熊本熊的日常

日常生活についての雑記

「考える人」

2008年04月30日 | Weblog
子供の頃、インテリというものに憧れた。人は漠然とその存在を感じながらも実体をつかみかねる対象に憧れるものである。自分の周囲には粗野な人々しかなく、両親は中卒で、親戚一同のなかにも大学を出た人はひとりもいなかった。そんななかで地元の公立小学校と中学校で義務教育を受け、都内の私立高校から私立大学へと進んだ。金融機関に就職し、くじ引きに当たったようにバブル期に当たり、英国の大学に社費で留学して修士号を取った。進学や就職は誰に相談するでもなく、全て自分の判断である。しかし、それは判断というよりも流れのようなもので、考えも志も全く無かった。相談したくても、相談相手に足る人が自分の周囲に居ないのだから、自分で決めるより他にどうしようもなく、決めると言っても自分のなかに判断基準があるわけもない。暗中模索とはこういうことを言うのだと思う。

高校時代は大学への進学のためだけに存在したようなもので、不毛の3年間だった。そんなふうにして入学した大学も、なんとなく4年間が過ぎてしまった。留学時代は毎日の課題を消化するのに精一杯で、学問とか教養と呼べるようなものは殆ど何も自分のなかに残らなかったが、休みが長かったので、あちこちぶらぶらして、それなりに楽しい時間を過ごすことができた。結局、小学校から大学院まで総計18年も学生をやっていて、幼い頃に憧れたインテリジェンスというものは殆ど身に付かなかった。

人は経験を超えて発想をすることはできないという。物事を経験するというのは容易なことではない。以前、経験と体験の違いについて書いたので、今日は書かない。結局、学校に通っている間は、保護者が生活の面倒を見てくれるので、定型化された知識を詰め込むことと、友人や教師とのささやかな関係を通じて何事かを学ぶことしかできないのではないだろうか。そうして、社会に放り出され、自分で稼いで生活するということを強いられるようになる。ここで初めて物事を考えるという必要に迫られることになる。しかし、自分で生きるなどということをせずに他者に寄生し続ける幸運あるいは不運に恵まれる人も少なくないらしい。

物事を考えるなどということをしなくても、人は生きていけるのである。困ったことがあれば他人に頼り、都合の悪いことは他人の所為にして、ババ抜きのババのように、嫌なことを他人におしつけて生きていくことはそれほど困難なことでないのである。そうすると、厄介なことにかかわらなくて済む。しかし、厄介なことと向き合う経験を積まないでいると、逆境に対して脆弱な人間になってしまうような気がするのである。

坪内祐三の「考える人」を読んでいたら、ふと、自分がこれまでに物事を真剣に考えた経験があるだろうかと不安になった。振り返ってみて、自分はどれほどのことを考え、経験してきたのかと、不安が深くなった。

きょうの料理

2008年04月29日 | Weblog
鶏の煮物を作って食べた。昆布、椎茸、鰹節、醤油、みりんで汁を作り、それで玉葱のスライスと鶏のモモ肉を煮たのである。香りといい、味といい、和食そのものだ。それを炊きたてのご飯でいただく。もういつ死んでもいいと思うくらい旨い。

「江戸の閨房術」「江戸の性愛術」

2008年04月28日 | Weblog
アマゾンで本を注文する場合、実物を手に取って選ぶことができないので、まとめて何冊か購入すると、その中にどうしても期待にそぐわないものが混ざってしまうのは致し方の無いことではある。今回も、まだ全部の本を読了したわけではないが、いくつかハズレが出てしまった。

「江戸の性愛術」は、伊予道後の遊女屋に伝わる「おさめかまいじょう」の紹介と解説を中核にした、江戸時代の性風俗に関する解説書である。「江戸の閨房術」は性技についての紹介である。内容は類似しており、挿絵や記述の一部に重複も認められる。ただ、「性愛術」のほうは風俗資料的色彩が強く、「閨房術」のほうは文字通りの実用書的な内容である。

