複数政党制は普通選挙と一体化した議会制民主主義のシステムであるために、民主主義国家のメルクマールともされています。1989年にポーランドから始まった東欧革命に際しても、一党独裁体制から複数政党制への移行が体制移行の証ともされました(経済においては統制経済から市場経済へ…)。政治の世界では、政党政治はあまりにも当然視されていたがゆえに、政党という存在に内在しているリスクについては十分に検証されてこなかったように思えます。
例えば、政党という用語には近代民主主義的な響きがあるために、’政党のマジック’というものが存在しているようです。ここで言う’政党のマジック’とは、古今東西を問わず、人類史において繰り返されてきた国家権力をめぐる武装集団、派閥、あるいは勢力間の闘争が、’政党’という名称が冠されることで、あたかも近代的な政治運動のように見なされてしまう現象を意味します。実態と本質は従来の集団間の権力争いと変わらないのに、政党と名称で呼ばれた途端、近代性や合理性を装うことができるのです。’政党’とは、まさに、魔法の杖の一振りなのです。
共産党とは、‘政党マジック’が最も魔力を発揮した事例であるかもしれません。何故ならば、政党と称されつつも、その実態はと申しますと、革命という名の国家権力の奪取を目的として結成された武装集団に過ぎないからです。近代中国にあっては、共産党であれ、国民党であれ、古来の王朝交代に際してその主体となった軍閥や軍団、あるいは宗教集団等と変わりはなく、違いがあるとすれば、共産主義という外来の思想を求心力としている、あるいは、海外勢力との結びつきが認められるといった点にありましょう。否、両党ともイデオロギーや政治信条において海外勢力が介在している側面において、古来の異民族による征服とも変わらないのかもしれないのです。そして、歴代中華帝国、否、全ての王朝というものは、君主や一部の勢力が権力を独占し、以後、他の対抗勢力の出現を一切許さないという意味においてその殆どが独裁体制なのです。
ドイツのナチスやイタリアのファシスト党にあっては、より巧妙に‘政党マジック’が用いられています。議会制民主主義と軌を一にする歩みがあるからこそ、権力の独占を狙う団体であっても、政党を自称することで独裁志向をカモフラージュできるからです。普通選挙が実施されている限り、国民の多くは、独裁志向の政党を見抜くことは困難です。仮に、国家社会主義労働者党という看板を掲げたナチスが、他の政党の違法化や自らの政権による独裁体制の樹立を公約に掲げて選挙に臨む、あるいは、親衛隊やヒトラー・ユーゲント等を放って国民社会に同調圧力をかけなければ、当時にあって最も民主的体制との評を受けていたヴァイマール共和国を独裁体制に転換させることはできなかったことでしょう。政党は、時にして独裁体制への道を堂々と走り得る‘乗り物’となるのです。‘政党マジック’の呪文を唱えれば…。
空気のような存在については、得てして人は関心を払わないものです。政党という存在についても、それ自体がリスクを抱えているとは、国民の多くも気が付かなかいことでしょう。複数政党制であれ、一党独裁制であれ、政党政治が民主主義と不調和音をきたしている現実を直視すれば、政党という存在、並びに、政党政治を根本的に問い直してみる必要があるように思えます。民主主義を名実ともに実現する、即ち、政治を国民の手に取り戻すには、‘魔法(呪い?)’を解かなければならないのですから。