階から下へ向かって歩くことにした。

食事を終え、再び手荷物検査を受けてピラミッドの地下に行き、そこからリシュリュウの入口を通って、エスカレーターで3階まで上がる。最初はオランダ、フランドル絵画である。

絵画に限ったことではないが、本物を鑑賞することに勝るものはない。いくら優れた印刷によって作られた画集でも、本物だけが持つ妖気のようなものを伝えることはできない。音楽にしても、いくら立派なオーディオ装置を揃えてみたところで、生の演奏を聴いた時の、心まで揺れるような感覚を味わうことはできないだろう。自分で体験し、経験として了解されたことだけが自分の血肉になるのである。

展示会場に入ると、いきなり大きな作品が並ぶ。そうしたなかで存在感を放っているのはフェルメールの小品2点である。「レースを編む女」と「天文学者」が並んでいる。フェルメールというと室内という限られた空間を余すところ無く使って登場人物の心象を表現するというイメージがあるのだが、これらはまさにそういう作品である。特に、「レースを編む女」は画面の焦点を甘くしてあるのに、表情まで見えているかのようだ。

焦点が甘い、というのとは逆にヤン・ファン・エイクの「宰相ニコラ・ロランの聖母」は「天文学者」よりひと回り大きい程度なのに、遠景の細部に至るまで緻密に描かれている。いかにもひとつひとつのものに意味がありそうだ。緻密さの背景にある考え方は、世の中のすべてのものは神の創造物であるから心して扱わなければいけない、ということなのだそうだ。そういえば、イスラム世界に見られる細密画もそういう意味があるのだろうか?

レンブラントというのは美術館泣かせの作家なのではないだろうか。画面が暗く、しかも大型の作品が多いので、壁にかけた時に天井の照明が反射して肝心の絵がよく見えないのである。しかし、この暗さによって光を描くという発想は、当時としては画期的だったのだろう。

ルーベンスの作品も数多く展示されているが、ある一室はルーベンスの連作「マリー・ド・メディシスの生涯」のために使われている。これはブルボン朝の創始者アンリ4世の未亡人であり、摂政であったマリー・ド・メディシスが、竣工間もないリュクサンブール宮殿の西翼ギャラリー装飾のために発注したものである。部屋の全壁面を使って自分の生涯を表現しろというのである。ところが、これは一枚縦4メートル横3メートルのサイズの絵を24枚であり、当時の決まり事として、このような大画面は歴史画に限るというものがあったという。そこで、ルーベンスは古典文学や神話に登場する場面を組み合わせてこの作品を完成させたのだそうだ。しかし、おそらくルーベンスを悩ませたのは、凡庸な人物を劇的に描くことではなかったか。このマリー・ド・メディシス自身は歴史の中に登場するような業績は何もないという。しかも、息子であるルイ13世から追放され、各地を転々としたあげく、ケルンで69年の生涯を終えたという。古今東西どこにでも根拠の無い自信に満ちあふれている人というのはいるものである。王大后という地位は、たまたま亭主が国王で息子がその後を継いだからそうなっただけのことであり、彼女自身に才覚があったわけではないのだろう。息子ルイ13世が国王に即位したのは彼が8歳の時であったが、やがて成長すると好き勝手をしている母親が疎ましくなったということではなかったのか。しかし、発注者はどうあれ、ルーベンスはこの作品で画家としての地位を確立したと言えるものである。その意味では、マリー・ド・メディシスは非凡な女性だった。

フランス絵画のコーナーに入って最初に目を奪われるのは「ガブリエル・デストレ姉妹」である。16世紀末に描かれた作品で、入浴中の若い女性の姿である。片方がもう片方の乳首を指でつまんでいるのである。たまたま芸術新潮の6月号で横尾忠則の特集があり、横尾の作品のなかにこの作品をモチーフにしたものがあった。それはともかく、ここに込められた意味はいろいろあるのだろうが、ビジュアルとして面白い。