著者は「おさめかまいじょう」を風俗資料として紹介しているようだが、企業経営についての示唆にも富んでいる。江戸時代の接客業における顧客対応マニュアルであり、しかも何世代にもわたって繁盛した店のものである。そこには人間というものに対する深い洞察があるように思うのである。人を満足させるとはどういうことなのか、人を飽きさせないサービスの真髄は何なのか、ということを考察することは現代の生活にも通じる普遍性がある。著者は江戸庶民文化研究者とのことなので、内容に関してはこれで仕方が無いのかもしれないが、その風俗と背景となる社会経済とか人間心理といったものを結びつけた視点があれば、なお一層興味深い内容になったように思う。

娘へのメール 先週のまとめ

2008年04月28日 | Weblog

連休ですね。元気ですか?

写真を送る方法ですが、要するにファイルのサイズを落とせば、手紙に書いた方法でよいのですが、ファイルサイズを小さくする方法は、少し面倒なので、今度日本に行く時に説明します。とりあえず、今すぐできるのは以下の方法だと思います。

iPhotoを開く。送りたい写真をクリックする。上のツールバーから「共有」を選び、そこから「メール」を選択。すると「写真をメールで送信」という画面が出て来るので、その画面のなかの「サイズ」で「小(ダウンロード速度優先)」を選択。「新規作成」をクリック。Mailというメールのソフトが立ち上がる。そこで送りたい相手のメルアドを入力して「送信」をクリック。

但し、衣里のパソコンでは、このMailが使えるのは購入後2ヶ月間だけです。これも、次回帰国の時にずっと使えるように手続きをします。

参考までに、この方法で写真を一枚送ります。

この写真はブログに書いたよ うに、昨日出かけて来たHastingsというところで撮影したものです。昨日は急に海が見たくなって、ドーバー海峡に面したこの町に行ってきました。なぜHastingsかというと、自分の住んでいるところから最も行き易いからというだけのことです。ほんとうは白い崖が続いているところを見たかったのですが、その場所は少し遠いので、今回は諦めました。でも、Hastingsにも崖があり、見たいと思った景色のイメージに近いものを見ることができて大変満足して帰ってきました。

では、また来週


「男と女の家」

2008年04月27日 | Weblog
この著者の西洋上等日本劣等風な考え方には違和感を拭えないのだが、読み物としては面白かった。この本もエッセイ集だが、標題にもなっている家におけるセックスの扱いに関する論考はいろいろ考えさせられるものがあった。

自分は現在一人暮らしだが、このままずっと一人暮らしを続けるのか、伴侶に恵まれて共同生活を送ることになるのか、先のことはわからない。しかし、これは考えておかなければならないことである。そうしたことも自分の人生の重要な要素であるからだ。相手のある話なので、自分で勝手に決め打ちをするわけにもいかないところが難しいところではある。

確かに、著者が語るように、夫婦や親子の関係によって、それを収める家の造りは自ずと違ったものになる。また、家の造りがそうした関係を良くも悪くもするということもあるだろう。人間というのは環境の影響を受けるものである。家の造りという物理的に最も身近な環境が、その家で暮らす人々の間の関係にも多かれ少なかれ影響を与えるのは当然のことだろう。但し、忘れてはならないのは、そうした関係性というものは時々刻々と変化するものだが、家は建ててしまったら、簡単には変えられないということである。結局、今どういう関係か、ということよりも、これからどういう関係を築きたいのか、ということを十分考える必要がありそうだ。関係というのは相手のある話なので、要するにその家で生活する人たちがよく話し合って、住まい方のみならず生き方に至るまで、それぞれの考え方をある程度すり合わせる、すり合わせる振りをする、といったことは必要なのだろう。

