阪神大震災から今日は20年の日になりました。
6434名の尊い犠牲者を忘れないように
鉄ちゃん爺やも早朝に黙祷させて頂きました。
当時の画像を復元して今回のブログとさせて頂きます。
(近鉄南大阪線 阿倍野橋行き 急行電車)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
鉄ちゃん爺やは出勤の為に整髪中の地震でしたな。
我が家では震度4ぐらいだったから久しぶりに
大きな地震だとか云いながら朝食を何時も通り。
テレビではまだ6時のニュースでは普通の番組。
放送局玄関のガラスが割れたとかのニュース。
たいしたことは無いだろうとスタートしましたんや。
6時44分発の近鉄電車は平常より12分遅れで発車。
まだ神戸市などで壊滅的な被害が出ているとは
この時点で鉄ちゃん爺やは知りまへんでしたな。
あの朝はJR西日本も地下鉄も近鉄以外の私鉄が
全面的にストップし復旧の見込みも目下なし。
地下鉄が止っているのじゃ動けまへんがな。
通勤客は困惑して駅構内で大混雑になりましたわ。
阿倍野橋駅から仕方がないので徒歩で難波駅へ。
歩いていて日本橋辺りの電気店のテレビで大きな被害が
神戸市を中心に出ていて死者も出ていると初めて確認。
(阪神高速 神戸線 崩壊した支柱)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
難波駅から東大阪市まで近鉄電車で出てから
地元のタクシー会社に飛び込んだような次第。
タクシー会社でも出勤する乗務員が少なくて
10分ほど待っても乗務員は現れまへんがな。
管理職の方が代わりに運転しまひょと云う事に。
タクシーで勤務先の摂津市へ向かう車中で死者が
最初の5名からどんどん増えて120名を超えたとの事。
会社へ出勤したらAM11時少し前の大遅刻ですわ。
でも出勤してるのは地元の社員ばかりで
大阪市内や府下の社員では私が一番乗りだった感じ。
当時は携帯電話を持っている社員は1~2名ぐらい
鉄ちゃん爺やも携帯電話なんか持ってまへんで。
神戸市内の得意先や我が社の営業所とも連絡不能で
安否の確認ができ死者なしが判明したのは翌朝でした。
(神戸市 三菱銀行の店舗ビル崩壊)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
(当日の夕刊 平成7年1月17日発行)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
大混乱は翌日の1月18日が笑い話のような事態に。
何せ神戸を通過する国道は全てが通行不能ちゅうことでした。
朝4時に我が社をスタートしたトラックが姫路市へ向かうのに
AM9時現在は大阪府の池田市を通過中で三田市か能勢町を
経由して西脇市へ迂回して姫路市に向かうとの電話。
午後1時を過ぎた所で確認したらまだ宝塚市を抜けた所との事。
ここで諦めて本日は戻って来るようにと指令をだすはめに。
何せ神戸より先へ向かうルートが分からず大混乱の物流でしたな。
でも~ さすがわプロでっせ3日後には能勢町から福知山を通り
姫路や岡山へ抜けるコースが一番早いと情報が入りましたんや。
次の画像は大震災から5日後の神戸市へ入った時に
鉄ちゃん爺やが使い捨てカメラで写した画像でっせ。
(阪神電鉄 深江駅前の 倒壊家屋)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
多くの方が亡くなった被災地で写真を写すのは不謹慎で
隠しながら人目を気にしながら写した画像でおます。
次の画像は年配の方ならテレビや新聞で一度は見たかも。
阪神大震災で一番衝撃を受けた画像やと記憶します。
(阪神高速道路 崩落した路面と観光バス)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
東日本大震災では2万名を超える死者・行方不明者を出しましたが