フランス絵画のコーナーはリシュリュウ翼の一画からシュリー翼へとつながる。シュリー翼に入ってほどなく、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの作品が並ぶ部屋がある。ラ・トゥールもレンブラントと同じく、闇によって光を表現した作家だ。確かに「聖なる火を前にしたマグダラのマリア」は印象的な作品である。しかし、ここで圧倒的な存在感があるのは「いかさま師」である。とにかく、目玉がすごいのである。これは実物を見ないことには感じることのできない迫力がある。カードゲームをしている2人とディーラー、給仕の姿が描かれているのだが、ゲームに夢中になっている青年がカモで他の3人が悪党というのが一見してわかる。目は口ほどに物を言い、というが、悪党の目の表現が凄まじい。この作品はカラヴァッジョの「いかさま師」に影響を受けているらしいが、背景を漆黒の闇のような黒にしているので、カラヴァッジョよりも悪党の悪党らしさが一層際立っているように見える。画面を見た時に、より悪党の目が際立つということだ。

フラゴナールの作品もまとまって展示されている。この作家の時代、18世紀後半になると、無理矢理に神話の題材に結びつけることなく女性の裸体像を描くことができるようになったのだそうだ。しかし、まだフラゴナールには女性を描くことに躊躇というか遠慮のようなものがあるように感じられる。

女性の裸体像が素晴らしいのは、アングルである。シュリー翼に展示されている「トルコの浴場」や「グランド・オダリスク」を見ると、女性の肌を美しく描くことへのこだわりが伝わってくる。だから、裸体ではなくても色香が漂うのであるドゥノン翼のほうに展示されている「リヴィエール嬢」のモデルは13歳の少女だが、まさにこれから匂い立とうとするその寸前の、蕾の美しさがある。

コローやミレーは、こうしてたくさんの作品を前にすると、その良さが改めて認識される。ミレーの「母親の用心」という作品には心惹かれた。

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*** 引き続きルーブルに関する本文作成中 ***
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小説や随筆を読む楽しみは、そこで語られていることに、それまでの自分の経験の何かしかを重ねてみて、そこに心の揺れのようなものを感じることにあるような気がする。絵画の場合は、暗黙知の部分で作家と通じ合うものがあるとき、その作品と向かい合う喜びがあるのだと思う。勿論、絵画には様々な約束事があり、そうしたものへのリテラシーがなければ、誤解に基づく出会いということになる。しかし、それもまた、人生の現実と符号するのではないだろうか。我々が他者と出会い、そこから関係が生まれるとき、どれほど相手のことを理解しているだろうか。あるいは理解しようとしているだろうか。そもそも我々はどれほど自分自身を理解しているだろうか。

一枚の絵を前にしたとき、画面に描かれているものに対して何かを感じることもあれば、その画面の描き手の心情に思いを馳せて感じることもあるだろう。人生の豊かさというのは、そうした心揺さぶられる経験をどれほど積むことができるかということにかかっていると思う。

閉館時間が間近に迫り、人々が出口へ向かって流れ始める。その流れに乗って、ピラミッド直下の螺旋階段を登り外に出る。時刻は17時45分。まだ陽は高い。

予約しておいたTimhotel Palais Royal Louvreはここから歩いて10分ほどのところにあった。チェックインを済ませ、部屋で30分ほど休む。小さなホテルで、部屋の入口のドアに貼ってある非常口の案内図によれば1フロアに6部屋しかない。何階建てか数えてみなかったが、私の部屋である204号室のある階(日米風の数え方では3階)が建物のまんなかあたりであるようだ。

どこかで晩ご飯を食べ、日が暮れるまで散歩をしようと思い、外へ出る。一人で旅行することの良い点は、自分の好きなように行動できることである。もし、同行者がいたら、今日のように美術館に入浸っていることなどできないだろう。しかし、食事に関しては、同行者がいたほうがよい。選択肢が広がるし、食事に会話は必要だろう。

一人で外食をしなければならない場合、東京なら大戸屋あたりに行くのだろうが、海外の場合は中華料理屋に入ることが多い。味に関してハズレが無いこと、メニューを見て料理が想像できること、比較的空いている店が多いこと、というのが中華料理屋を選択する主な理由である。尤も、肝心の中国には、仕事以外で行ったことがないので、味の比較のベンチマークは日本にある中華料理屋というのは少し寂しいことではある。それでも敢えて結論を言えば、中華はどこも中華である、ということだ。今日は宿の近くでみつけた香港酒家という、どこにでもありそうな名前の店に入った。いただいたのはセットメニューから、中華サラダ、飲茶盛り合わせ、焼きそば、ココナツ餅である。

