万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

米価高騰とグローバリズム

2025年02月06日 11時58分18秒 | 日本政治
 国産米価格の高騰が続く中、グローバリズムの時代なのだから、時代の変化として受け入れるべきとする擁護論も聞えてきます。お米市場が自由化された結果であり、この現状を受入れ、海外から安価なお米を輸入すればよい、というのです。おそらく、農政改革を訴えるグローバリストの政治家の多くも、この路線で改革を推進したいのでしょう。しかしながら、グローバリズムを帝国主義や植民地主義という言葉に置き換えてみますと、この擁護論が如何に危ういものであるかが容易に理解されます。

 古代ローマ帝国は、今日に至るまで様々な学ぶべき教訓を人類に与えています。現代に生きる人々が反面教師とすべき教訓の一つが、‘パンとサーカス’です。肥沃なナイルのデルタ地帯に広大な穀倉地帯が広がるエジプトを征服したことで、イタリア半島には大量の安価な穀物が流入します。この結果、質実剛健で知られ、自らの土地で自立的に農業を営んできた多くのローマ市民達は、安価な輸入穀物に耐えられず、農地を手放さざるを得なくなります。大量の浮浪者が出現して都市に流れ込んでくるのですが、これらの困窮民に対する“施し”の政策として歴代皇帝が実施したのが‘パンとサーカス’であったのです。つまり、無償でパンを配りつつ、持て余している時間を消費させるために、コロッセウム等で娯楽となる様々なショーを提供したのです。帝国側としては、これらの持たざる人々の現状に対する不満が爆発し、反乱が起きることを恐れていたのでしょう。また、古代ローマには奴隷制があり、当時、一人で1万人もの奴隷を抱える権勢家もいたとされますので、その著しい格差には驚かされます。債務奴隷もあり得ましたので、借金で市民権をも失った人々は、奴隷となるしかなかったのかもしれません。かくしてローマ帝国が征服した地にも、大勢の奴隷を使役する大規模なプランテーションが出現するようになるのです。

 古代ローマ帝国の事例は、安価に生産し得る地域がある場合、国境なき広域的な‘もの’、すなわち主食用穀物の自由移動がより規模の小さな自営農業を壊滅させてしまうメカニズムを端的に説明しています。古代ローマ帝国の場合には、軍事的な征服によって“国境”が消滅しましたが、今日では、規模の経済において優位性を有する勢力が推し進めているグローバリズムという経済的潮流が、無血開城の如くに国境を消し去ろうとしています。ローマ帝国と同様の事態が絶対に起きないと言い切れるのでしょうか。

 また、大航海時代以降にあっても、悪しき教訓を大英帝国が示しています。逸早く産業革命を成し遂げ、工場における機械生産によって圧倒的な輸出競争力を獲得したイギリスは、繊維をはじめ安価な消費財を大量に輸出するようになります。英東インド会社が植民地化した地域は、安価なイギリス製品の消費地ともなるのですが、この結果も、自由貿易主義が主張する互恵的なものではなかったことは言うまでもありません。インドでは、農村にあって手織物を生業としてきた人々が職を失い、至る所で白骨街道が出現したとも伝わります。インドのみならず、他のアジア・アフリカの各地でも、伝統的な農村社会が消滅する一方で、本国の事業家が様々な輸出用の商品作物を栽培経営し、現地の人々が半ば強制的に労働を強いられる大規模なプランテーションが建設されてゆくのです。もちろん、高級品は本国や海外の富裕層に向かい、現地の人々の食卓や生活を潤すことはなかったのです。

 これらの事例は、国際競争力において劣位する場合、国境の消滅は、その国の産業に対して破壊的な作用を及ぼすことを、歴史的な事実として示しています。歴史の鏡に照らして見ますと、相互互恵を描くリカードの比較優位説による自由貿易論は現実を説明してはいません。当時のイギリスの自由貿易政策を正当化し、負の側面から人々の目を逸らさせるために一部を切り取って美化した‘プロモーション理論’であったとも考えられましょう。しかも、グローバルな時代とされる今日においてさえ、‘国境なき世界市場’が全ての人々に恩恵をもたらすことを、論理的、かつ、万民が納得する説明力を有する理論が出現しておらず、未だにリカードの理論に頼っている現状を見れば、‘推して知るべし’なのです(なお、現代ではヘクシャー・オリーンモデル等はあるが、同様の批判を受けている・・・)。

 もっとも、グローバリズムを礼賛する人々は、なおも日本国から農業が消えても、農家以外の一般の国民は、割高な国産に代えて安価な輸入穀物を購入することができるのだから、何らの問題はないとする反論もありましょう。しかしながら、海外から輸入するとなりますと、外貨による決済、即ち、支払いが必要であることを考慮していないように思えます。外貨が国内で足りなければ無尽蔵に輸入ができるわけではないのです。そして、この貿易決済に要する決済通貨、並びに、異なる通貨間の価値評価の問題にこそ、リカードの説の欠落部分であったことは注目に価するのです。(つづく)。

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