夫婦という形を取るか否かはさておき、家の中での男と女の関係は、あまりおおっぴらに語られることはないが、その家の住み心地を規定する要素としては決定的に大きい、と、私も思う。基本は一緒に暮らすべきではない相手を伴侶に選ばないということに尽きる。ひとりひとり別々の文化を持った人間どうしが共同生活をするのだから、多少の葛藤はあるのが当然である。しかし、価値観の根本的な部分で相容れないものがあると、いつか必ず破綻する。暮らし始めればなんとかなるだろう、という了見は失敗の最大原因だ。勿論、大人どうしの関係なのだから、実際に暮らしながら調整や妥協ができることはたくさんある。一方で、暮らし始めてみて、亀裂が一層深まることもいろいろ出てくるものである。

そうした相性のようなものが端的に現れるのが食事とセックスだと思う。一緒に食事をして楽しいと思えない相手は要注意である。少なくとも、私は食という行為を軽視する人とは気持ちよく生活できない。そして、男と女の間において肉体関係を軽視するのは禁物である。セックスは単に行為だけの問題ではないのである。相性がそこに集約されると言ってもよいのではないかとさえ思う。気持ちよくセックスできないような相手と心地よい関係を構築できるとは思えないし、気持ちよくセックスできる家でなければ、住み心地が良い家とは言えない。

以前にも書いたように、今は囚人のような生活なので、精神の健康を維持するのに最低限必要なものがどのようなものかを模索しながら暮らしている。そして、その最低限というものがなんとなく了解されてきたように思う。但し、それは自分一人で暮らす場合の最低限であり、一緒に暮らす相手がいる場合は、その相手によって、また別の基準ができあがる。しかし、少なくとも自分にとっての最低限が見えてきたということは、今回のこちらでのこれまでの暮らしのなかでの大きな収穫である。

海を見に行く

2008年04月26日 | Weblog
急に海が見たくなって、海辺の町へ出かけてきた。自宅近くの駅から電車を乗り継いで2時間ほどでHastingsという町に着く。

ここ2週間ほど腰痛を患っており、なんとなく気が滅入っていた。たまたま、同僚と話をしていて、その人が来週末に海に遊びに行くという話を聞いたら、自分も海が見たくなった。腰痛は、腰そのものの痛みは軽くなったのだが、無意識のうちに腰を脚でかばっていたのか、大腿部が痛み、その痛みがあまり引かないのである。腰そのものの痛みが軽くなったということは回復期に入ったということなので、ぶらぶらと歩くというような運動は良いだろうと考えた。仮に、足腰の痛みが単なる腰痛ではなく、深刻な病気の一症状であるとすれば、動けなくなる前に見たいと思った海を見ておくべきだろうとも考えた。ある友人からは精神的な原因があるのではないかと指摘され、それなら気分転換が必要なのではないか、とも考えた。結局、思ったことは行動に移すのが良いだろうと思い、出かけてきたのである。

週末のロンドン中心部は、観光客で賑わっており、人混みが苦手な私としては、あまり出かけて行きたくはない場所である。対するHastingsは週末の日中は1時間に2本の割合でロンドンから鉄道が通じており、自分の生活圏からのアクセスが良く、しかも混雑というものとは無縁である。今回、この町を初めて訪れたのだが、天気に恵まれた所為もあり、とても快適だった。

海岸では、水遊びをしている子供たちがいる。もう水に入ることができる水温なのかと思い、水に手を入れてみると、とても冷たかった。町には漁港もあり、ちょうど漁船が海から戻ってきたところに出くわした。漁をしてきたわけではないようだったが、海から戻る船を見ると条件反射的に海鳥はおすそわけを期待するらしく、船の近くに集まってくる。このカモメ(?)がやたらと大きいことに驚く。昼に海辺の食堂でフィッシュ・アンド・チップスを買って、海岸で腰を下ろして食べていた時も、少しずつカモメが寄ってきて、ふと気がつくと自分がカモメに包囲されていたのだが、このカモメは見れば見る程でかいのである。今までカモメというものをしみじみ観察したことは無かったが、カモメとはこういうものなのだろうか?

