高校時代は大学への進学のためだけに存在したようなもので、不毛の3年間だった。そんなふうにして入学した大学も、なんとなく4年間が過ぎてしまった。留学時代は毎日の課題を消化するのに精一杯で、学問とか教養と呼べるようなものは殆ど何も自分のなかに残らなかったが、休みが長かったので、あちこちぶらぶらして、それなりに楽しい時間を過ごすことができた。結局、小学校から大学院まで総計18年も学生をやっていて、幼い頃に憧れたインテリジェンスというものは殆ど身に付かなかった。
人は経験を超えて発想をすることはできないという。物事を経験するというのは容易なことではない。以前、経験と体験の違いについて書いたので、今日は書かない。結局、学校に通っている間は、保護者が生活の面倒を見てくれるので、定型化された知識を詰め込むことと、友人や教師とのささやかな関係を通じて何事かを学ぶことしかできないのではないだろうか。そうして、社会に放り出され、自分で稼いで生活するということを強いられるようになる。ここで初めて物事を考えるという必要に迫られることになる。しかし、自分で生きるなどということをせずに他者に寄生し続ける幸運あるいは不運に恵まれる人も少なくないらしい。
物事を考えるなどということをしなくても、人は生きていけるのである。困ったことがあれば他人に頼り、都合の悪いことは他人の所為にして、ババ抜きのババのように、嫌なことを他人におしつけて生きていくことはそれほど困難なことでないのである。そうすると、厄介なことにかかわらなくて済む。しかし、厄介なことと向き合う経験を積まないでいると、逆境に対して脆弱な人間になってしまうような気がするのである。
坪内祐三の「考える人」を読んでいたら、ふと、自分がこれまでに物事を真剣に考えた経験があるだろうかと不安になった。振り返ってみて、自分はどれほどのことを考え、経験してきたのかと、不安が深くなった。