腹が膨れたところで、ユーロスターが発着するGare du Nordへ向かう。道順と所要時間を確認し、明日なるべく多くの時間を美術館で過ごすことができるようにするのである。

土曜の夜、といってもまだ明るいのだが、これほど電車は混雑するものなのだろうか。それくらい人出がある。それと、昼間は見かけなかった警察官の姿が目立つ。やはり、ひとの集まるところには犯罪がつきものなのだろう。

その後、ルーブルに戻る。美術館は既に閉館しているが、中庭は公開されている。そこを通り抜け、セーヌ川にかかる歩行者専用のPont des Artsという橋を渡る。橋の上は、まるで花見の宴会のように、大勢の人たちがシートを広げて持ち寄った酒を飲みながら楽しげに語らっている。ここから眺めるシテ島は夕日に照らされて美しい。シテ島のほうでも夏の夕日の下で宴会をしているらしく、川岸に大勢の人の姿が見える。川を渡った後、そのシテ島の方へ川沿いの道を歩いていく。だいぶ日は傾き、ノートルダム寺院が黄金色に輝いている。古来、多くの絵画や写真のモチーフになっているが、たしかに絵になる風景だ。日が沈む前に宿に戻ろうと思い、ノートルダム寺院を後にした。

「翼よ、北に」

2008年07月25日 | Weblog
チャーミングな文章だ。未知との出会いに素直に驚き、それと対等に向かい合う姿勢が好感を呼ぶのだろう。夫婦の間の距離感もよい。ここではリンドバーグ夫妻は夫婦でもあるが、クルーでもある。今とは比べものにならないほど航路調査という仕事が冒険に近かった頃の話である。互いの信頼を抜きに飛行を共にすることなどできなかったろう。仕事上の関係でも、私的な関係でも、他者を信じる心はそれ自体が美しい。他者を信じるということは、それだけ自分が強くないとできない。自分に何ができて何ができないのか、冷静な判断の上で、相手のことも同様に判断し、最適な関係性というものを模索する。そこには上下関係というものはない。同じひとりの人間として相手と対峙する緊張感があり、相手に対する敬意がある。敬意は上下関係からは生まれない。本当の敬意というものは相手と対等にあると感じた時にしか現れない。そうした凛とした関係が美しい。

「砂の上の植物群」

2008年07月24日 | Weblog
「乾いた性」という表現にときどき出くわすが、乾いていない性というものがあるのだろうか? 「愛」と呼ばれる感情は自己愛の肥大した形態に過ぎないだろう。相手に向けていると信じている「愛」も、相手から向けられていると思いこんでいる「愛」も、よくよくみれば自分から自分へ向けられたものだ。世の中の決まり事として、「愛」によって結ばれたふたりが幸せな家庭を築き、子孫を育み、その子孫がそれぞれに幸福な家庭を築き、世代を超えて「愛」が継承されていく、というのが模範解答なのだろう。できもしない模範解答に溺れている人々がいかに多いことか。

伊木一郎が津上京子と関係を持つようになり、その刹那的な関係が一郎のなかで一巡したと感じられるにようになった頃、偶然、京子が自分の腹違いの妹かもしれないという話が一郎の父親と親しくしていた人からもたらされる。そのときの一郎の動揺が、この話を小説にするのだろう。その動揺を契機に、一郎と父親との関係、人生の輪廻、という物語の広がりが生まれる。一郎のひととなりにしても、その動揺によって読者に多少の安心感を与えているだろう。一郎が冷血な嫌悪すべき存在になるか、読者にとって自己を投影する余地のある人物になるか、読者と一郎との距離が一郎の動揺によって後者へ傾くのではないだろうか。

血のつながりというものが特別の関係であってほしいという願望や、愛情というものが神聖な感情であるという幻想があるとすれば、それは人が本質的に孤独であるからだ。人はないものを崇め求めるのである。そうした願望や幻想を追い求める世の中というのは、滑稽にも見えるかもしれないが、健全であると言えるのではないか。幻想が幻想のままに輝いているうちが、人は幸福でいられるのだと思う。

あの「サヨナラ」の話

2008年07月23日 | Weblog
昨日、アマゾンから本が届いた。7月17日付のブログに書いたアン・リンドバーグの本もそのなかにある。さっそく「サヨナラ」の話のところを読んで、改めて嬉しくなった。以下、その部分の引用である。

