今月27日に予定されている安部元首相の国葬については、批判的な世論が大半占めることとなりました。保守系の論者からは、反対多数の世論調査の結果は、それを実施したメディア各社による操作が加えられており、実際に反対しているのは、かねてより安部政治を糾弾してきた一部の左翼系の人々に過ぎないとする意見も聞かれます。しかしながら、今般の反対は、反日カルト教団で知られる世界平和統一家庭連合(元統一教会)との繋がりに起因しているだけに、むしろ、賛成の回答を水増ししている疑いさえあります(岸田政権に対する支持率にも同様の疑いが・・・)。国葬擁護論を張っている論者や識者も、安部元首相と同様に元統一教会から支援を受けていた偽装保守なのかもしれず、本一件で保守派が受けたダメージはそれが根深いだけに相当に深刻となる気配もいたします。
こうした中、日本国民の世論が反対に大きく振れたことを嘆いてか、駐日ジョージア大使のティムラズ・レジャバ氏がツイッターにて「たったひとりでも国外からの来賓があるならば、国民が一丸となって対応することが日本の懐ではないのでしょうか。」と呟く一幕もありました。同氏の発言に賛同する意見もないわけではないのですが、‘国民一丸’という表現に、引いてしまった国民も少なくないのではないかと思います。何故ならば、‘国民一丸’という言葉は、日本国民に先の戦争を思い出させることとなるからです。
ジョージア(旧グルジア)は、今日にあっては独立を回復したとはいえ、第二次世界大戦後、長らくソ連邦に組み込まれていた国です。このため、未だに全体主義に対する親和性が高く、‘国民一丸’という言葉も自然に口から出てきたのかもしれません。しかしながら、日本国民には、政府やメディアによる‘国民一丸’のかけ声の下で国民が一致団結して敵国に挑み、戦時の物資不足の中で窮乏生活を耐え忍んだものの、力及ばず敗戦した苦い経験があります。国民が一丸となることは、国家存亡の危機に直面した際には必要とはされるのですが、その結果については、必ずしも良いものと保障されないこともよく分かっているのです(そもそも、‘世界権力’によって世界大戦が誘導されたとする疑いもある・・・)。むしろ、駐日ジョージア大使に煽られている感すらあります。
しかも、同大使が日本国民が‘国民一丸’となるべきと考えたのは、日本国の防衛や安全保障上の理由ではなく、海外からの参列者に対する‘おもてなし’というものです。外部の敵に対して団結せよではなく、外部の賓客を不快にしてはならない、つまり、不満があっても黙って飲み込むようにと、客人に対するもてなす側の心得を説いているのです。ユーラシア大陸の中央部の草原を駈けてきた遊牧民族の間では、家族を挙げて客人を歓待する慣習がありますので、ジョージア大使も自らの‘常識’を述べたに過ぎないのかもしれません。しかしながら、以下の点から、対外的な礼儀を理由として国民一丸となるように求めるその感覚に、強い違和感を抱かざるを得ないのです。
第一に、世界平和統一家庭連合という異質性の高いカルトと癒着していた安部元首相に対して強い身内意識を持つ日本国民はそれ程多くはないかもしれません。今般の一連の事件に対しては、日本国民の多くは、比較的客観的、かつ、距離を置きながら見つめています(感情移入している人は少ないのでは・・・)。しかも、韓国系反日カルト教団が関わる問題なのですから、自民党議員からも国賊発言が飛び出したように、純粋に日本国の、そして日本国民のために尽くした政治家であるのか、多くの国民が疑っているのです(むしろ、外部者の立場から国民を騙そうとしたのでは?)。
第二に、対外的な礼節については、岸田首相も、国葬を二日後に控えて25日に「国葬が敬意と弔意に満ち、各国への礼節を尽くし、わが国への信頼を高めるものになるよう全力を尽くしたい」と述べています。この発言からは、安部元首相の国葬を自らの重要な‘外交の舞台(弔問外交)’として位置づけたい岸田首相の願望も読み取れます。それ故に、国民に対して、自身の面子を潰すような‘目障り’な反対運動を控え、海外の賓客を迎えた国家的儀式としての体裁を整えるように国葬に協力するよう求めているのでしょう。こうした岸田首相とレジャバ大使の先の発言とを考え合わせますと、日本国民が内外から圧力をかけられる構図にも見えてきます。それは、‘国民一丸となって外国人をもてなしなさい’という同調圧力でもあります(この発想、先の東京オリンピックにも見られ、どこか世界平和統一家庭連合を思わせる・・・)。
そして第三に、弔意の強制が個人の内面の自由を侵害するものとして問題視されたように、‘国民一丸’という言葉は、明らかに思考の統制を含意します。反対デモを繰り広げている人々は極一部の活動家であり、大多数の一般国民にとりましては、安部元首相の国葬は内面の問題なのですから。このため、7割以上が国葬反対とされる世論にあって、‘国民一丸’を求めるのは、ジョージア大使がジョージアという国を代表して日本国民に対して、心を一つにして弔意を表すように求めているに等しいのです(なお、反対意見が少数派であっても思考統制には変わりはない・・・)。しかも、国葬は既に日本国内にあって政治問題化していますので、内政干渉ともなりかねません。
内心において反対していても、客人がいる前で内紛を見せるのは大人げない、あるいは、世間一般的な礼儀に反するとする反論もあることでしょう(確かに、来客の前で家族内での内輪もめは見せるのは見苦しい・・・)。しかしながら、この問題が政教分離の原則に関わる重大な政治問題であると共に、国葬の法的根拠を問う法律問題でもあり、かつ、新興宗教団体による反社会的活動をも問題領域に含んでいる以上、国家を家族に擬えた‘国家家族論’での国民に対する批判封じは、自由や民主主義といった諸価値が定着している現代という時代にあっては時代錯誤のように思えます。また、同大使の発言の威を借りて国葬に反対する一般の国民を‘非国民’扱いする保守?の人々にも、世界平和統一家庭連合との関係を事実として直視できない、倒錯したカルト的思考傾向が窺えるのです(もしかしますと、信者たちかもしれない・・・)。結局、日本国の世論を誘導しようとしながら、レジャバ大使、並びに、岸田首相の発言は逆効果となり、国葬反対の世論をむしろ強めてしまったのではないかと思うのです。