昆布についての話を聴きに仕事を休んで大阪へ出かけてきた。会場は阪口楼という普茶料理の料亭。昆布をテーマに考えられた料理をいただきながら、昆布について学ぶという企画だ。
日本食が世界遺産に登録されたこともあり、日本食の基本のひとつである昆布出しへの関心も高くなっているそうだ。一方で、日本国内の昆布消費量は減少を続けている。なぜ日本人が昆布を使わなくなったかといえば、それに代替するものが登場したというのが最大の理由だろう。世に「旨味調味料」と呼ばれているものである。昆布や鰹節で出しを引いて味噌汁だの煮物だのといった毎日の料理を作ることは決して厄介なことではない。しかし、安価で手軽な代替品があればそちらに流れるのが成り行きというものだろう。ところで、そうした代替品を使った料理は旨いのだろうか?それを毎日食べて暮らしたいと思うものなのだろうか?
食事は身体を作る作業だと思う。今食べたものが消化され分解され吸収されることで生命を維持するのに必要な要素として身体の各機関に供給されるものであるはずだ。何を食べるかということはどのような自分でありたいかということでもある。もちろん生活には先立つ物が必要である。しかし、そういう枠のなかで自分のありたい暮らしをやり繰りするのが知恵というものだろう。物の無い時代ならいざ知らず、溢れかえるほどの物に囲まれていながら目先の数字に右往左往してわけのわからないものを口にするというのは知恵のある者のやることではない。忙しくて料理をしている暇がない、まともな食事をする暇がない、というのでは何のために生きているのかわからない。生きることは食べることだ。そこに関心がない生というのはチューブやケーブルにつながれて横たわっているだけの生となんら変わるところがない。
人間の身体を構成する多種多様なタンパク質のなかで最大の割合を占めるのがグルタミン酸であり、昆布にはこのグルタミン酸が豊富に含まれている云々かんぬんということはさておき、毎日口にするものの当たり前の旨さというものを求めたい。毎日食べても飽きない味、口にして思わずほっとするような味というものを求めたい。そういうものを毎日いただくにはどうしたらよいのか、どういう社会であればよいのか、という視点から生活とか社会を考えたら、もっと暮らしやすい世の中になるような気がする。
食べることばかり考えていてもいけない。食べるというのは自分以外の命を奪うことでもある。自分が消費した命にふさわしい生活をしているのか。まことに心もとないのだが、そういう意識くらいは持っていたいと思う。