義典の記載のある松田系図を見ると、承久のときにまで生きていたことになる。
承久元年は建保七年と同じ年である。
建保七年(1219年)2月21日
白河左衛門尉義典が悪別当(公暁のこと)の使者として伊勢神宮に参詣した件について、
(鎌倉に戻る)途中で自殺を遂げてもその罪は償えず、遺領を没収して新たな地頭を補任した。
吾妻鑑にも記載があるそうなので、ココは系図には不名誉なことの詳細は書かなかったことになる。
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和田合戦でダメージを受けていた秀郷流波多野氏のみならず、松田氏(荒木田氏)も所領没収となる。
しかし、それだけで済んだのはおかしくないだろうか?
時の将軍の首を取ってしまうという「公暁の手伝い」をしたとすると、その家族が重たい責任を取ることはなく,では済まないと思う。全滅させられてしまった比企の乱や宝治合戦のように。
北条義時がいるはずの場所に、交代してもらった源仲章がいたこと(仲章は殺される)、
大江広元がその日に涙が出て止まらず、また、実朝に腹巻をするように進言していた、ということ。アヤシクないだろうか?
それに離れた場所で自害していたにもかかわらず、なぜ白河義典の自害が公暁とかかわりのある事であったことがわかったのか。
そこもアヤシイ。やはり、三河にいて自害したのは公暁だったのではなかろうか。
其のドキリとする所行が他の参列していた人々に公暁であると認識されたのは「親の敵はかく討つぞ」と叫んでいたためと思われるが、皆に即座にそれが公暁だとわかるものだろうか。
義時にはわかっていたのではないだろうか。
誰がどのような行動に出るのかを。だからこそ、義時は避けることもできのではないだろうか。
あらかじめ選ばれた白河義典が公暁役をして「親の仇…」を言いながら暴れまわることを知っていたのではないだろうか?
さらに、公暁(公暁の替え玉であった義典自身)は義時がいては、誰がやったことなのかがバレルであろうという懸念があった。
義時に指示されていたとしても、そのまま逃げおおせれば、、、と思っていたのかもしれない。
つまり、計画をすべて知っていた人物は北条義時であったのではなかろうか?(あるいは計画を練った人物であったか。)
但し、雪が降ることは想定外で、足跡が残ることも想定外であったであろう。
その足跡が残る事、が、義時に指示されて一時の匿い先となった三浦としては嫌な事だったのだろうと思う。
巻き込まれる可能性が大と踏んだのであろうと思う。雪がその計画を台無しにしてしまったのかもしれない。
という事は、公暁はもしかすると首謀者ではなく、「三河」に匿われて、知らぬうちに事が進められ、汚名を着せられた…とも考えられるのではないだろうか?
何も知らぬうら若き白河義典がはめられて公暁のためを思って行動していたはずが、まんまと政略的な渦に巻き込まれて、
大江広元・北条義時の計画に使われたのではあるまいか。
とすると、策謀者に政子も入っているか。
まさか、まさか、の連続なのだが、本日はそのように思ってしまった一日であった。
公暁と白川義典は被害者であったかもしれない。
公暁は義時を仲間と勘違いし、白河義典は公暁の身代わりになることでお役に立ちたいと思い、、、と。
薄暗い雪の日の妄想であり、矢代さんの本を読んでいると、やはりどこかに吾妻鑑の嘘があって、何処かに義時の影が見えるような気がするのである。ドラマの爽やか系の義時ではなく申し訳ないのであるが…義時56歳の時の出来事である。