出光佐三 『マルクスが日本に生まれていたら』 講談社+α文庫
出光美術館の売店で購入。岩佐又兵衛展を観にでかけた折、たまたま目にして『人間尊重七十年』と一緒に買った。出光興産という会社はちょっと変わった社風のところだという話は聞いたことがあって、その「変わった」ところにかねてより興味はあった。本書のまえがきは同社人事部が書いているので、あるいは社員研修などに本書が用いられているのかもしれない。
本書は出光佐三が社員の質問に答えるという形式で書かれている。もし本当にこのような問答があったとしたら、楽しい職場であったろうと思う。私が学生の頃、就職活動でこの会社にお邪魔したことがある。学校のOB訪問という名目だったが、互いに興味を覚えることはなくその一回だけの訪問以外に縁はなかった。学生時代の友人で早稲田の応用化学の修士課程にいた人が研究室の枠とやらでこの会社に就職した。しばらく年賀状のやり取りは続いていたのだが、以前にもここに書いたように私が年賀状というものを書かなくなった所為もあって音信が途絶えてしまった。最後に書いたときには千葉の製油所で経理の仕事をしていたようだが、ストレスから帯状疱疹になったとのことだった。
出光美術館の収蔵品にしても、出光興産が上場する際に上場基準を満たすべくその一部が売却されたとか、そうした会社の方針に反発して辞めた学芸員がいたとか、というような話は聞いている。精油設備合理化という国家レベルでの流れのなかで出光興産は昭和シェルと合併することになったが、出光家は不満があるようで株式のやったりとったりに支障が生じているというのも報道されている。
どれほどしっかりした志の下で行われてきた事業でも、志を貫くことは容易なことではないという寂しい現実を自分が生きていることがよくわかる名著だ。
以下、備忘録。
丁稚奉公をしているうちに、郷里の実家が商売で行き詰まったので、なんとか早く独立しようと思っていたときに、学生時代から懇意にしていた淡路の日田重太郎さんという人が、自分の別荘を売って、当時の金で六千円を与えられた。そのときの日田さんの言葉は「この金は貸すのではなくて、やるんだ。したがって利子もいらなければ、営業報告もいらない。家族兄弟仲良くして自分の信念を貫け」ということであった。そして「金を貰ったことを他言するな」とつけ加えられた。これは、いわゆる東洋の陰徳の教えであり、ぼくの人生に対する非常に大きな教訓となった。(30-31頁)
人間の根本は、平和に仲良く暮らすということだろう。(40頁)
必要に応じて分配するということは、一見、立派に見えて公平かのごとくであるが、実行は不可能だよ。無欲・無私の神仏ならば、必要に応じてということで公平にいくだろうが、私利・私欲の人間には結局、平等に分配する以外になくなって、悪平等になってしまうんだ。(47頁)
心のあり方がいちばん大事だということになる。その心のあり方を理論や物差しで決めようとするから、理論や理屈の奴隷になるんだ。人に聞いたり本を読んだりすることは、技術、物差しを知るということであって、最後の人間のあり方は、人間が自問自答していくということだ。それができないような人は、人間として価値がない、ということになりはしないかな。(53-54頁)
つばた英子/つばたしゅういち 『あしたも、こはるびより』 主婦と生活社
記憶が定かでないのだが、なにかのサイトにあったエッセイのような文章に本書のことが触れられていた気がする。ブックオフで購入。
あこがれの生活が綴られていた。仮にこのご夫婦のように土地を持っていたとしても、自分がこれから畑仕事を始めることができるとは思えないのだが、でもやってみたいと思うのである。時節に逆らわず、簡素に清潔に静かに日々を過ごし、そのままふっと消え去るのが自分の理想だ。
俵万智 『考える短歌 作る手ほどき、読む技術』 新潮新書
いつどこで買ったのか記憶が定かでないが、家にあった。たまたま通勤で読む適当なサイズの本があまりなかったので、本書を読んだ。
よく短歌や俳句の解説のようなものを読んで、「えーっ、そうなのぉ」と思うことがあるのだが、そうした解説の背後には物事に必ず正解があるという大前提があるからだろう。学校の授業のような評価体系があって、その体系に乗らないものは排除され、体系に対して信任を与える人々だけが肩寄せ合って象牙の塔を守っている、というイメージだ。物事に良し悪しという評価を与えなければ体系が成立せず、体系が成立しなければ生きる指針を得られない。良し悪しを与えることで、その体系の番人としての生活を得る。生活のための体系であるから、それは守らないわけにはいかない。現実は多様なのだが、その多様性を認めていると自分の存在が危うくなる、ということなのだろう。
言葉を選び抜いて限られた言葉によって世界の何事かを表現するというのは、言葉というものの豊饒を否応なく突きつけられて、感動するよりほかにどうしようもない状況を創造する行為だと思う。だから、秀れた歌というものは、浅薄な解説を拒絶する強さがあるものだと思う。解説や能書きを呼ぶ歌というのは、結局のところ、未完成未成熟なのだと思う。ただ歌がある。それを読んでただ感心する。そういう世界こそが短歌や俳句の世界なのだと思うのだが、どうだろう。
与謝野晶子 『みだれ髮』 新潮文庫
これもいつどこで買ったか記憶が定かでないが、アマゾンで購入した気がする。
世に短歌や俳句の愛好者は多く、一般の新聞や雑誌の隅に素人や専門家の作品が掲載されていたりする。そういうものを読むと自分にもできるのではないかという気がするものだ。実際には文字を並べただけの粗末なものしか思いつかないのだが、少し頑張ればできそうな気がするのである。ところが、この本に掲載されている歌を読むと、そんな淡い期待が生まれる余地がない。なにがどうすごいのか説明できないのだが、ただ「すげぇ」と思う。特に「はたち妻」はどれもすごい。こういうものを読むと、自分にもできるかもしれないなどという誤解は生まれない。そういう点で、健全な作品集だ。
大島忠剛 『東海道新幹線路盤工』 信山社
三省堂書店池袋店で購入。作者はいわゆる物書きではない。タイトルの通り、土木関係の仕事をしてきた勤め人だ。書くことに関して素人だからこそ書けるものがあると思う。本書はそういう本だ。とにかく面白かった。その面白さの素は、ほんとうの話であることだろう。