「サヨナラ」を文字どおりに訳すと、「そうならなければならないなら」という意味だという。これまでに耳にした別れの言葉のうちで、このようにうつくしい言葉をわたしは知らない。Auf WiedersehenやAu revoirやTill we meet againのように、別れの痛みを再会の希望によって紛らそうという試みを「サヨナラ」はしない。目をしばたたいて涙を健気に抑えて告げるFarewellのように、別離の苦い味わいを避けてもいない。
 Farewellは父親の別れの言葉だ。「息子よ、世の中に出て行き、しっかりやるんだぞ」という励ましであり、戒めであり、希望、また信頼の表現なのだ。しかし、Farewellはその瞬間自体のもつ意味を見落としている。別れそのものについては何も語っていない。その瞬間の感情は隠され、ごくわずかのことしか表現されていない。
 一方、Good-by(神があなたとともにありたもうように)とAdiosは多くを語りすぎている。距離に橋を架けるといおうか、むしろ距離を否定している。Good-byは祈りだ。高らかな叫びだ。「行かないで! とても耐えられないわ! でもあなたは一人じゃないのよ。神さまが見守っていてくださるわ。いっしょにいてくださるわ。神さまの御手が必ずあなたとともにあるでしょう」。その言葉のかげには、ひそやかな、「わたしもよ。わたしもあなたといっしょにいますからね。あなたを見守っているのよ-いつも」というささやきが隠されている。それは、母親のわが子への別れの言葉だ。
 けれども「サヨナラ」は言いすぎもしなければ、言い足りなくもない。それは事実をあるがままに受けいれている。人生の理解のすべてがその四音のうちにこもっている。ひそかにくすぶっているものを含めて、すべての感情がそのうちに埋み火のようにこもっているが、それ自体は何も語らない。言葉にしないGood-byであり、心をこめて手を握る暖かさなのだ-「サヨナラ」は。
(アン・モロー・リンドバーグ著 中村妙子訳「翼よ、北に」みすず書房 248-249頁)

もう何も言うことはない。こういう時は日本人であることを誇らしく思う。

いきあたりばったり

2008年07月22日 | Weblog
昨日、ブログに家のことを書いていて思ったのだが、敢えて日本の「思想」とか物の考え方の基本を一言で表現するなら、「いきあたりばったり」ということではないのか。

まず、家や町並みがそうである。国家権力は後先考えずに取れるところから税金を徴収しようとするので、少しでも財産価値がある不動産を残して死のうものなら、残された人々の生活など考えもせずに相続税を課す。残された人々は税金を踏み倒すわけにもいかないので、仕方なくその不動産を切り売りする。その断片不動産を購入した人は断片のなかで最大限の自己主張をする家屋を、周囲の町並みなど考えもせずに建てる。この繰り返しにより、ウサギ小屋の街が出来上がるのである。

家並みだけが乱雑なのではない。冠婚葬祭のしきたりだってそうだろう。信心などないのに、部分的に宗教を持ち出すから奇怪な儀式になる。教会で結婚式を挙げた人が、仏教寺院で葬式をする、など日本では当り前のことだ。葬式には、その後も節目節目に法要があり、それぞれの所作や小道具類にいかにも意味があるかのようなふりをしているが、単に迷信や俗信を形式化しただけのことに過ぎない。結婚式も葬式も自分が深く関わるのは一生の間に数えるほどなので、ろくに考えもなく、業者の言いなりになって済ませるだけ、というのが大方の姿勢だろう。しかし、少しでも考えるという姿勢を持って、そうした儀式を見れば、それらがいかに支離滅裂であるか、考えたことがある人にはよくわかるだろう。

日本が戦った戦争もそうだ。日本軍の戦い方、外交、すべていきあたりばったりだ。先日、マンチェスターの産業博物館で見学した日本軍の特攻機「桜花」の説明書きには、戦後この特攻機を接収した連合軍ではこれを「Baka Bomb」と呼んでいたとあった。説明の必要はないだろう。特攻という発想が生まれること自体、奇怪というほかはない。そして、その特攻「作戦」を立案し実行に移した大本営という組織の人々は極めて限られた一部を除いて、戦後も「元作戦参謀」などという肩書きを恥ずかしげもなくぶら下げて、あちこちの企業で禄を食んでいたという。人の命を何の思慮分別もなく紙切れのように扱った当事者でありながら、そのことに何の責任も感じていないかのような振る舞いとはいえまいか。いきあたりばったりの究極のような人たちである。

