熊本熊的日常

日常生活についての雑記

昆布

2015年06月25日 | Weblog

昆布についての話を聴きに仕事を休んで大阪へ出かけてきた。会場は阪口楼という普茶料理の料亭。昆布をテーマに考えられた料理をいただきながら、昆布について学ぶという企画だ。

日本食が世界遺産に登録されたこともあり、日本食の基本のひとつである昆布出しへの関心も高くなっているそうだ。一方で、日本国内の昆布消費量は減少を続けている。なぜ日本人が昆布を使わなくなったかといえば、それに代替するものが登場したというのが最大の理由だろう。世に「旨味調味料」と呼ばれているものである。昆布や鰹節で出しを引いて味噌汁だの煮物だのといった毎日の料理を作ることは決して厄介なことではない。しかし、安価で手軽な代替品があればそちらに流れるのが成り行きというものだろう。ところで、そうした代替品を使った料理は旨いのだろうか?それを毎日食べて暮らしたいと思うものなのだろうか?

食事は身体を作る作業だと思う。今食べたものが消化され分解され吸収されることで生命を維持するのに必要な要素として身体の各機関に供給されるものであるはずだ。何を食べるかということはどのような自分でありたいかということでもある。もちろん生活には先立つ物が必要である。しかし、そういう枠のなかで自分のありたい暮らしをやり繰りするのが知恵というものだろう。物の無い時代ならいざ知らず、溢れかえるほどの物に囲まれていながら目先の数字に右往左往してわけのわからないものを口にするというのは知恵のある者のやることではない。忙しくて料理をしている暇がない、まともな食事をする暇がない、というのでは何のために生きているのかわからない。生きることは食べることだ。そこに関心がない生というのはチューブやケーブルにつながれて横たわっているだけの生となんら変わるところがない。

人間の身体を構成する多種多様なタンパク質のなかで最大の割合を占めるのがグルタミン酸であり、昆布にはこのグルタミン酸が豊富に含まれている云々かんぬんということはさておき、毎日口にするものの当たり前の旨さというものを求めたい。毎日食べても飽きない味、口にして思わずほっとするような味というものを求めたい。そういうものを毎日いただくにはどうしたらよいのか、どういう社会であればよいのか、という視点から生活とか社会を考えたら、もっと暮らしやすい世の中になるような気がする。

食べることばかり考えていてもいけない。食べるというのは自分以外の命を奪うことでもある。自分が消費した命にふさわしい生活をしているのか。まことに心もとないのだが、そういう意識くらいは持っていたいと思う。

 


敗戦

2015年06月09日 | Weblog

ミュンヘン・アウグスブルクの旅から帰り、ネット上に公開されている終戦直後のミュンヘンの街を写した動画を観た。現在の観光名所である旧市庁舎も聖堂も廃墟のようで、街は瓦礫の山だ。アウグスブルクのフッゲライにも戦災の写真が展示されていたが、アウグスブルクのような小さな街も瓦礫の山と化していた。戦災で都市が壊滅的な打撃を受けたのはドイツだけのことではないが、復興の在り方にはそれぞれの土地の事情が色濃く反映されているような気がする。

ミュンヘンもアウグスブルクも被災前の状態に戻すということに力点が置かれているように見える。全く勝手な想像だが、彼の地では自分たちが積み重ねてきた秩序に対する信頼感が厚いのではないだろうか。千年、数百年という歴史を刻んだものが廃塵に帰してしまえば、どれほど最先端の技術を駆使して物理的に表面を取り繕うことができたとしても、失われた記憶は元には戻らない。それならば心機一転その時々の部分最適を指向するのか、それでも積み重ねてきたものを可能な限り守り抜くのか、というところの思考の方向性が例えばミュンヘンと東京とでは大きく異なるように思う。

街並みをジグソーパズルに例えると、ミュンヘンは焼け残ったピースをそのまま使いながら失われたピースはそれらしく作って嵌め込んでいる。失われたものそっくりに作ろうという気があるようには思われない。それは新しく作り直した所為もあり、作り直すのに予算が限られていた所為もあり、どこかハリボテのような風情である。しかしたとえハリボテでも、失ったものを再現しようという意思は感じられる。石造りであった城門をコンクリートで再現し、レリーフであったと思われるものをそれを模した描画で代替しているの見るのは、どこか哀しい。哀しいけれど正直な感じがする。そのまま使うのはナチス関連の施設跡も例外ではない。ミュンヘン郊外にあるダッハウの強制収容所跡が記念館として整備された上で公開されているのは誰もが知るところだが、ミュンヘン市内にあるKonigsplatzにはナチス党本部や複数の総統館などナチス関連施設が集中しており、現在も美術館などに用途転換されて使われているものもある。用途を転換しても、それがもとは何であったかということを隠そうとはしない。過去を現在の都合で無闇に変更しないという姿勢が感じられる。

