家といえば、今月は結局2軒の不動産を内見した。このブログにも書いたように片方は申し込みをしたのだが、先客に決まってしまった。もう片方は洪積台地の物件ではなかったのでパス。台地ではない、というよりも台地から低地へ向かう傾斜地で、妙な造りであったことと、その家の前に古い石のお地蔵様が半分埋まりながら傾いて立っているという図がいただけなかった。どちらも一戸建てで、家賃は今生活している巣鴨の下宿と同水準なので、同じ家賃で倍の居住面積を確保できることになる。今暮らしている部屋は、時々このブログに書いているようにバランスのよい長方形で四方に窓があるため、夏場に風の通りがよくて暑がりの私にとっては有り難い。それがここを去り難くしている最大の要因で、広さは別に求めていない。ただ、建屋の一部をギャラリーとして使いたいという希望があるので、一戸建てを探しているのである。
今日のように寒い日はやはり考えるのだが、今月内見した2軒とも窓枠の隙間がすごいことになっており、やはり冬場は辛いかもしれない。しかし、無い袖は振れないので、予算の上限は上げることができない。それでも丹念に探し続ければそのうち良い出会いもあるだろう、と思うより他にどうしょうもない。
今週はひな祭り関係のバイトの案内も頻繁に携帯メールで入ってくる。身体は空いていても、時給と場所によってはバイト代のかなりの部分が交通費に消えるという間抜けなことになるので、応募しようと思える案件は無い。エキストラの方の案内もたまに来る。つい先日は某テレビドラマでバーテンダーの役というのがあった。これは年齢制限で応募不可。あの元アイドルと共演できたかもしれないのに、と誠に残念に思う。
結局終日雪だったので、晴耕雨読ではないが米朝の句集を読んだ。今日のブログの表題はその句集から引用した。それで鍵括弧で囲んである。私は俳句のことなどさっぱりわからないのだが、岩波書店からけっこうな装丁で発行されているのは米朝の名前に拠るところだけではなく、句にも見るべきところがあるということなのだろう。噺家といえば言葉の専門家、しかも師匠は若い頃から俳句に慣れ親しんでいたというから、これほどの句集になるのである。こういうものに触れると、私も俳句や短歌を勉強したいものだとの思いが強くなる。どの句も好きだが、特に気に入ったものを以下に列挙してみる。
煮凝りの一瞬溶ける舌の先
初鶏の声より先に山の神
ふきのとう四五寸横に残る雪
入り日にザクロその粒々の輝ける
鶯の日向になおす日曜日
風鈴も鳴らず八月十五日
薔薇の垣いつまで続く立ちばなし
新米に新海苔添えて古女房
老妻と仰げば春の星座かな
ゆく秋やこの頃狸化かさざる
ランドセルこれが苦労のはじめかも
新しき蛇の目の匂い梅雨に入る
夏の夜に置きたいような女なり
打上を見て帰りきて庭花火
(以上、「桂米朝句集」岩波書店 より引用)
ところでほうとう鍋だが、夜は昼の残りの汁に牡蠣を入れてみた。海外では季節に関係なく生牡蠣を食べるところもあるようだが、若い頃の胃腸の丈夫な頃ならまだしも、たとえ加熱調理をするにしてもそろそろ素直に食べ納めの時期だろう。明日から3月だ。