いきあたりばったりの成れの果てが、今の我々の生活だ。それで先進国の一角を占め、世界の中でも最も物質的に恵まれた部類の生活を享受している。たいしたものだ。

思想ある建物

2008年07月21日 | Weblog
引き続き、須賀敦子全集(文庫版)を読んでいる。今、第4巻を読み終わろうとしているところである。そのなかで、「思想のある建物」という表現が出てきて、さてどうしたものかと思った。まだ先の話だが、東京に帰ってからの住まいのことが、そろそろ気になり出しているのである。果たして住まいというのは、そこで暮らす人間にどれほど影響を与えるものなのだろうか?

私自身は何度も書いているように貧乏人の倅なので、物心ついた頃から、いつかは庭のある一軒家に住みたいなどと思いながら年齢を重ねてきた。しかし、成長するにつれて、「庭のある一軒家」という小市民的な憧れがなんだか滑稽に思われて、そんなものはどうでもよくなってしまった。

今住んでいる家はテラスハウスである。建物の出来は、たぶん、日本よりも悪いように思う。特に、水廻りが貧弱だ。おそらく、このような家に住む人は、まともな料理などしないのだろうし、風呂にもそれほど関心がないのだろう。トイレもひどい。トイレはこの家だけではなく、勤務先の建物も、かなり立派なホテルの部屋のものも、いまひとつ流れがよくない。おそらく便器の形状をきちんと工夫していないのだろう。そうした細部の問題はさておき、町並みとしてはきれいである。きちんと建物の前の通りが確保され、統一感のある建物の形状であり、どの建物にも必ず庭が前面と背面についている。建物の高さが揃えられているので、空が広く明るく感じられて、歩いていると気分が良くなる。こうした町並みへの配慮は、住宅地のグレードに関係なく、それぞれの地域に応じてそれぞれに景観への配慮がなされている。

日本の町並みは、改めて指摘するまでもないだろう。成田空港から都心へ向かう鉄道の車窓に映るのは、およそ「思想」などというものとは無縁の家並である。細かく地割りがなされた宅地にそれぞれの住人が、多くの場合は敷地目一杯に建てた住宅が並ぶ。ひとつひとつの住宅は立派なものである。ところが、それらを町並みとして眺めると、がっかりしてしまうほど乱雑である。

昔、当時はまだECと呼ばれていた欧州の行政機関の報告書のなかで日本人の生活について表現されていた「ウサギ小屋に住む労働中毒者たち」という言葉が流行語のようになったことがあった。しかし「ウサギ小屋」と呼ばれていることの本質は、たぶん、家の広さのことではない、と思う。住まい方というのは、つまり、生き方である。そうしたことについての思想がなく、ただ目先のことに追われて働くだけの人々が住む場所、それを「小屋」と指摘されということなのではないか。

日本でもよく建築家と呼ばれる人たちが、家というものから生活や人生を語ることがあるが、そういうものを聞いてもあまり説得力を感じない。このブログにも今年4月27日付で宮脇檀の本を読んで考えたことを書いたが、住まい方とか生き方というものがハウツーの範疇から抜け切れていないように思うのである。

善し悪しはさておき、キリスト教とかイスラム教の世界というのは、それが人々の考え方や行動の基盤になっているということが、町並みに端的に現れているように見える。人生のなかで労働の持つ意味、安息の意味、そうしたものがかなり明確にあり、それゆえに住まい方の基本のようなものが自ずと決まってくるのだろう。やはり、器が先ということではないと思う。

町並みが乱雑だからといって、心ある人がそこで暮らすことができない、というわけではないだろう。所有権とか財産権に絡むことなので、区画整理がすぐにできるわけもない。今、目の前にある与えられた現実の中で、自分がいかに自分らしく生きるかということを考え実行すれば、それでよいのではないか。家に思想がなくても、自分に思想があれば、それでよいのではないか。