例えばビールが16世紀に確立された方法で律儀に正直に作られ続けていたり、地下鉄に改札が無かったりすることと、過去を真面目に再現しようとすることとの間には深い関係があるような気がするのである。

一方東京の街並みに、少なくとも私は秩序を感じない。ビールには妙な混ぜ物があるのが当たり前で、地下鉄の改札機の性能を高めようとする意思はあっても、改札機が不要な仕組みを考えようとはしない。人間というものの在り方への認識が根本のとことで大きく違うのだろう。ドイツも日本も先の大戦の敗戦国で、戦後にはどちらも驚異的と称される復興を成し遂げて世界の中枢を担う国家となった。どちらがいいとか悪いとかを論ずる気は全くないが、戦後70年を経て今在るそれぞれの立ち位置がこれから10年20年と経るなかでどのように変化するのか、興味津々だ。


民意

2015年06月08日 | Weblog

ドイツ博物館へ行った日の午後、異常事態に遭遇した。ドイツ博物館から市街で出て買い物でもしようということになったのだが、市街へ向かう交通が無いのである。来る時に乗った路面電車は博物館前の次のIsartorで折り返しになってしまうし、バスも同様だ。そうこうしているうちに警察車両がやたらに多く往来するようになり、ついには道路が閉鎖されてしまった。博物館のなかをぐるぐる歩いて疲労していたこともあり、Isartorの前の広場の木陰のベンチに腰掛けてぼんやりとしていた。警察車両が何台も連なって走り去ったのを最後に車も路面電車も通らなくなった。道路はガラガラだ。そこに警察官の姿が目立つようになってきた。暑いのに重武装の一団もいれば、通常の制服の人たちもいる。なんとなくものものしい様子だが、天気が良いのと、道路ががらがらなのと、その場に居合わせている人たちの間に緊張感がないのと、なにより自分たちがぼんやりしている所為で、車が通らないと落ち着いていいなぁ、などと思っていた。やがて、遠くのほうから鐘や太鼓を打ち鳴らす音が近づいてきた。お祭りのパレードかと最初は思った。そのうち、音の主たちが視界に入ってきた。パレードだ。よく見るとパレードに参加している人たちは手に手に何か標語のようなものが書かれた旗とか垂れ幕などを持っている。なかには英語で「STOP G7」とか「STOP TTIP」などと書かれている。見た目はお祭りでも、主張しているのはかなり政治的な内容であるようだ。パレードではなく、デモなのだ。それで不測の事態に備えて重武装の警官が警備しているわけだ。

デモ隊の途切れたところで、道路を渡りIsartorを抜けて市街に入った。スーパーや百貨店をはじめ、商店の過半が臨時休業だった。カフェなど飲食店は営業していたので、ゴーストタウンのようになったわけではないが、平日の午後に商店がことごとく閉まっているというのは異様な光景である。G7やTTIPの何が不満なのかわからないが、国家の方針に反対するという意志を街をあげて表明するということが新鮮なことのように感じられた。日本でもその昔には群衆が国会を取り囲んだというようなことはあったのだが、少なくとも自分の記憶には街をあげて政府に対してものを申すという場面はない。

少なくとも形式の上では、日本もドイツも議院内閣制で議院の議員は普通選挙によって選出される。しかし、形式上はともかくとして、自分と社会との関係についての意識は彼我の間で大きな違いがあるように思われてならない。この日のデモについてみれば、商店が悉く店を閉めて街でデモが行われるという事の大きさと、それを受け止める市民の側の態度に注目しないわけにはいかない。確かに、これほど警官がいるのかと思うほど大勢の警官が警備をしているということは、目に見えないところでは予測される混乱の芽はかなりの程度すでに摘み取られているはずだ。それにしても、デモには殺気立った様子もなく、隊列は秩序を守って行進していた。夕方はデモからの帰りと思しき人々がデモで使ったと思しき旗の類を手に地下鉄や路面電車に乗ってどこへともなく消えて行った。翌日の新聞の一面はそのデモのことだったが、新聞が読めるほどドイツ語に通じていないので、どのような論評であったのかはわからない。しかし、街が丸ごとG7反対という旗の下で動いたのは事実だ。果たして、同じようなことが日本の都市で起こり得るだろうか。

