内田百閒 『百鬼園戦後日記』 全3巻 中公文庫
初版が出た頃の世情は経験していないのでわからないが、決して誰もが安楽に暮らすことのできる状況ではなかっただろう。本書の中でも新旧円切替というのがある。円という単位こそそのままだが、実態としては通貨単位の仕切り直しだ。つまり、そうしなければならないくらいに経済が破綻していたということだ。そういう中にあって、日記の記述の核を成すのは酒の調達への情熱と酒を呑む喜びなのである。
確かに、自分でどうこうすることのできないことを思い悩んだところでどうしようもない。個々人の生活というのは、当事者がどれほど思い悩んでいようがいまいが、側から見れば滑稽なものでしかないのかも知れない。それくらい人は己の目の前のことへの関心に執着している、ということだろう。
百閒先生の場合は、とどのつまり「やっぱり酒が好き」か。私は下戸なので、いわゆる酒呑みが長時間に亘って体内に液体を摂取し続けることができることが不思議でならない。酒呑みであろうとなかろうと、胃袋の容量も腸の長さも然程違いがあるはずもない。それが一升を一人一晩で空けて何事もないかのようにしていられる人が少なからず存在することを人類あるいは人体の驚異とよばずに何としょう。
何年か前、健康診断で再検査になり、肛門から内視鏡を突っ込む検査を受けた。その検査に際し、2リットルの下剤を30分以内に飲むことになった。私の人生において、これほど短時間にこれほど大量の液体を摂取することは後にも先にもこの時だけだ。その苦痛だけでも並大抵ではないのに、検査本番では塗炭の苦しみを味わうことになる。同じ内視鏡検査でも胃と腸とでは世界が違う。以来、健康診断の一か月程前からは繊維質のものを多く食し肉類は控えて便が固くならないようにして裂肛の回避に努めている。また、検便の採便に際しては細心の注意を払って色艶の良いところを選んで提出容器に納めている。
さて、何の話だったか。「やっぱり猫が好き」いや、酒が好き、か。何にせよ、好きなものがあるというのは結構なことだ。本書と『東京焼盡』を合わせると昭和19年11月1日から昭和24年12月31日までの百閒先生の日常を覗き見たような気になる。しかし、こうして刊行される「日記」は本当の日記ではない。『戦後日記』の中で昭和19年11月1日から昭和20年8月21日までの日記であるはずの『東京焼盡』が昭和24年に執筆されていることがわかる。もちろん、全くの絵空事ではなく、下地となるメモなり本当の日記なりがあるはずだ。百閒先生は刊行物としての「日記」の核に酒の調達と呑むことを据えた。それがどういうことを意味しているのか、一考の価値はあると思うのである。本書については、改めて書くかもしれないが、一応読了の印としてここに記す。