第二次世界大戦後、欧米列強によって植民地化されてきたアジア・アフリカ諸国が相次いで独立を果たし、今日、植民地主義は過去のものとなったはずでした。しかしながら、グローバリズムは否が応でも全世界に押し寄せる今日、それは、植民地主義を蘇らせているように思えます。
日本国も例外ではなく、’新たな植民地主義’とは、’開国’や’対日投資の促進’という美名によって飾られています。かつて民主党政権にあって菅直人首相が’第二の開国論’を展開しましたが、日本国内の市場を海外に開放するという基本方針は、その後、安倍長期政権にあっても引き継がれることとなりました。新自由主義に基づく政策が目白押しとなり、あれよあれよという間に、他の諸国にあっても移民受け入れ政策が現実のものとなり、労働市場も開放されるに至ったのです。菅義偉首相の師が竹中平蔵氏であるとする説も、その政策を見れば一目瞭然と言えましょう(アトキンスの起用も…)。
それでは、開国とは、それほど素晴らしいことなのでしょうか。政治家が熱心に開国や対日投資の促進を訴える時、多くの国民は、国民に益する政策であると勘違いする傾向にあります。しかしながら、古来、’開城’、すなわち、城門を開ける行為とは、敵方に対して自国をあけ渡す行為を意味しており、もはや抵抗の手段を失った状態を言います。それでは、軍事的や政治的な意味における開城と、経済的な意味における開国とは、一体、どこが違っているのでしょうか。
新自由主義者やグローバリストは、各国による経済的開国は、世界が一つの市場に統合されるために必要とされるプロセスであり、最適な水平・垂直の分業体制が世界レベルで実現すると共に、多様な要素が混じり合うことで画期的なイノベーションも生まれると力説しています。各国による自国市場の全面的な開放とデジタル化が重なれば、世界が一つの市場となることも夢ではないと…。しかしながら、掲げられた理想郷は、厳しい現実を糊塗するためのカモフラージュなのかもしれません。何故ならば、国内市場が、海外資本やグローバル企業、さらには、外国人労働者によって自国が占領されてしまうケースも少なくないからです。グローバル化とは、希少性の相違によって交換による相互利益が生じる貿易とは異なり、一方的な流入を伴うからです(諸国間の格差は、高い方から低い方へと流れる水流と同様に一方的に流れてしまう…)。過去の植民地主義にあって被支配地とされたのはアジア・アフリカといった途上国でしたが、新しい植民地主義では、先進国もまた植民地主義の脅威に晒されていると言えましょう。
今般の自民党総裁選挙、即ち、事実上の日本国の首相選出の選挙にあって、対日投資の促進を’公約’として掲げる候補者の姿も見受けられます。日本国は、世界第一の債権国でありながら、何故、政治家は、自国市場の開放、並びに、チャイナ・マネーを含む海外資本、海外事業者そして海外労働者等の国内への呼び込みに熱心なのか、日本国民は、よくよく考えてみる必要がありそうなのです。