何を当然のことと考えるのか、ということが文化によってかなり違うような気がする。殊に自分と社会との関係に対する意識が内発的な市民社会の歴史を持った社会とそうではないそれとの間で決定的に違うのではないか。私は民主制とか選挙といったものに対する懐疑をこのブログでも度々書いてきたが、そういう懐疑がおそらく街をあげてある主張のためにデモをする国の人には通じないのではないかと思った。


限界

2015年06月07日 | Weblog

成田に着いて荷物の受け取りのところまでは順調だったのだが、自分たちの荷物がなかなか出てこなかった。アムステルダムでの乗り継ぎ時間は1時間ほどだったので、荷物は搭載口の手前のほうに積み込まれたはずだと勝手に想像していた。ということは出すときは最初のほうになるはず、ということになる。事実、ミュンヘンから同じフライトだった人の荷物はすぐに出てきた。なぜ大勢の乗客のなかからミュンヘンからの同じフライトの人だとわかったかというと、彼は座席を間違えられていて、間違えた人との間でちょっとしたやりとりがあったのを記憶していたからだ。そんなことはどうでもよいのだが、自分の荷物はなかなか出てこなかった。

荷物で待たされたおかげで、調布行きの数少ないバスの時間にちょうどよい頃に空港到着口に出ることができた。やっと出てきた大きな荷物は宅配便で自宅に送ることにした。日曜の午前中というのは道路が空いているらしく、9時30分に空港を出発したバスは11時を少しまわったあたりで調布駅に着いた。空港を出て佐倉あたりまでの記憶はあるのだが、その後の記憶が飛んでいて、気がつくと調布インターを降りた後だった。空港で宅配便に頼んだ荷物は夜8時前に自宅に届いた。

1週間ほどの休暇で欧州へ出かけるのは、身体にはきついことはよくわかっている。だからこそ、体力的にまだ耐えることのできるうちに行きたいところへ出かけてみたいのである。いつまでこんなことができるものなのか知らないが、限界を試してみたいと思っている。


文明

2015年06月06日 | Weblog

朝8時半頃ホテルをチェックアウトし、8時55分発のバスで空港へ向かう。ミュンヘン空港は比較的新しい割に動線工夫が足りないというか、どこか気が利かない気がする。搭乗する航空会社のカウンターには長蛇の列ができていて、それが容易に動こうとはしない。ようやくチェックインを済ませてゲート前までたどり着くと、全体的に狭苦しい感じがして落ち着かない。それでも無事にアムステルダムに着いて、成田行きのKLMに乗ることができた。

ミュンヘンとアウグスブルクに滞在した6月1日から5日までの間、移動手段は徒歩の他には路面電車や路線バスなどの公共交通機関だけだった。そしてこの5日間でそうした公共交通機関の利用に際して検札を受けたことはアウグスブルクからミュンヘンへの列車の車中での1回だけだった。この地ではその気になれば無賃乗車が簡単にできてしまうのである。勿論、私たちはきちんと切符を買って利用していたが、駅に改札がなく、路面電車や路線バスの運転手は運転するだけで料金の徴収というような仕事はないのである。それで成り立つ社会というものに少なからず感心した。

何年か前、幼稚園から高校までミッション系の学校で過ごしたという人と雑談をしていた折、その人が「普通の人は善悪の基準をどのようにして身につけるのでしょうか?」と不思議がっていたことを思い出した。その人は物心ついてからキリスト教的な倫理観の教育を受けてきたので、そういうものが当たり前だと思っていたが、長ずるにつれ世の中の大多数はそうした宗教的な倫理観とは無縁に暮らしていることを知るようになって、素朴に不思議に感じたらしいのである。逆に私のほうは身近に宗教心のあるような人のいないところで育ったので、聖書だの仏法だのの世界というものがいまひとつぴんとこないままに今日に至っている。ただ、ミュンヘンやアウグスブルクの公共交通機関でいちいち切符を確認されないことと宗教的倫理観とは別のことのような気がする。

