昔、まだ実家にいた頃、
料理嫌いの母に代わって夕食を作ることが多かった。
季節や気温、体調などから
食べたいものを考え、
料理の本を見たり、
自分でアレンジしたり創作したり、
どこかで食べたおいしい料理を思い出して
レシピを考えてみたり。
今振返ると
時間やお金の心配もせずにすむ
楽しい創作のじかんだったのだなあ、と思う。
そしてそれは
ただただ純粋に楽しんでいた時間。
なんの見返りもなく
何かのためでもなくやっていた
あんな時間やこんな時間が
のちの自分の一部を作っている。
水泳の指導をしている友人が
彼女が「今でも水の中に入るとわくわくするし、とても楽な気持ちになるのよね」
と嬉しそうに語ったとき
気持がシンクロした。
誰かに喜んでもらえることは本当に嬉しい。
けれど、それが「目的」になることと、
結果的にそうなる、ということは大いに違う。
自分自身が何かを行っていて
喜びがあるかどうか、
ということが
dutyの奴隷にならない、いちばんの指標であるかもしれない。
介護の学校の生徒さんに
「この仕事をやっていて、
辛かったり苦しいときがあっても、
それでも自分自身に喜びがあるかどうか」が
燃え尽きないためにもとても大事なことなのだ、と話すことがある。
もしも
誰かのために、
何かのために、
ということが
100%になってしまったら、
そういう自分を疑うことも必要、なのです。
料理嫌いの母に代わって夕食を作ることが多かった。
季節や気温、体調などから
食べたいものを考え、
料理の本を見たり、
自分でアレンジしたり創作したり、
どこかで食べたおいしい料理を思い出して
レシピを考えてみたり。
今振返ると
時間やお金の心配もせずにすむ
楽しい創作のじかんだったのだなあ、と思う。
そしてそれは
ただただ純粋に楽しんでいた時間。
なんの見返りもなく
何かのためでもなくやっていた
あんな時間やこんな時間が
のちの自分の一部を作っている。
水泳の指導をしている友人が
彼女が「今でも水の中に入るとわくわくするし、とても楽な気持ちになるのよね」
と嬉しそうに語ったとき
気持がシンクロした。
誰かに喜んでもらえることは本当に嬉しい。
けれど、それが「目的」になることと、
結果的にそうなる、ということは大いに違う。
自分自身が何かを行っていて
喜びがあるかどうか、
ということが
dutyの奴隷にならない、いちばんの指標であるかもしれない。
介護の学校の生徒さんに
「この仕事をやっていて、
辛かったり苦しいときがあっても、
それでも自分自身に喜びがあるかどうか」が
燃え尽きないためにもとても大事なことなのだ、と話すことがある。
もしも
誰かのために、
何かのために、
ということが
100%になってしまったら、
そういう自分を疑うことも必要、なのです。