1947年12月パレスチナ分割決議には、アラブ人並びにユダヤ人の双方が建国した二つの国家による経済同盟が組み込まれていたことは、‘カナン’の土地を分けてもらったユダヤ人によるアラブ人定住民に対する償いの意味が込められていたのかもしれません。同経済同盟が実現すれば、共通予算からのアラブ国家に対する多額の財政支出、すなわち、事実上のユダヤ人国家からアラブ人国家への財政移転が見込まれたからです。その一方で、もう一つ、考えるべきは、意図的に敢えて経済同盟という共通政策を伴う枠組みを設けたのか、否か、という点です。
仮に、パレスチナの地に住んできた定住アラブの人々に対して土地の取得に伴う償いを行なうのであれば、敢えて経済同盟の形態を選択する必要性はそれ程には高くはないはずです。土地の取得代金あるいは立ち退き料等の名目において、双方が合意できる額を算定し、ユダヤ国家側がアラブ国家側に対して直接に補償金を支払うといった方法もあったはずです。むしろ、将来的な損得が不明瞭な経済同盟よりも、はっきりと補償額が確定し、法的な精算が済む方法の方が、両国民のわだかまりや怨恨も薄らいだことでしょう。少なくとも、今日のように、イスラエルが、償いどころか逆に一方的に定住アラブ人の人々に対して事実上の‘略奪’や‘侵略’を繰り返すことはなかったはずなのです。
それでは、何故、経済同盟という、誰もがその目的を明確に理解することが難しい‘回りくどい’方法が採られたのでしょうか。その理由として推測されるのは、同構想を策定した人あるいはグループは、両国の将来的な統合を目指していたのではないか、というものです。それ故に、両国を完全に二つの独立国家としてセパレートするのではなく、経済同盟という単一の枠組みでカバーしたとも推測されるのです。
そもそも、経済同盟に含まれる関税同盟は、政治的統合の前段階として認識されてきた歴史があります。1871年のドイツ帝国誕生に先だって結成されたドイツ関税同盟はその典型例であり、経済的な国境の消滅が、決定要件とまでは言えないまでも、幾つもの領邦国家や自治都市に分裂していたドイツを一つの国家にまとめ上げる環境を提供したことになります。そして、今日のEUについても、その出発点を振り返ってみますと、石炭と鉄鋼分野に限定されたECSC及びその拡大版となるEECの発足当初から、将来的にはヨーロッパ統合が構想されていたことが分かります。理論の世界にあっても、50年代後半以降には、エルンスト・B. ハースなどが唱えた一部の政策統合が隣接する政策領域を巻き込みながら、自ずと政治統合をもたらすとするスピルオーヴァー説が一世を風靡した時代もあったのです(新機能主義・・・)。
こうした関税同盟から統一国家へ、あるいは、一部の政策統合が自動的に政治統合に至るとする発想が既に戦前から存在していたとすれば(1930年代には、デヴィッド・ミトラニィーによって機能主義が提唱されている・・・)、パレスチナ分割決議に見られる経済同盟においても、ゆくゆく先での両国統合への期待が込められていたとする推測は、強ち間違ってはいないように思えます。そして、その出現を予定されていた統一国家は、今日のドイツと同様に基本的には連邦制を採用しつつも、その主導権は、ユダヤ人国家が握るというものであったのかもしれません。平和裏にカナンの地全域をユダヤ人の土地とすることが、経済同盟の真意であるかも知れないのです(つづく)。