殺される理由

2008年07月20日 | Weblog

以前から気になっていたImperial War Museum Londonを訪ねた。特に何事かを主張するでも無く、20世紀以降の英国が関与した戦争の装備に関する展示がなされていた。気になっていたのは日本の扱いである。しかし、気になっていたこととはまるでちがうことに引きつけられてしまった。

昭和天皇の崩御の時、ちょうどマンチェスターで暮らしていたのだが、街で東洋人が暴漢に襲われるという事故がいくつかあったと聞いた。第二次世界大戦の時、マンチェスターの部隊がシンガポールに駐屯していた所為で、彼の地では反日意識が高いとも聞かされていた。

さらに昔、オーストラリアを旅行したとき、キャンベラの戦争記念館では日本軍によるダーウィン空襲の映像がエンドレスで流されていた。日本人のなかで、オーストラリアと戦火を交えたことがあるという事実を認識している人がどれほどいるのか知らないが、オーストラリアにとっては数少ない戦争のなかの最大の敵国が日本であったということを改めて思い知らされて衝撃を受けた。

さて、今日訪れた戦争博物館だが、英国にとっては二つの世界大戦が欧州の戦争であったという意識が強いのだと感じられた。そして、その二つの世界大戦のどちらにおいても敵国であったドイツの存在感は大きかった。博物館の建物に入ると、天井まで吹き抜けの空間があり、そこに兵器が展示してあるが、目を引くのはV2やV1とハインケルのジェット戦闘機である。その吹き抜けのなかに日本の兵器は無いが、広島に投下された原爆と同型の爆弾があり、多くの人が写真に収めていた。吹き抜け以外の場所での展示は、戦争毎に分かれている。日本のコーナーは第二次大戦の「Far East」という小間だけだった。シンガポール陥落に関することと、日本の降伏に関することが展示の中心だ。ここでもドイツに関する展示は大規模である。戦争毎の展示とは別に、ユダヤ人虐殺に関することだけを展示した部屋がいくつかあり、収容所で生き残った人々のインタビュー映像がエンドレスで流されている。

この「Holocaust」と題された一角は、やはり、あの戦争を語る上で無視することはできないであろう。私は、そもそもユダヤ人とは何者なのかということが理解できていないし、何故ユダヤ人が目の敵にされなければならなかったのかもわからない。ユダヤ人に限らず、人種差別思想が強かったとされるヒトラーが日本との同盟を結んだことも理解できない。理解できないことばかりなのだが、この一角に釘付けになってしまった。1989年の夏、ダッハウ(Dachau)の強制収容所跡を訪れた。とても天気のよい穏やかな日だった。しかし、そこで目にしたのは、人がどれほど残酷になることができるのかという残虐さのカタログのような展示だった。昔の管理棟が博物館のように使われ、囚人棟は2棟を残し跡形もなく撤去されて玉砂利が敷き詰められており、その外れに記念碑が建てられていた。ガス室と焼却炉が収められた建物は保存され展示に供されていた。説明書きによれば、理由は不明だが、ガス室がガス室として使われたことは無かったとあった。その代わり、米軍によって解放された時、この建物は死体で溢れかえっており、その写真があった。展示自体は殆ど写真で、その写真だけでは現実を想像することすらできないのだが、抜けるような青空と、そこにあったはずのおぞましい現実とが対照を成しているように感じられた。その対照の間で、記憶されなければならないはずの事実をもきれいに洗い流してしまう時間の残酷さに目眩を覚えた。今日観たユダヤ人虐殺の展示は、その19年前の記憶に比べると、より詳細な展示に見える。しかし、ここはロンドンなのである。どれほど展示を積み上げたところで、たとえ今は空虚となっていても、現実がそこにあった現場の持つ表現力にはかなわないと思った。


Hammershoi

2008年07月19日 | Weblog
Royal Academy of Arts(RAA)で開催されている「Vilhelm Hammershoi: The Poetry of Silence opens to critical acclaim」という作品展を観て来た。Hammershoiのoには斜線が入るのだが、文字化けしそうなので、oのままにしてある。

かつての同僚にoに斜線の入る文字が名前に含まれている人がいた。ホルタさんという人だったが、彼がもともとどこの国の人なのかは知らない。当時、彼はニューヨークに住んでいた。とても流暢に日本語を話す人だったので、彼と私との会話は全て日本語だった。最後に会ったのは10年近く前、偶然、東京からニューヨークへ向かう飛行機の中で一緒になった。彼はそのままニューアークで降り、私はボストンへの便に乗り継ぐので、飛行機を降りたところで別れた。