説明は省くが、Hastingsは古都である。海岸にそびえる崖の上には朽ち果てた城跡がある。城が廃墟と化したのは、戦争によるものではなく、暴風雨によって城が建っていた高台そのものが崩壊してしまったからなのだそうだ。人間がどれほど知恵を絞っても、天変地異にはかなわないということなのだろう。

海岸から間近に、城跡のある高台から遠くに、思い存分海を見て、なんだか妙に気持ちが晴れ晴れとした。さんざん歩いたので、腰痛はぶり返すかもしれないが、それでもかまわないと思った。それくらい満足した。小さな苛立ちが蓄積したときは、広々とした場所でのんびりとするのが良いようだ。

「暮らしをデザインする」

2008年04月25日 | Weblog
建築家のエッセイ集である。舶来上等日本劣等という、あまり合理的根拠があるとは思われない価値観が根底に感じられ、少しうんざりした。後半の航空機に関する部分は、編集段階で削除するべきではなかったのかと思われるほど陳腐な内容である。しかし、建物は生活を収める容器なので、中身である生活に応じてその設計は自ずと変わる、というのは尤もなことだと思う。家がはじめにあって、そこでの生活を考えるのではなく、まず生活があって、それを収める家があるということだ。

自分が家を建てた時、そこに生活は無かった。家を建てる時点で、既に離婚することを考えていたので、後から変更しやすい間取りを考えていた。結果として、ほぼ立方体に近く、部屋割りは殆どしなかった。とてもシンプルな造りである。実際、生活してみると、確かに自分の家という感覚は無い。どこか他所の家に居候をしているような気分で何年も暮らすことになった。いざ離婚して、一人で生活を始めてみると、賃貸ではあっても、今住んでいる家のほうがはるかに自分の場所という感じがして快適である。

近い将来、再び日本での暮らしを始めるつもりだが、さすがに家を建てる金は持ち合わせていないので、既に建っている家なりアパートなりを借りることになる。それでも、自分の生活のイメージを持って、それに合わせて家を探すのと、単に通勤時間だの立地だの明示的に表現できる基準だけで探すのとでは、選択の対象が異なるだろう。自分の中の世間という雑音を消し去って、これからどんなふうに生きていきたいのかということを考えて物件を探すと、今までなら思いもつかなかったようなものにめぐり合うことになるのではないかと期待している。

ちなみに、今ロンドンで住んでいる家はけっこう気に入っている。隙間風が酷いだの、床の敷物に汚れが染み込んでいるだの、さんざん否定的な形容で語っているが、一人で暮らすのにちょうどよい広さで、天井が高いのが良い。この本にもあるように、蛍光灯が無く、照明器具が基本的に白熱電球に拠っているのも室内の雰囲気を落ち着いたものにする一要素かもしれない。ただ、慣れるまでは、私の眼には室内が暗いと感じられた。

日本で、今暮らしているロンドンの家のようなものを探すつもりは全く無い。この家はロンドンの風土とか周辺の街並みに、しっくりと馴染んでいるところが良いところでもあるのだ。風景のなかに溶け込みつつも自分の居場所を確保できるというバランスが肝要だと考えている。

「ゼロからつくる、はじめてのカフェ」

2008年04月24日 | Weblog
いつかカフェを併設した古道具屋を営みたいと考えている。古道具屋だけでよいのだが、それでは忙しないだろう。せっかく来てもらったのだからお茶でも飲んで、ゆっくりしていって欲しいと思うのである。ただし、それだと道具を眺めてお茶飲んで、で終わってしまうので、お茶はしっかりとお代を頂戴しようというわけだ。