阪神淡路大震災のときも東日本大震災のときも、被災地で人々が淡々と助け合って事態の収拾に努めていたことが美談のように語られているのをあちこちで見聞した。東京オリンピック誘致に際しては「おもてなし」の心が「日本人」の特質であるかのように語られた。私自身はそうした美談の当事者にはならないだろうし、「おもてなし」の気持ちもどれほどあるのかまことに心もとない。その所為なのだろうが、ドイツで改札のない社会を目の当たりにしたとき、些細な美談を殊更に流布させようとする自分の国のことが薄っぺらいものに感じられた。昨今、近隣の国々から歴史認識がどうのこうのと因縁をつけられてるのは、そういう薄っぺらなところにつけ込まれているという面もあるような気がする。自分の世界観や倫理観が確たるものとして社会のなかで共有されているなら、人として当然のようなことをわざわざ美談にする必要もないだろうし、他所からつまらぬ因縁をつけられることもないのではないか。たかが改札のことではあるが、そういう瑣末なことのなかに、その社会を貫徹する価値観の片鱗が表出しているように思う。


本拠

2015年06月05日 | Weblog

路面電車に乗ってニュンフェンブルクへ行く。ここはバイエルン選帝侯妃の夏の離宮として17世紀に建設されたところからその歴史が始まる。歴史的建造物としては比較的新しいものだが、先の大戦では戦災に遭わなかったので、おそらくミュンヘンにある歴史的建造物のなかでは最も本来の姿に近いものではないだろうか。このもともとの建物が現在ミュージアムショップなどがある建物で、その後の持ち主の変遷に伴い増改築が重ねられ、19世紀のルートヴィヒ1世の時代に改造された姿がほぼ今日のものだそうだ。尤も、だからといって特別関心するほどのものではない。欧州ではこうした歴史的建造物がたくさんあるので、よほど強い個性がないと、そうしたたくさんあるもののひとつにしか見えない。それでも現地の人々にとっては見逃すことのできない記号的価値のようなものがあるのかもしれない。個人的にはそうした記号的なものに興味を覚える。

ドイツは連邦共和国である。つまり「ドイツ」と呼ばれる地域は複数の国家から構成されている。例えばミュンヘンに暮らす人にとって、バイエルンとはいかなる共同体なのか、ドイツとはいかなる存在なのか、という意識というか認識について説得力のある話が聞きたいものだ。今でも記憶しているニュースのなかに、ソ連の崩壊に際してドイツ東方植民の末裔がドイツへの「帰国」を求めてモスクワのドイツ大使館に集まったというものがある。報道陣からの取材を受けた人がたどたどしいドイツ語で自分が「ドイツ人」であることを訴えていた映像が妙に印象的だった。

夜は宿泊先のホテルのレストランで軽い食事を済ませてから路面電車に乗ってGasteigへコンサートを聴きにでかけた。ここはミュンヘン・フィルの本拠地なのだが、今日の演奏はバイエルン放送交響管弦楽団だ。放送響の本拠地はレジデンツの近くにあるヘラクレスザールだが、同じ市内なのでこちらも似たようなものだろう。今日の演奏は2曲。最初の曲はジョン・アダムズの"City Noir fur Orchestra"。3楽章で構成される曲だが、演奏を終わったことが観客に認識されず、指揮者自らが拍手をしてそれと知らせ、やや間を置いて会場から拍手が起こるというものだった。私は音楽のことは全くわからないのだが、おそらく素晴らしい演奏だったのだろう。なんとなく会場の雰囲気が暖かいものに感じられた。

音楽に限らず芸術におけるコンテンポラリーはその時々の最先端なので、一般には容易に受け容れられないものである。しかし、芸術というものは人が人のために創るものなので、何かしら人の生理と親和していないと支持は受けられないだろう。モーツアルトの曲は典型だと思うのだが、私のような無知な者に対しても心に響くものがある。長い歴史の淘汰を経て残るものというのは何がしかそういうものを持っているものなのではないだろうか。今日の2曲目、ベートーベンの交響曲7番も生理に直接響くものだ。つまり、人の生理がわかれば人を思い通りに動かすことができるはずだが、現在に至るまで部分的局地的な解明や理解はあっても全体像が解明されたとは言い難い。いつかはわかるときが来るのだろうか。もし仮に完璧に解明されたとしたら、おそらくつまらない社会になるのだろう。