Hammershoiはデンマークの人である。RAAのメルマガを開いた時、そこに掲載されていた絵になんとなく見覚えがあった、と感じた。しかし、たぶん、私は彼の作品を観るのはこれが初めてである。彼の名前すら知らなかったのだから。Hammershoiは「ハンマースホイ」と表記するようである。
(http://www.shizukanaheya.com/)

彼の作品は、自分の住んでいる家の中を描いたものが多い。同じ部屋を微妙に視点を変えてみたり、壁の絵を替えてみたり、テーブルの場所を動かしてみたり、という具合にして作品を仕上げていく。近所の建物や旅先での風景を描いた作品もあるが、近所の建物もいろいろな角度から見たものを描いている。どの作品にも人物が登場しない。街の風景が無人ということはないだろうと思うのだが、誰もそこにいない。部屋の風景では、そこに自分の妻を描いたものも少なくないが、部屋にいる妻を描いたのではなく、描いた部屋のなかに妻がいる、という絵である。その部屋も、まるで空き家のようである。生活の匂いがしない。確かに、テーブルの上には空いた皿があったり、使いかけのバターの乗った皿があったり、マグカップが置いてあったりする作品もある。でも、そこに生活の時間が流れているようには見えないのである。

室内の風景という点ではフェルメールを彷彿させ、人のいない風景という点ではエドワード・ホッパーやルネ・マグリットを想起させるのだが、絵の語りがそれらの作品とは全く違うと思う。さすがにフェルメールの時代は、絵の中に様々な寓意が隠されていて、今となってはそれらが全て解読できるわけではないのだが、それでも一枚の絵が一冊の書物に匹敵する内容を持っているかのような饒舌さが感じられる。近代以降の絵画作品は、メディアの多様化大衆化のなかで、絵画ならではの表現を追求するものへと変容しているように思う。つまり、寓意性や物語性に代わって、美あるいは人間の本質のようなものを具象化してみせる芸術性に価値がおかれるようになったと思う。エドワード・ホッパーが描いているのは生活者の孤独というものだろう。その作品には無人の街や部屋を描いたものも少なくなく、そうした作品のなかで私がすぐに思い浮かべるのは「Early Sunday Morning」である。

私が通っていた公立中学では、学校行事のようなものとして、毎年、学年毎に文集をまとめていた。中学1年の時、私は美術の教科書に載っていたホッパーの「Early Sunday Morning」を題材にして「日曜日」という牧歌的な詩を創って文集に載せた。その詩は覚えていないが、子供らしい他愛の無いものだったということは覚えている。

さて、ハンマースホイの作品だが、モネの積み藁や睡蓮のように、部屋の中の風景をモチーフにしながら、様々に同じ物を描くことによって生活を表現しているのではないかと思った。不在を描くことにより、そこにあるはずのものを浮かび上がらせているのではないだろうか。無いものを描いているのだから、いくら描いても終わるということはなく、結果として同じような作品がいつまでも製作され続けたのだろう。こうして同じ部屋の絵を何枚も観ると、その不在の存在感が気になるのである。

ところで、ホルタさんは今頃どこで何をしているのだろう?

継続は力なり

2008年07月18日 | Weblog
先日、総務省情報通信政策研究所調査研究部というところから「ブログの実態に関する調査研究の結果」という資料が公表された。これによると2008年1月現在、日本語で提供されているブログサイト等を通じて公開されているブログの数が約1,690万件だそうだ。これを記事総数で見ると約13億4,700万件、データ量では42テラバイト、うちテキストデータが12テラバイトだという。このうち、月に1回以上、記事が更新されている「アクティブ」なブログは約308万件、記事総数5億6,800万件、テキストデータ量5テラバイトである。件数では全体の18%、記事数とテキストデータ量ではともに約42%である。世の中のブログ総数は増加を続けているが、アクティブブログは2005年半ばあたりから300万件前後で横ばいである。