殆んどの方が大津波による被害で命を亡くされたと聞き及びます。
こちら阪神大震災では6434名の犠牲者の大半が倒壊した家屋や
火災による死者と云う点で大きな違いがありましたね。
でも阪神大震災は神戸市を中心とする狭い地域に被害が集中し
後背地の大阪府を始め関西各地からの救援が可能でした。
阪神大震災から約5年ぐらいで神戸市を中心にした被災地が
復興したのは、やはり大阪府の存在が大きかったかも。
確かに東日本大震災は阪神大震災と比較ができないぐらい
大きな災害でしたが、何故か遅れが目立つ気もしますんやけど。
私事で申し訳ないんですが。
鉄ちゃん爺やの会社でもH社の依頼で摂津市の私の担当する
営業所から48000戸の仮設住宅に供給するユニットバスの
およそ半分近い23000個を送りこみましたんや。
約半年間ぐらいは損得抜きで戦場のような修羅場でしたな。
何せ大型トラックで午前中に到着した部材を夕方には工事班を
決めて2トン車に宵積みし翌朝8時には現地に届ける。
言葉では簡単ですが1日でも早く仮設住宅を完成させるべく
綱渡りのような作業班と物流部門の仕事だったんですよ。
一つ間違えば数箇所の工事予定がストップしますからね。
本業でもないのにH社が国家的な災害に対して工場が
全力で対応したのはあまり知られてまへんな。
大手のPA社・TO社・IN社などは高級品志向でこの
国家的災害にも消極的な対応しかしなかったことを
私のブログから発信しておきまひょ。
この仕事が完了した翌年に鉄ちゃん爺やがH社の首都圏支社から
依頼されて関東へ単身赴任する事になったのは皮肉なことですわ。
だから阪神大震災が無ければ鉄ちゃん爺やの関東への転勤も
無かったという事になりまっかな。
(平成7年大相撲初場所 11日目取組)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
20年前も両国の国技館では大相撲初場所をやってましたね。
若貴兄弟に曙と武蔵丸と横綱は4人も揃っていたんだ。
相撲解説者の舞の海さんが結びで貴乃花と対戦してまっせ。
もう幕内では20年も昔だから全て引退してはりまっけど。
ちなみにこの初場所の優勝者は横綱・貴乃花関だったそうです。
最後に阪神大震災で亡くなられた方やご遺族の皆さまに
哀悼の意を捧げながらお仕舞いにしまひょ。
道頓堀のお話しは都合により次回にさせて頂きましたよ。
ほんなら~ これで、さいなら~
6434名の尊い犠牲者を忘れないように
鉄ちゃん爺やも早朝に黙祷させて頂きました。
当時の画像を復元して今回のブログとさせて頂きます。
(近鉄南大阪線 阿倍野橋行き 急行電車)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
鉄ちゃん爺やは出勤の為に整髪中の地震でしたな。
我が家では震度4ぐらいだったから久しぶりに
大きな地震だとか云いながら朝食を何時も通り。
テレビではまだ6時のニュースでは普通の番組。
放送局玄関のガラスが割れたとかのニュース。
たいしたことは無いだろうとスタートしましたんや。
6時44分発の近鉄電車は平常より12分遅れで発車。
まだ神戸市などで壊滅的な被害が出ているとは
この時点で鉄ちゃん爺やは知りまへんでしたな。
あの朝はJR西日本も地下鉄も近鉄以外の私鉄が
全面的にストップし復旧の見込みも目下なし。
地下鉄が止っているのじゃ動けまへんがな。
通勤客は困惑して駅構内で大混雑になりましたわ。
阿倍野橋駅から仕方がないので徒歩で難波駅へ。
歩いていて日本橋辺りの電気店のテレビで大きな被害が
神戸市を中心に出ていて死者も出ていると初めて確認。
(阪神高速 神戸線 崩壊した支柱)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
難波駅から東大阪市まで近鉄電車で出てから
地元のタクシー会社に飛び込んだような次第。
タクシー会社でも出勤する乗務員が少なくて