只事

2015年06月04日 | Weblog

伊丹十三の『日本世間噺大系』(新潮文庫)に「博物館」という章がある。そこに書かれているのはドイツ博物館のことだ。これが書かれたのは昭和50年頃のことらしいのだが、ドイツ博物館のほうはこの頃から展示替えがあったり別館が作られたりしていて書かれている通りではもはやない。それでも私が初めてここを訪れた1989年の夏頃はまだ書かれている状態に近かったように記憶している。とにかく実機の展示が多く、触ることができるものが多かった印象がある。今日、ドイツ博物館を訪れたのだが、自転車とか自動車のコーナーが別館のほうに移されてしまったようで、この本館には見当たらなかった。それでも、歴史を追って実機を並べる展示方法は本にある飛行機や自動車以外にも共通している。コンピューターなどは歴史が浅いので、余計に変化の大きさが顕著で、改めて今という時代の何事かを思い知らされる。

今回の旅行で絶対に行こうと思っていたのは、アウグスブルクの街、ピナコテーク、ドイツ博物館の3つである。ドイツ博物館については、実物大の炭鉱ジオラマをどうしても再訪してみたかった。実際に再訪して、イメージしていたよりも規模が小さくなった印象を受けたが、それでも十二分に楽しかった。近頃はシュミレータや大画面を用いた展示が多くなったが、実機やモックアップなどの質感に勝るものはないと思う。モノの質感を知るというのは、それで何がわかるようになるというものではないが、物事の因果関係を感覚的に把握するのに必要なことではないだろうか。理屈からすればモノをデータに落としてコンピュータで処理すれば様々な状況を人口的に作り出しそのなかでそのモノがどのような挙動をするかということがわかるはずなのだろう。現にそうした考え方を前提に様々なものがデータとして処理されている。天気予報も飛行機のパイロットの訓練も機械の設計も、今はパソコンのスクリーン上で行われている。しかし、天気予報が完璧ではなく、飛行機事故も無くなるということはなく、機械にリコールが付いて回るのは、理屈と現実に乖離がある証拠だ。モノや現実をどれほどデータ化できるものなのか知らないが、現場現物を軽視しては物事がうまく運ばないのはいまだに事実なのではないか。

ところで伊丹十三の本の「博物館」は以下のような文章で終わっている。このあたりの状況は現在にも通じるものであると思う。以下引用。

ホント只事じゃない。だから日本ってのはさ、わりとこの頃自信を持ち過ぎちゃってさ、ヨーロッパに対してさ、経済大国だとかさ、教育程度が高いとかさ、なんだパリは穢いじゃないかとかさ、エレヴェーターはがたがたじゃないかとか、やっぱり日本は大したもんだなんて言う人が多いじゃない?だけど、実は全然そんなことではないんでね、彼らは何も言わないけどね、実はやっぱり物凄い文化ってものがヨーロッパには、やたらいくらでもあるんでね、だから、本当に彼らの実体を知ったら、もう少し彼らに対して日本人はコンプレックスを持ったほうがいいような気がするわけよね。「コンプレックスを持ち直そう」ってことを考えた方がいいと思うわけよね。(『日本世間噺大系』新潮文庫 360頁)

ドイツ博物館へ行くときに乗った路面電車に犬を連れて乗っている人がいた。盲導犬とか介助犬というようなものではなく、単なる犬のようだ。聞いた話だが、ドイツでは飼い犬を連れて普通に公共交通機関を利用できるのだそうだ。ただし、その犬が人間に危害を加えるような事態が生じた場合、その犬は殺処分に付されるのだそうだ。秩序の在り方というものについて考えさせられる事例の一つだと思う。


著作権

2015年06月03日 | Weblog

ピナコテークを訪れる。宿から歩いてきた。途中のカフェで朝食をいただこうとおもって歩いていたら、結果としてピナコテークの前に来てしまったのである。ドイツに来て今日で3日目の朝を迎えたが、食べるものがすべて美味しく感じる。パンであるとか果物であるとか、なんでもないものが美味しい。普段は積極的には口にしないビールは、美味しいと感じるだけでなく後に酔いや不快感が残らない。普段アルコールを口にしないのは、たとえ少量でも飲んだ後2日ほど腹の具合が悪くなることも理由のひとつなのだが、一昨日も昨日も昼にビールをいただいたが、そのようなことが全くないのである。パンのほうはよく知らないが、ビールは16世紀に制定されいまだに遵守されている法律によって原材料が限定されていることが、身体に不具合が生じない理由であるように思う。おそらく、ビール以外のものも律儀に作られているから美味しいと感じるのではないかと、勝手に想像している。