「お茶」と書いたが、自分はコーヒーが好きなので、コーヒーを出そうと思う。2005年4月から2007年7月にかけて、月一回の割合で、焙煎職人のところに通って主にコーヒーの淹れ方について勉強してきた。コーヒーは同じ豆を同じように焙煎して同じように挽いても、淹れ方で味が全く変わってしまう。自分が好きなのは、フルボディと呼ばれるしっかりした味の、むせ返るような濃厚な香りのコーヒーなのだが、そのようなコーヒーを美味しいと思ってくれる人は少ないような気がする。焙煎から消費するまでにどれくらいの時間を置くと「美味しく」なるのか、ということについてもいろいろなご意見があるようだ。私は焙煎から日が浅いほうが好きである。わかりにくだろうが、しっかりしたボディ、濃厚な香味、それでいてすっきりとした喉越し、というようなバランスが好きなのである。しかし、いざ店で出すコーヒーの味をどうするかとなると、その自分の好みのものでよいのかどうか、考えなければなるまい。

仕事については、自分がやってみたいと思うことは一通り経験できたので、最後に何かしっくりとくるようなことがしてみたいのである。例えば、寿司を食べる時、つまみに始まって握りに入り、最後は巻物で締めるようなものである。私はシソとオカカとヤマゴボウとゴマを巻いてもらうことにしている。この巻物に相当するような仕事をしたいと思うのである。できることなら、今まで経験したことのない世界の人と出会ってみたい。しかも愉快で知的な人と。

さて、本の話だが、内容としてはハウツーなのだが、版の大きさや形、文章と写真のバランスや紙面構成などが凝っていて、読みやすい。カフェのオーナーたちがカフェを始めるようになったいきさつについてのインタビューも楽しい。

「ひとりよがりのものさし」

2008年04月23日 | Weblog
昨日手にした10冊の本のうち、最初に読んだのは坂田和實の「ひとりよがりのものさし」。写真が多いということもあるが、おもしろくて、一気に読んでしまった。著者の坂田さんは目白で古道具屋を営んでいる。自分が感じる「美しさ」に徹底的にこだわっている様子がなんとなく伝わってくる。そうした価値観の軸を自分の中にしっかりと持っている人の世界というのは、何故かほっとする感じがして好きだ。

勿論、人は社会のなかで生きている以上、所謂「世間」から無縁ではいられない。しかし、世間に振り回されている人というのは醜悪に見えて好きにはなれない。逆に、自我の世界に没入している人には、取りつく島が無いように見える。自分の我を守りつつも、世間の眼も少しは気になる、というくらいが親しみを覚えて良いと思う。この本の世界は、そんな親しみのある世界なのである。

お待ちかね

2008年04月22日 | Weblog
アマゾンで注文した書籍をやっと手にできた。アマゾンのサイトで注文した品物の在り処を追跡して、アマゾン→フェデックスとサイトを横断、荷物が先週金曜日時点で既に自分の勤務先の建物内に在ることまではわかっていた。金曜に到着した後、荷物の整理などもあるだろうから、月曜には届くだろうと思っていた。しかし、何事も無く月曜の午後3時を迎えたので、配送室のメルアドを社員向けサイトで調べ、問い合わせのメールを出しておいた。すると、別々の相手から荷物のトラッキング番号を知らせろという返事が来て、同じ内容のメールを4通ほど出したところで、今日になって、そのなかの一つから荷捌き所にあるとの連絡が返ってきた。その連絡の末尾に「取りに来る?」と書かれていたので、「行く行く!」と返事を出して、自ら荷捌き所まで行って受け取って来た。

荷捌き所にはフェデックスやらDHLやらの箱や封筒が溢れかえっているのに、何かと言うと"Perfect!"を連発するお兄さんが一人で荷物整理に奮闘しているようだった。これでは整理が追いつかないのもやむを得ないかもしれない。

