万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

戦争放棄論者は努力の方向性が間違っているのでは?

2021年10月12日 15時54分39秒 | 国際政治

 戦後直後の1946年11月3日に日本国憲法が公布されて以来、日本国内では’九条信者’なる人々が平和運動を行ってきました。これらの平和主義者の人々は、’戦争は要らない、軍隊も要らない’と叫び、憲法第9条の条文を無条件放棄論として解釈してそれを実現しようと訴えてきたのです。その熱意には驚かされるばかりなのですが、よく考えても見ますと、努力の方向性が間違っているように思えるのです。

 

 戦争そのもの、即ち、軍隊の放棄は一見しますと平和に貢献しているように見えます。戦争やそれを遂行する手段が消滅すれば、自ずと平和が訪れるようにも思えるからです。しかしながら、パワー・バランスというものに注目しますと、一国による戦争や戦力の放棄による力の空白の出現は、むしろ、均衡状態がもたらしていた平和を崩してしまうリスクがあります。拡張主義的な国が近隣に存在していますと、同空白を埋めるかのように軍事的な侵攻を受ける可能性が高まるのです。日本国の平和は、憲法第9条ではなく、自衛隊、並びに、日米同盟のよってもたらされたとする説は、まさにこのパワー・バランス論に基づいています。

 

 このように戦争放棄論とは、その実、戦争のリスクを内在させており、一つ間違えますと、戦争放棄論者は侵略者の手先になりかねない立場にあります。このため、’九条信者’の人々は、たとえ平和の実現という崇高な理想を掲げていても、一般の人々からは警戒される存在であったと言えましょう(平和主義者を装った敵国の’回し者’かもしれない…)。そして、こうした戦争放棄と平和との間の危うい関係に加えて、戦争放棄論者には、深刻な思考停止という問題を抱えているように思えます。

 

 真に平和を実現しようとするならば、実を申しますと、戦争の放棄よりも平和的な解決手段の整備の方が遥かに効果的です。今日にあっては、個々人の間で争いごとが起きたとしても、それを力で解決する国は殆ど存在していません。決闘や果し合いによる解決は、遠い過去のものとなり、現代の統治システムでは、争いごとは裁判所等を介した司法解決が制度化されています。国家レベルと同様に、国際社会にありましても、戦争を真になくそうとするならば、先ずもって平和主義者が努力を傾けるべきは国際レベルでの司法制度の整備であると言えましょう。つまり、紛争の平和的な解決手段が制度として備わっていれば、人類は、戦争に訴えなくとも国家間の争いを解決に導くことができるのです。

 

 例えば、国際司法裁判所の訴訟手続きを見ても、当事国の合意を要します。このため、明らかに国際法違反の行為であっても、被害国は、単独で訴訟を起こすことができません(竹島問題も解決できない…)。また、領有権確認訴訟の形態が実現すれば(もっとも、現行の制度でも、常設仲裁裁判所では可能かもしれない…)、尖閣諸島問題も平和裏に解決することできます。また、グローバル化した時代にあっては、テロ組織や国際犯罪組織などの非国家主体をも国際法廷において裁く仕組みが必要となりましょう。

 

 この観点からしますと、平和主義者が内外に対して積極的に訴えるべきは、国際レベルにおける平和的な紛争の解決手段を可能とする司法制度の拡充であるはずです。平和的な解決手段が整っていない状況下における戦争の放棄は、無責任、かつ、危険に満ちた主張であるのですから(この点、核兵器禁止条約などにも同様の欺瞞が見られる…)。九条信者を含め、平和主義者の方々には、早くに思考停止の状態から脱却し、努力の方向性を修正していただきたいと思うのです。


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