アルテピナコテークのほうは改修工事中で全館のうち展示時代でいうと後半部分が閉鎖中だった。その分、入館料も約半分ほどになっていた。全部観ることができないのは残念ではあるけれど、ここのメインはデューラーやブリューゲルのある前半のほうなので、観たいものが適度にまとまっていて良かった気もする。

ノイエピナコテークのほうはセガンティーニやゴッホもあるけれど、圧倒的に多いのは聞いたことのないドイツの作家たちだ。ふと、日本の洋画家の作品を想った。我々日本人にとってはあたり前の作家の多くも欧州では無名なのだろう。日本人が描く洋画に面白いと感じるものは多くはない。洋画だけでなく文人画もそうだ。彼らの作品を眺めていると、お手本の通りに描いているだけのような気がするのである。もちろん、もとの作品があってそれを模写したと言っているのではない。作品のなかに作者がいないと感じてしまうのである。そういうものが本家本元で評価されるはずはないので、仕方のないことではある。文人画などは型があるので余計に「文人画教室の生徒の作品」のような印象だ。洋画にしても文人画にしても日本では高名で作品も高価なものばかりだが、なんとなく馬鹿馬鹿しいものが多い気がするのは、自分にそういうものを蒐集する財力がない所為だけではないと思っている。

近代になり、例えばチューブ入りの絵の具が普及するとか、絵の具や道具類の価格が下がるとか、要するに工業化によって技術や技巧の大衆化規格化が進展した。同じ絵画作品にしてもアルテピナコテークに並んでいるものとノイエピナコテークに並んでいるものとでは、その意味が全く違うと言っても過言ではない。絵を描くことの持つ意味が時代によってまるで違ったものになっているのである。

さらに時代が下って、今は誰もがネットを通じて世間に対して己の何事かを発信できる。生業ではなくとも気の利いた文章を書いたり、ちょっとした音楽を作ることができたり、人の目を喜ばせるようなものを創ったりして世界に発信している人は無数にいる。そういう人たちが自分の楽しみとして無償で提供するもので世の中の需要がある程度充足されるようになったから、本や雑誌が売れなくなったり、「大ヒット」と呼ばれるほどの音楽が生まれなくなったりしている。「作家」だの「芸術家」と呼ばれる人の作品に希少性がなくなったので、「権利」について喧しく言われるようになった。喧しく言うほどの内容があるとは思えないようなものについてまで等しく喧しく言われるようになった。あまり「権利」を過保護にすると「権利」の中身が育たなくなるのではないだろうか?誰もが世に対して盛んに創作物を投げかけることができるようになったからこそ、競争で鍛えられた優れたものが生まれるというのが健全な姿なのではないか。「権利」などというのは泡沫のようなものだと思う。特定の関係性のなかでのみ成り立つものだ。それを闇雲に普遍化しようとするから妙なことになるのである。自分ができる、ということは同じことを他人もできるということなのだが、人は「自分」が特別なものだと思いたいのだろう。みんなが「特別」な世界というのは、なんだか美しいような、馬鹿馬鹿しいような、面白い世界だ。

 


大富豪

2015年06月02日 | Weblog

アウグスブルクという地名はそこそこの教育を受けた日本人なら誰もが耳にしたことがあるはずだ。世界史の教科書に必ず登場する地名であり、それはフッガー家という富豪の名と一緒になっている。フッガー家が何者なのかはここでは語らないが、何百年も前に欧州でその名を轟かせた富豪が現在の日本の教科書に登場しているという事実がその何者を十二分に語っている。ちなみにフッガー家は現在も続いていて、ドイツでは貴族に列せられ、アウグスブルクにはフッガー銀行というプライベートバンクもある。

ここで感心したのは、フッガー家が16世紀に建設した福祉住宅フッゲライである。地元アウグスブルク出身の敬虔なカトリック教徒で、家族持ちか寡婦、というのが入居の条件だ。家賃は年間1ライングルデン。現在の価値にすると約0.88ユーロ、1ユーロ=135円とすると119円だ。おそらく当時のフッガー家の経済力をもってすれば無料でもよかったはずだ。そこに敢えて家賃を設けるというところがオツなところだと思うのである。