以前、別のブログに書いたのだが、昨年9月の渡英以来、電車が動かなくなっても、来るはずの郵便が来なくても、その場であからさまに苛立ちを表現する人を見たことがない。でも、職場の廊下などで、携帯電話片手に何事かのクレームを怒りあらわにぶちまけている人をしばしば見かける。とはいえ、何事も穏便に事を運ぶというのが、この国のやりかたではあるようだ。間違っても、電車が来ないからと言って、駅員に食ってかかったりしてはいけない。どんなに激しく文句を言ったところで、彼・彼女には解決のしようが無いのだから。とはいえ、こちらでも駅員に対する暴力事件は珍しいことではないらしく、駅職員に対する暴力の追放を訴えるポスターが駅構内に貼ってある。

国民性というものはあるのだろうが、どこそこの国の国民であるという以前に、一人一人は生身の人間なのだから、違うところよりも共通するもののほうが大きいのだろう。

さて、待ちに待った本だが、今回はハズレがなさそうである。購入した10冊の本の内容については別の機会に紹介しようと思う。

海外転出者の確定申告に関する注意点

2008年04月21日 | Weblog
確定申告により税金の還付を受けることになっているのだが、先日、日本の税務署から納税管理人に指定してある留守宅宛に還付が出来ない旨の連絡が来た。早速、その税務署に電話をして事情を確かめてみたところ、管理人を指定した場合、還付金は確定申告をした本人ではなく、管理人の銀行口座に振り込まれるのだそうだ。

日本を離れる前、税金のことは気になっていたので、その税務署を訪ね、事情を説明し、必要な手続きを尋ねた。その時、納税管理人を指定することが必要だと言われ、その申請用紙を渡された。その際、振込み口座に関する説明は一切無かったと記憶している。

確定申告の用紙を見れば明らかだが、還付金の振込先口座欄には銀行名や口座番号を記入する欄はあるが名義人を記入する場所は無い。そりゃそうだろう。財産権というのは個人に帰属する権利であり、当事者が後見人・保佐人・補助人を立てなければならないような状況にでもない限り、課税関係はその当事者だけで完結するはずである。故に、当事者以外の銀行口座に還付金が振り込まれたり、その口座から納税資金が引き落とされることはあり得ないと言える。

ところが、現実は違うらしい。納税管理人を指定した場合、その銀行口座の欄以外は全て当事者に関することなのに、その銀行口座欄だけが唐突に代理人のものと解釈されるのだそうだ。

納税管理人を立てなければならない事情として、最も一般的なのは、当事者が国内に居ないとか、病気などで身動きが取れないというようなことなのではなかろうか。そうした人を狙い撃ちにするように、身勝手な解釈で還付を回避しようとしているようにも見える。

この国の財政が実質的に破綻していることは承知しているが、国家は国民の生命と財産を守るために存在しているのではないのか。「貧すれば鈍する」とは言うが、その国家がコソドロのようなことをしてどうする、と思うのである。

娘へのメール 先週のまとめ

2008年04月20日 | Weblog

まずは滑り出しの良い新学期ということでなによりです。部活は人数はともかく、授業では経験できないことがたくさん経験できたら良いのではないかと思います。友達は少ないよりは多いほうが楽しいでしょうが、数の大小ではなく、その人と付き合うことによって自分がそれまで気付かなかった物の見方とか、考え方ができるようになることが大事だと思います。

現実問題として、人の生活というのは結局は他人との関わりのなかで成り立っています。しかも、中学生という年代は、心身ともに成長のなかにあり、自分の中身も自分の周囲の人たちの中身も目まぐるしく変化するものです。そうしたなかで、大人になってからも交友を続ける相手というのは、それほど多くはないでしょう。人それぞれの人生があり、成長とともにその方向性のようなものが固まってくるからです。でも、人の人生というのは、どこで何とつながるかわからないということもあります。自分に対しても他人に対しても誠実に生きることを心がけておけば、少なくとも、後悔することは少ないと思います。無理に友達をつくろうとする必要はありませんが、新しい出会いの機会は不用意につぶしてしまうことのないようにしたほうがよいでしょう。