約300万件というアクティブブログの数が多いのか、それほどでもないのか、見方は様々だろうが、そのなかに収益目的で企業が運営するものや、同様の目的で企業から個人に委託されたものが相当数あるはずなので、この「熊本熊的日常」のような純粋道楽サイトで、しかも毎日更新というのはそれほど無いと思う。よほどの変わり者でもない限り、何のインセンティブもなくこんなものを毎日書いたりはしないだろう。

世間の目で見て、とてつもなく馬鹿馬鹿しいことを毎日なにかしらやってみたいという思いが、何年も前からある。明らかに馬鹿馬鹿しいというのではなく、一見すると何の変哲もないごくありふれた日常生活のように見えて、実は、「何やってんだぁ!」という、微妙な外し方に憧れるのである。今、思い返してみて、印象深いのは、少し早起きして、出勤前に若冲を観に行ったことである。

「少し早起きして、出勤前に若冲を観に行く」と聞いただけでは、ただ「ふーん」と思われるだけだろう。しかし、当時、私は都内に住んでいて、その若冲展が京都の相国寺で開催されていたのである。これなら「何やってんだぁ!」と思われるだろう。この時は、東京発7時58分ののぞみ9号に乗って、京都へ行き、相国寺に着いてからチケットを買うのに30分ほど並び、入場までにさらに30分並び、会場に入場した後も所々の展示室前で入場規制が敷かれていたので、作品と対面していた時間は実質15分ほどだった。結局、京都発13時9分ののぞみ18号で東京へ戻り、午後4時の始業には間に合った。わずか15分ではあったが、その15分間は自分がそこにいることが、実にまっとうなことをしているように感じられて、愉快であった。

ところで、ブログのことだが、これは、とにかく毎日更新を続けたいと考えている。昔観た「フォレスト・ガンプ」という映画のなかで、主人公がひたすら走り続けて、ある時、唐突に走るのを止めてしまうという場面があった。あんな感じで、毎日更新を続けて10年くらいしたら突然止めてみたいのである。

さようなら

2008年07月17日 | Weblog
須賀敦子のエッセイのなかに、アン・リンドバーグが日本語の「さようなら」という言葉の意味を知って感動していたという話がある。

「さようなら」というのは「然様ならば、ごきげんよう」の短縮されたものだということを、以前、ラジオかテレビで耳にしたことがある。この「然様ならば」が「さようなら(→さよなら)」「さあらば(→さらば)」となったのだという。この「然様ならば」というのは、「そうならねばならぬのなら」ということで、つまり「お別れするのはお名残惜しゅうございますが、お別れしなければならないのなら、仕方のないことです。どうかお元気でお過ごしください。」という奥行きの深いことばなのである。外国語では、英語の「グッドバイ」は「神が汝と共にあれ」という意味だそうだが、仏語の「アディユ」、独語の「アウフフィーダーゼーエン」、北京語の「ツァイチェン」などは「またお目にかかりましょう」という意味である。「さようなら」は、これらの外国語での別れの挨拶とは全く異質の成り立ちがあるということだ。

私は、この「さようなら」に象徴される日本文化が本来持っていた潔さが好きである。建物や町並みにも、そうした消え去るものを追わない諦観のようなものがあった。日本の伝統的家屋が木と紙とでできているのは、そうした素材が比較的容易に大量に利用できた、とか、地震や暴風雨などの自然災害が多いので短工期で竣工できる素材と工法が求められた、というような合理的な理由もあるのだろうが、文化の根底に「形あるもの、やがては壊れる」という諦観があるように思うのである。

潔く諦めるためには、自分なりにやれるだけのことはやったという充実感がないといけない。「人事を尽くして天命を待つ」という言葉があるが、人事を尽くさなければ、天命を待つという心境には至らないものである。壊れることを前提としながらも、できるだけの手を尽くすというのが、本来の日本の文化であったように思う。その手を尽くした仕事に美しさが宿るのである。尽くした末に崩壊するなら、それは仕方のないことでもあるし、その崩壊自体が美しく感じられるものである。「さようなら」という言葉の美しさは、諦観に至るほど相手に尽くしたという、茶の湯にも通じる思想に根ざしたものだと思う。そうした自国の言葉の深さに異国の人が感動したという話を聞くと、素直に嬉しいものである。

この「さようなら」についてのアン・リンドバーグの話は「翼よ、北に」という本の中に登場するのだそうだ。是非、読んでみたい。