人間を人間たらしめるのは社会の中での役割、存在意義だと思う。所謂「自我」とか「自意識」の「自」というのはそういう自覚に支えられていると思う。自分がこの世にいてもいなくてもいいと自覚してしまう状態が「疎外」などと呼ばれるものだろう。疎外されていると思い込んでしまうというのは自己を自ら否定することであり、「死に至る病」のようなものだ。時々、傍目には病的に見えるほど激しい自己主張をする人がいるが、それは死に至る病を回避するための防衛本能に突き動かされているということなのだろう。公共交通機関での乗客どうしのトラブルとかヘビークレーマーの当事者に定年過ぎの元サラリーマンとか家庭に恵まれない人が多いのはそういうことが関係していると容易に想像がつく。社会の中でうまくやっていけないというのは、生理的な身体状態とは関係なく、瀕死の状態なのである。

たとえわずかであっても家賃を払うという行為によって、フッゲライの住人は人間としての尊厳を守ることができるのではないかと思うのである。諸々境遇においては不足に感じることが少なくないとしても、家賃を払うという義務を果たす能力は持っていると自覚できることが人間としての一線を守っている実感でもあるのではないだろうか。そしてフッガー家の人々もそのように考えたのではないかと思うのである。敬虔なカトリック教徒であるということは、倫理観や価値観において集合住宅での生活の秩序を守るための基準なのだろう。福祉住宅というのは、単に雨露をしのぐ場を提供するというだけではなく、そこに暮らす人の生活を構築する場である。生活を構築するには生活の主体である人間が自立していなければならない。つまり、そこに人がいなければならない。福祉は施しとは違う。人間の自立の支援だ。そういう物事の根本を追求する姿勢があればこそ、歴史に名を残すほどの大富豪たりえたということではないだろうか。

フッゲライには現在も大勢の人々が暮らしている。同時に、入場料を取って一般の人々にも敷地を公開している。建物の内部の公開は教会と2戸の住戸だ。住戸のひとつは16世紀の頃の様子を再現した博物館としてのものでああり、もうひとつは入居希望者向けのモデルルームだ。一戸は4つの区画で構成されている。寝室、リビング、キッチン、バスルームだ。1階なら小さな庭も付いている。モデルルームなのでそれなりに見栄えよくしてあることを勘案しても、十二分に魅力的な家だ。家賃は年0.88ユーロ。入居の条件にアウグスブルク出身あるいは何かの縁があることと敬虔なカトリック教徒であるということは今も変わらず含まれている。


彼方

2015年06月01日 | Weblog

ミュンヘンでの初日、宿の前にある中央駅の様子を眺めながら構内を歩いてみる。ここは国際列車も発着するのだが、ホームに並ぶのはDBの近郊列車とICEばかり。なんだかつまらない駅になってしまった。当然、東京駅とは比較にならないが、ロンドンやパリのターミナル駅よりも人は少ない。列車が到着すればそれなりに人の流れはできるが、よく言えば落ち着いている。そんなのんびりしたところでも駅とその周辺にはホームレスと思しき人影は目立つ。総じて人が少なめなので、余計に目立つのかもしれない。

とりあえずピナコテークを目指して歩いてみる。駅からピナコテークまではAlter Botanischer Garten, Maximiliansplatz, Briennerstr., Obeliskという経路を辿る。駅からピナコテークまでの風景に全く見覚えがない。しかし、間違いなく1989年の6月か7月にここを歩いているはずなのである。ピナコテークの建物を前にして、なんとなく見た覚えがあるような気はする。記憶を失うというのはこういうことかと妙に納得する。生まれてから死ぬまで1分1秒を全て記憶にとどめることなどできるはずもないのだが、人には幼年時代の思い出があり、直近の記憶もある。そして、その間が当然に連続していると思い込んでいる。現実は連続していない。もちろん、過去からの時間の積み重ねの上に今がある。ただ、現実の記憶は斑模様なのである。おそらく、自分に都合のいいように記憶を作り上げているのだろう。ありたい自分を無意識のうちに作り上げようとして、記憶を取捨選択し、都合のいい自分を装っている。自分などというのは実にいい加減なものだ。