中原以忠と橘以忠のことは、まだはっきりとはわからないので、検証をしてみようと思う。
【中原兼遠が中原以忠の裔の場合】
中原の有象の従兄弟となる以忠の五代の孫、となると、有象は902年生ー978年没なので、アバウトに考えてみよう。
922年にはじめの息が生まれたとして、20歳ずつ加算していく(幅を持たせて25歳も計算する)
1022年に孫の部分を40年+する。1062年
25歳パターンだと1097年に兼遠が生まれたと思われるが…
詳しく述べると、
各人が平均的に20歳から25歳までの間に息を産んだと仮定し、1062年-1097年あたりに兼遠は生まれたか?なのだが、兼経が九男となることを加算して1100年は越していたと思われ、年代的には合致する。(九男とは限らないが、代々の九かもしれず…)
【中原大江兼遠が橘以忠の裔の場合】は、五代の孫は適用にはならないであろうとし、
広房ー以長ー以忠として、その次に兼経ー兼遠とくる仮定の下で考える。
広房は生年がわからないのだが、匡房(1041年生)の養子として入ったので1061年から1081年と長めに仮定し、広房の孫にあたるので+40年、以忠は1101年から1121年あたりに生まれたことになるかもしれない。(そのあたりで、もう兼遠が生まれていなければならないか…)
兼遠は、どんなに早くても遅くても、だいたい1110年から1130年位に生まれた人物でないと、と思う。
1155年に義仲を預かる時に若すぎてもいけないし、さらに1180年に義仲が出陣した時にまだ生きていた、ので、その時にあまりに年老いていて100歳を超えているようでもいけない。
1123年に源義朝(長男)がいて、次男が義賢である。
1124年に生まれたとし、1155年に歿している。その1155年に義仲は2歳であったという。
義兄弟となった「今井兼平」が1152年生まれ。という事は中原兼遠が乳母夫であった可能性が大。
その時(1152年)に20代から30代と考えられる。
1122-1132年の間位に兼遠がいると考えられる。橘説だと、一代分合わないか?
以忠ー兼遠ならば、合いそうだが。 間に兼経がいると思われるので、、、、
で、この「以忠の裔」の説は、一体どこから出てきたものなのだろうか?
系図あり?
ちょっと探してみようと思う。