成長期にあるということは多くのことを自分の中に吸収する時期であるとも言えます。物事を本当に理解する、というのは、実はもう少し大人になって様々な経験を経てみないとできないことなのですが、そのためのきっかけのようなものを今の時期にたくさん仕込むことができれば、たぶん、これから先もそこそこ楽しく過ごすことができるような気がします。

さて、デジカメの写真ですが、「5MB」というのは写真のファイルのサイズのことです。一眼レフの映像は画質が良い分、多くのメモリーを使って表現されています。ですから、それを送るのはなかなか大変なことなのです。ちょうど、重い荷物を運ぶのが大変なのと同じです。

今のメモリーサイズのままでは送るのが難しいと思いますので、サイズを落として別ファイルとして保存して、それを送るという方法があります。後で、それを説明します。もっと簡単な方法があるかもしれないので、調べてから、改めて連絡します。

映画、楽しんできてください。

では、また来週。


Bloodbath

2008年04月20日 | Weblog
“blood”=「血」、”bath”=「風呂」というと、風呂桶に血がタポタポとしている感じがしてグロテスクな印象を受けるが、”bloodbath”というのは「大量解雇」という意味だそうだ。英語を母国語とする人は、この言葉からどのような印象を受けるものなのだろうか?

雇用整理は企業経営者や株主・債権者から見れば、費用を低減させ企業価値を向上させる手段のひとつと映るのだろう。被雇用者から見れば生活の糧を奪うものに見えるだろう。直接利害関係の無い人から見れば、他人事でしかないかもしれない。個人的には、この”bloodbath”という表現が、第三者的無関心に基づくものに感じられるのである。

今、鈴木大拙の「東洋的な見方」という本を読んでいるのだが、ここには西洋の思想にはその根底に物事を主と客に分けて考えるという特徴があると書いてある。そういわれてみれば”bloodbath”という表現には他人事のような気楽さ、ビデオゲームや娯楽映画の映像のような娯楽性のようなものが感じられるような気もする。

さて、先週金曜日の新聞に”Jobs bloodbath engulfs London as banks cull thousands”という長い見出しの記事があった。今更、この業界でリストラの話は珍しくもなく、この手の記事には必ずと言っていいほど自分の勤務先の名前が登場する。今回も例外ではなく、その記事によれば数週間以内に大規模なコスト削減策の発表が控えているらしい。”cull”という表現にも抵抗を感じる。「弱った家畜や、子(卵)を産まなくなった動物を間引く」という意味らしい。自分が間引きや血の風呂に浸かる対象になるかもしれないと思うと心安らかではいられない。

ところで、金融業界が合理化で業態を縮小させたら、その広告収入に依存しているマスメディアにもbloodbathの季節が訪れ、記者のなかには間引かれる人も出てくるのだろうか。

届いたのに届かない

2008年04月19日 | Weblog
日本のアマゾンで本を買い、こちらへ届けてもらうようにした。フェデックスで届くらしいのだが、もらった伝票番号で荷物を追跡してみたら、「配達完了」となっていた。しかし、私の手元には何も無い。これは、私の勤務先の配送室に届いたということらしい。アマゾンやフェデックスの記録には「配達完了」で、彼等にしてみれば仕事は終わったということになるのだろう。これはどうも腑に落ちない。金だけ取られて、商品が手元に無いのに、相手が「あぁ、終わった、終わった」では、こちらとしては、おもしろくない。

この場合の問題点は、私=私の勤務先、と認識されていることにある。勤務先が信用できるなら、それで一向に構わない。現実には、この「勤務先」でしばしば郵便物の紛失事故が起きているらしいのである。かといって自宅宛に送られても受け取りようがない。困ったものである。

ちなみに、今月は給与明細がまたもや行方不明になっている。給与明細が行方不明でも、給与自体は振り込まれているので、それで困ることはないのだが、気分が悪い。ここは金融機関なのだが、こんなことでよいのだろうかと常々感じている。気分が悪いと思うとストレスになるので、単なる一社員としては、このくらいルーズなほうが気楽で良いのかもしれない、と考えるようにしている。