10分ほど待っても乗務員は現れまへんがな。
管理職の方が代わりに運転しまひょと云う事に。
タクシーで勤務先の摂津市へ向かう車中で死者が
最初の5名からどんどん増えて120名を超えたとの事。
会社へ出勤したらAM11時少し前の大遅刻ですわ。
でも出勤してるのは地元の社員ばかりで
大阪市内や府下の社員では私が一番乗りだった感じ。
当時は携帯電話を持っている社員は1~2名ぐらい
鉄ちゃん爺やも携帯電話なんか持ってまへんで。
神戸市内の得意先や我が社の営業所とも連絡不能で
安否の確認ができ死者なしが判明したのは翌朝でした。
(神戸市 三菱銀行の店舗ビル崩壊)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
(当日の夕刊 平成7年1月17日発行)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
大混乱は翌日の1月18日が笑い話のような事態に。
何せ神戸を通過する国道は全てが通行不能ちゅうことでした。
朝4時に我が社をスタートしたトラックが姫路市へ向かうのに
AM9時現在は大阪府の池田市を通過中で三田市か能勢町を
経由して西脇市へ迂回して姫路市に向かうとの電話。
午後1時を過ぎた所で確認したらまだ宝塚市を抜けた所との事。
ここで諦めて本日は戻って来るようにと指令をだすはめに。
何せ神戸より先へ向かうルートが分からず大混乱の物流でしたな。
でも~ さすがわプロでっせ3日後には能勢町から福知山を通り
姫路や岡山へ抜けるコースが一番早いと情報が入りましたんや。
次の画像は大震災から5日後の神戸市へ入った時に
鉄ちゃん爺やが使い捨てカメラで写した画像でっせ。
(阪神電鉄 深江駅前の 倒壊家屋)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
多くの方が亡くなった被災地で写真を写すのは不謹慎で
隠しながら人目を気にしながら写した画像でおます。
次の画像は年配の方ならテレビや新聞で一度は見たかも。
阪神大震災で一番衝撃を受けた画像やと記憶します。
(阪神高速道路 崩落した路面と観光バス)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
東日本大震災では2万名を超える死者・行方不明者を出しましたが
殆んどの方が大津波による被害で命を亡くされたと聞き及びます。
こちら阪神大震災では6434名の犠牲者の大半が倒壊した家屋や
火災による死者と云う点で大きな違いがありましたね。
でも阪神大震災は神戸市を中心とする狭い地域に被害が集中し
後背地の大阪府を始め関西各地からの救援が可能でした。
阪神大震災から約5年ぐらいで神戸市を中心にした被災地が
復興したのは、やはり大阪府の存在が大きかったかも。
確かに東日本大震災は阪神大震災と比較ができないぐらい
大きな災害でしたが、何故か遅れが目立つ気もしますんやけど。
私事で申し訳ないんですが。
鉄ちゃん爺やの会社でもH社の依頼で摂津市の私の担当する
営業所から48000戸の仮設住宅に供給するユニットバスの
およそ半分近い23000個を送りこみましたんや。
約半年間ぐらいは損得抜きで戦場のような修羅場でしたな。
何せ大型トラックで午前中に到着した部材を夕方には工事班を
決めて2トン車に宵積みし翌朝8時には現地に届ける。
言葉では簡単ですが1日でも早く仮設住宅を完成させるべく
綱渡りのような作業班と物流部門の仕事だったんですよ。
一つ間違えば数箇所の工事予定がストップしますからね。
本業でもないのにH社が国家的な災害に対して工場が
全力で対応したのはあまり知られてまへんな。
大手のPA社・TO社・IN社などは高級品志向でこの
国家的災害にも消極的な対応しかしなかったことを
私のブログから発信しておきまひょ。
この仕事が完了した翌年に鉄ちゃん爺やがH社の首都圏支社から
