熊本熊的日常

日常生活についての雑記

「レ・ミゼラブル」

2005年03月19日 | Weblog
 帝国劇場で「レ・ミゼラブル」を観た。原作を読んだこともなければ、ろくにストーリーも知らずに観た。それでよかったような気がする。観客に下調べを要求するようなエンターテインメントはエンターテインメントたりえない。まっさらの状態で観る人にどれほどの感動や喜びを与えることができるのかが、プロの腕の見せ所なのである。その意味では、素晴らしい舞台だった。リテラシーも予備知識の量もばらつきがある観客にスタンディング・オベーションをさせるには何が必要なのか、観ていてよくわかった。
 映画やコンサートと違って、演劇には必ずある一定の割合のご贔屓さんが客席を占めているように思う。これは演劇が作品よりも役者と聴衆とのコミュニケーションによって成り立っている部分が大きい所為ではないか。芝居が終わった後の役者と観客のお決まりの遣り取りを見ながら、そんなことを思った。
 つまり、「レミゼ」の舞台そのものよりも、それ以前に醸成された役者とファンとの間の信頼関係の深さが舞台を事前に構成しており、舞台そのものはそうした信頼関係を限界的に補強するだけなのではないかと思うのである。信頼関係というのは醸成するのは難しく、崩壊させるのは簡単である。だから舞台で鍛えられた役者には「名優」と呼ばれる人が多いのだろう。日頃の人間関係も同じことである。積み重ねがモノを言う。

「カバの約束」

2005年03月03日 | Weblog
今日もファンタスティックシアターに出かけた。今回の上映作品は「カバの約束(Mzima: Haunt for the Riverhorse)」である。ケニアの泉に棲むカバの生態を撮ったドキュメンタリーで、上映時間は50分だが撮影に2年間を要している。カバは夜行性である上に、日中のほとんどのを水の中で過ごしているため、その生態には謎が多いのだそうだ。この作品の舞台は湧き水で出来た池なので透明度が高く、そこに棲むカバの生態を追うのに好都合だという。映像では、カバにフォーカスを当てて、その池の生態系をわかりやすく描いていた。また、映像自体の美しさも特筆ものであった。

自分自身の生活を見ると、確かに食べるものも着るものもエコシステムの恩恵と言えるものであり、上手に消費しないとたちまち生態系を破壊して、その恩恵を失ってしまう。人間どうしの関係にも同様の連鎖が見え隠れしている。互いの信頼関係や敵対関係のバランスのなかに日常の平和が保たれている。

「眠れる森の美女」

2005年03月02日 | Weblog
 有楽町のニッポン放送の地下にあるファンタスティックシアターというところで「眠れる美女の村(Village of Sleeping Beauty)」というドキュメンタリー映画を観た。これは2003年の「世界自然・野生生物映画祭」でグランプリを受賞した作品である。ここでは、カメラがフィンランドとの国境に近いロシアの寒村に暮らす老夫婦の日常を淡々と撮影している。53分間のフィルムで語られているのは、二人が家畜の世話をしている様子であるとか、夫が大好きな自宅のサウナに入る姿、牛をしたり羊の毛を刈る映像というごくありふれた日常である。しかし、平凡な日常であるがゆえに、そこに流れる時間とか彼等の表情といったものに生命が溢れているように見える。生きることの幸せというのは、財産とか仕事というような自分の外にあるのではなく、毎日の生活を自然という与件のなかであたりまえのように生きるという生活観のなかに静かに築かれてゆくものなのだと感じさせる作品だった。勿論、都市での暮らしは、その土地の自然とは無縁の世界である。しかし、与えられた環境のなかで自分の欲望とそれを満足させる可能性との均衡を図るということは、物理的な自然環境だけでなく我々の心のなかの自然環境についても言えることだろう。己を知り、足るを知った時、煩悩を超越した幸福感のようなものを味わうことができるような気がする。