昨今、中国では、「習近平による新時代の中国の特色ある社会主義思想」なる思想が、新たなる指導思想として確立しつつあります。同思想は、2018年には憲法にも明記され、今般の教育省の発表によると小学校からの教育課程にあっても必修化されるそうです。また一歩、中国は、習主席による個人独裁に近づいたと言えましょう。ITやAIが国民を全面的に監視し得るようになった今日、『1984年』の世界は、もはや小説の中でのお話ではなくなっているのです。
それでは、習近平思想とはどのようなものかと申しますと、マルクスのような著作があるわけでも、『毛沢東語録』のような小さな語録さえなく、発展、多様化、高度化など、社会・共産主義特有のペダンチックな言葉で飾られた漠然とした思想の集合体のようです。このため、解釈こそが重要であり、例えば、三位一体ならぬ「五位一体」や「四つの全面」といった難解な言葉で説明されています。前者は、’経済建設‘、’政治建設‘、’文化建設‘、’社会建設‘、’生態文明建設‘の5つの‘建設’を一体的推進することであり、後者は、’小康社会の全面的実現‘、’改革の全面的深化‘、’法に基づく国家統治の全面的推進‘、’全面的な厳しい党内統治‘から成る4つの‘全面’を全面的に実現することのようですが、これらの言葉の羅列を聞かされても、具体的な国家像は浮かんではきません。用語や表現の難解さを以って‘高級感’を醸し出し、人々を惑わす典型的な悪文のようにも思えるのですが、鬱蒼と繁った枝葉を切り落としてしまいますと、結局は‘経済政策に対する党中央の集中的・統一的な指導を強化する’、すなわち、共産党をも指導する習主席の独裁体制を強化する、ということなのでしょう。
そして、個人独裁体制の盤石化を目指すに際して、習主席がモデルとしているのは、毛沢東時代であるように見受けられます。全人民から超越した立場にある独裁者が、唯一、権力を独占し、他の人民は全て等しく貧しいという体制です。同体制を再構築するためか、習主席は、「共同富裕」をスローガンに掲げるようになりました。平等という価値を絶対視してきた共産主義国家にあって、初めて貧富の格差を是認したと解される鄧小平氏の「先富論」からしますと、180度の転換のようにも見えます。しかしながら、同氏が始めた改革開放路線というものが、中国の統制経済のシステムを根底から改変してしまった点を考慮しますと、中国の脱資本主義は、極めて困難となるのではないかと思うのです。
その理由は、習主席を含めた共産党上部こそ、改革開放後の中国にあって、民間企業を含めた大半の有力企業の個人大株主となっているからです。最近放映されたミャンマー情勢に関する番組でも、ミャンマー企業の大株主は軍部の上部であり、莫大な配当を受けている実態が暴かれていましたが、中国共産党も、まさしく同国の軍部と同様の立場にあります。仮に、習独裁体制の下で共産党の指導力が強化されるとしますと、その意味するところは、国営や公営化への回帰や上海や香港などの株式市場の閉鎖ではなく、民間株式、あるいは、民間資本のさらなる共産党幹部、あるいは、独裁者個人への集中を意味するかもしれません(因みに、北朝鮮の金一族も、キューバのカストロ一族も、世界有数の資産家です…)。
そして、目下、習主席は、「共同富裕」を唱えています。貧富の格差拡大が留まるところをしらない現状からしますと、共に豊かになろうと訴える同方針は、国民受けの良い政策かもしれません。しかしながら、その具体的手法が富裕層による寄付である点を考慮しますと、独裁的な地位にある同主席でさえ、自らを含めた共産党幹部が保有する’株式利権’に踏み込むことができないという、改革の限界を表しているように思えます。既得権を共有してきた共産党員の離反を招くかもしれませんし、中国共産党と雖も必ずしも一枚岩ではありませんので、江沢民氏が率いる上海閥などから激しい抵抗や反発を受ける可能性もあるからです。このため、結局、所得移転の強化でもなく、’富裕税’の導入でもなく、アメリカといった自由主義国の富裕層も好んで用いている’寄付’といった’ソフトな方法’しか提案できなかったのでしょう。自らの個人的な資産を護るためにも…。
習近平思想は、’人民を中心とする発展思想を堅持する‘という方針にあるそうですが、その本質は独裁体制の強化にありますので、まさしく『1984年』で描かれているダブル・シンキングに他なりません。同思想に散見される’発展‘も、共産党一党独裁体制が続く限り、現実にあっては’衰退‘となるのでしょう。そして、習主席の目指す表向きの’脱資本主義‘とは、特権的な独裁者や少数者による資本の私的独占という資本主義の極致であるのかもしれないと思うのです。すなわち、社会・共産主義諸国が、これまで資本主義諸国に対して非難し続けてきた資本主義の欠点である少数者による資本の私的独占を体現した社会こそが、習近平思想の行き着く先となるのではないでしょうか。