依頼されて関東へ単身赴任する事になったのは皮肉なことですわ。
だから阪神大震災が無ければ鉄ちゃん爺やの関東への転勤も
無かったという事になりまっかな。
(平成7年大相撲初場所 11日目取組)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
20年前も両国の国技館では大相撲初場所をやってましたね。
若貴兄弟に曙と武蔵丸と横綱は4人も揃っていたんだ。
相撲解説者の舞の海さんが結びで貴乃花と対戦してまっせ。
もう幕内では20年も昔だから全て引退してはりまっけど。
ちなみにこの初場所の優勝者は横綱・貴乃花関だったそうです。
最後に阪神大震災で亡くなられた方やご遺族の皆さまに
哀悼の意を捧げながらお仕舞いにしまひょ。
道頓堀のお話しは都合により次回にさせて頂きましたよ。
ほんなら~ これで、さいなら~
心よりお見舞い申し上げます。
ホテルもキャンセルし、友達にも今回どうも行く気せんばい だけん一人で入ってなと言いました。 全部事割ったのは阪神大震災が起こる4日前でした。 だから阪神大震災は 忘れられない心の一ページ。 友達は高速のパーキングで一夜あかし地震に遭遇又バイクで友達に会いに行って新門司港について阪神大震災の事しり友人に会いに再び高速で戻って友人の無事を知ったそうです。自分は家で地震を知り。泊まる予定のホテルが大丈夫なのか神戸の友達が無事なのか電話で一日何回もかけ ホテルは建物は以上ないと知り
安心 友達も夕方になって電話が通じ無事を確認でき
安心しました。車で行った友達も無事を確認できたそんな記憶が鮮明に残っています。 あの時自分が入っていたらどうなっていたのかと思うとぞっとします。 本当に地震は
怖いです。毎年の思い出します。地震後4年後神戸へ
神戸三ノ宮駅の復帰の速さを感じました。 だから時々
神戸大阪入っているのです。 思い出地神戸です。
地震で亡くなられた方々のご冥福ただただ祈るのみです。
地震は怖いですね。10年後定時制高校の教科書に
この阪神大震災の事載っていましたよ。虫の知らせち直感で行かなかったです。
やはり阪神淡路の場合は、大災害ではありましたが、局所的であり、東日本のように、東北の大きな地域というのとはかなり違うのでしょうね。
あと、原発問題の違いですかね。
阪神淡路では、火事と倒壊。東日本では、津波。
なんとなくこれが、教訓ですね。
この3つから身を守ることができれば、被害を防ぐことができれば、とりあえず命は助かるということじゃないですかね。
尊い犠牲者を弔いながら
次の震災に備えることが大事ですよね。
確かに神戸市内では震災の傷跡を探さないとわからないぐらいに復興しました。
でも家族を亡くした方や復興しても住んで居た震災地に戻れない方もおられるようです
心のケアがこれからも必要だと思いますね。
昔の建築法による建物も多く放置されているようですね。
いつ来るかわからない地震ではお金も要る事だし難しい問題かもしれません。
最終的には自分の命は自分で守らなければならないと云う事に成るんでしょうね。
地震大国の辛さでも!!
火事と倒壊は我が地域に当てはまります。
津波の恐ろしさは 此処までは・・・
仰る通りに 教訓として言い伝えて行きましょう!!
尊い命の犠牲に為られた方々とご家族の皆様!
災害に遭われた皆様方に
ご冥福と お見舞いを申し上げます_(._.)_
会社の先輩が「地震で何百人もの人が亡くなった」と言ってもその時はまさか嘘でしょうと思っていました。
その時はラジオをつけっ放しで仕事となりました
先輩が言っていたことが本当だと思っていた可也の震災になっていました。
此方では耐震強化ができた学校へ統合されるようになりました。
阪神淡路大震災も、オーム事件も、
ずっと後になって東日本大震災も、
実態を見ると気の毒で言葉になりませんね。
定年一年前でした。
幕末の安政大地震では大阪の道頓堀川でも
津波が押し寄せて多くの方が亡くなっていますから。