万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

アヘン戦争と明治維新-世界戦略の問題

2021年10月22日 12時36分32秒 | 国際政治

 日本国の明治維新は、1840年6月に始まるアヘン戦争の凡そ30年後に起きています。凡そ30年の隔たりがあるため、両者の関係は、イギリスの’帝国主義’が幕末の動乱の契機をもたらしたとする見解はあっても、明治維新は、あくまでも維新の志士達が日本国の植民地化を防ぐために独自に成し遂げた偉業として語られてきました。しかしながら、明治維新とは、イギリス、あるいは、それを背後から動かした勢力による’世界戦略’の理解を抜きにしては真の姿を知ることはできないのではないかと思うのです。

 

 19世紀とは、イギリス、あるいは、世界勢力が積極的にアジアへの進出を図った時期に当たり、長崎港にオランダ船を装ってイギリス海軍のフリゲート艦が侵入したフェートン号事件が起きたのも1808年10月のことです。その後、幕府は、1825年に異国船打払令を発するものの、アヘン戦争と時を同じくする1842年には、「天保の薪水給与令」を発令して開国の方向に舵を切り替えています。アヘン戦争が、間接的に日本国の所謂‘鎖国政策’を転換させたとも解されるのですが、もう一つ、注意を払うべきは、アヘン戦争と明治維新とでは、‘影のマスター’が同じではなかったのか、という点です。

 

 1839年3月10日に広東に着任した清国の林則徐は、イギリス系商人、並びに、清国の公行商人に対して三日以内のアヘンの没収、並びに、アヘン取引永久放棄の誓約書の提出を求め(持ち込めば死刑…)、徹底したアヘンの取り締まりを行います。この間、同命令に応じて広東の虎門において清国側に引き渡されたアヘンの量は20283箱に上り、時価にして240万ポンドに当たるそうです。そして、驚くべきことに、そのうちの3分の1がジャーディン・マセソン協会のものであったというのです。言い換えますと、アヘン貿易の’ドン’とも言える存在こそが、ウィリアム・ジャーディンその人であったのです。同氏は、林則徐の到着を前にして本国イギリスに帰国し、本国政界、並びに、パーマーストン外相にアヘン戦争に向けた準備に奔走したことは、先日、本ブログで触れたとおりです。

 

 かくしてアヘン戦争は、アヘン商人の利益保護のために行われたとする側面を持つのですが、凡そ30年後の日本国の明治維新にあっても、ジャーディン・マセソン協会は重要な役割を果たしています。維新の志士とされた’長州ファイブ’( 井上聞多、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔、野村弥吉)は、同商会のサポートの下でイギリスに密留学しています。因みに、先に帰国した伊藤と井上は、下関戦争にあって長州藩とイギリスとの間の講和交渉役を務めています。この人脈からしますと、その後の明治維新にありましても、アヘン商人の利益、否、グローバル勢力のシンジケートが介在しないはずもありません。日本国の本格的な中央集権型の国家体制の転換と開国は、麻薬シンジケートをも含むイギリス系グローバル勢力の’世界戦略’の一環であったとみる方が自然な解釈であるように思えるのです。そして、その後の李氏朝鮮の開国を実現した日清戦争、並びに、帝政ロシアの南下政策を阻止した日露戦争も、同文脈にあって見直す必要があるのかもしれません。

 

 なお、ジャーディン・マセソン商会がアヘン事業で巨万の富を築いた麻薬事業者であったことは、グローバル勢力とは、必ずしも道徳や倫理を基準として行動するわけではないことを示しています。同商会は、1870年にはアヘン事業から足を洗っているものの(グローバル勢力は、日本国を絹糸の生産地に定めたらしい…)、満州国において麻薬疑惑が根強く囁かれるのも、あるいは、幕末から続く麻薬シンジケートが関連しているのかもしれません。また、今日、秋篠宮家の婚姻問題が皇室を揺さぶっておりますが、明治期に誕生した近代皇室と云うものの存在にも影を落としていると言えましょう。明治天皇以来の歴代天皇は、英王室を支えるガーター騎士団の団員でもあります。歴史の深層の探求は、今日の問題をも解決する上で避けて通ることはできないように思えるのです。


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