願わくば

2008年04月18日 | Weblog
ねがわくば はなのしたにて はるしなむ
そのきさらぎの もちづきのころ

西行は本当に桜の花の咲く頃に亡くなったという。桜が開花する時期は冬の厳しい寒さが和らぎ、夏へ向けて気候が大きく変化する時期なので、意識するとしないとにかかわらず、そうした大きな変化が身体にストレスとなる。このため、確率的には、この時期に亡くなる人というのは多いと言えよう。なにも自分が詠んだ歌の通りに寿命をまっとうしたからと言って、驚くほどのことでもないだろう。

昔、伊丹十三監督の「大病人」という映画を観たことがある。映画館で観た記憶があるので1993年のことである。作品の内容については記憶が消えてしまっているが、桜の木が風にそよぐシーンや、オーケストラによる般若心経、主人公の臨終間際の様子などは今でも脳裏に浮かぶ。この作品のなかで、主人公は末期の胃癌で、最期は自宅で迎えるという設定になっている。よく「畳の上で死にたい」という言葉を耳にする。この作品もそうした世間の価値観を具現化したような映像でまとめているということだろう。

私自身は、畳の上での生活というのは小学6年の11月までであり、しかも煎餅布団のような寝具で寝起きしていたので、畳の上というものへの憧れや郷愁はない。布団がベッドに置き換わったとしても、死に場所として、自宅というものにはそれほど魅力を感じない。病院のベッドというのも落ち着きが無い。親類縁者何人かを病院で看取った経験からすれば、亡くなるまでの情緒的な雰囲気から亡くなった後の事務的な雰囲気への転換には、それこそ映画や芝居の場面転換を観ているような気がして、いつも唖然としてしまう。人生は所詮、芝居のようなものだ、と言ってしまえば身も蓋も無いが、それが露骨に表現されるのもいかがなものかと思うのである。

要するに自分の最期というものには思いが至らないということなのだが、思ったところでどうなるものでもないだろう。その場に誰が居ようと居まいと、最期の瞬間は結局自分ひとりだけのものだ。

子供の頃、大人になったら、まず自分の墓を買おうと思っていた。大人になってみると、自分の墓などどうでもよいと思うようになった。とりあえずは、自分のことより親の墓をどうするかということを考えなければいけない。役に立つのか立たぬのかわからないが、何年か前に公益社のプレビオクラブというものに入会しておいた。そういえば、まだプレビオクラブに住所変更の連絡をしていないことを思い出した。あの会員証や割引券の類はどこにしまっただろうか?次に日本に行く時、それらの所在を確認しておかなくてはいけない。

伊丹には「お葬式」という作品もある。これは1984年公開だが、ビデオで何度か観た記憶がある。氏の作品では他に「タンポポ」「マルサの女」「ミンボーの女」「スーパーの女」を観たが、どれも愉快で好きである。氏は97年12月20日に投身自殺を遂げている。死の前に、写真週刊誌によるスキャンダラスな記事のネタにされるということがあり、ワープロ文書で「死をもって潔白を証明する」という遺書が残されたということになっている。しかし、彼を死に至らしめたのは、そのスキャンダルではないような気がする。勿論、私は伊丹十三という人とは面識が無い。ただ、氏の監督作品から受ける氏の美学のようなものが、氏に人生の引き際を意識させていたように感じられるというだけのことである。引き際を考えているなかで、たまたまスキャンダルが氏の背中を押したように思うのである。

死は生の対極にあるのではなく、その延長線上にある。己の死を考えることは、自分のこれから先の人生を考えることでもある。たまたま、私の場合は、今年が前回の渡英から20年目に当たり、この20年間のさまざまのことが自然に思い起こされるのである。いつの間にか、自分も「願わくば」と思案する時期にさしかかってきたということだ。