原キョウコのWSではイメージワークを実際に動く、
ということを技法の一つとしてを行なっていますが
どういうものなのかを書いていきます。
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りんごを持つふり(カタチとしての)をするのと
りんごを持っていることをイメージするのとでは
全く見え方が違う。
そのりんごの大きさ、重さ、温度、質感、色、匂いなど
記憶を総動員してイメージする。
りんごを持っている感覚を喚起する。
その時の腕の状態、指先、手のひら等
出来るだけ微細に。
すると生理的な状態に変化が起きる。
匂いからりんごに歯を当ててしゃりっとかじる感覚、
冷たいずっしりとした重たさなど
それぞれが独立して存在しているのではなく
渾然一体になり
りんごを様々な感覚で知覚できる。
あたかも本当にそこにあるように。
そこまで行かなければならない。
というのが、
ある演出家の稽古で叩き込まれたことだった。
(ここまで丁寧ではなかったけれど)
(ここまで丁寧ではなかったけれど)
散々稽古で殺されてもうダメかなと思っていたが
それがふっとできたのは舞台本番の時だった。
そこから何年か後
舞踏に転じて
そこでのメソッドで
「死んだ子供」というのを踊った。
水に流される死んだ子供。
片頬が水に浸いている。
「その温度はもう一方の頬と違わなければならない」と言われた。
イメージとは単なる想像ではなく、
いかにそれをありありと知覚できるか。
そうなった時に生理的変化も起きるものだと。
それは単に考えて「そのような感じで行う」ということとは
全く別の世界のものだ。
全く別の世界のものだ。
演劇と舞踏で教わったことが
自分のWSで行うイメージワークにつながっている。
知覚とはリアルでなければならない。
そこに対象物がなくとも
我々はそれをありありと想起できる。
それができれば自分以外の何者にもなれるのだ。
もちろん、人間以外のあらゆるものにも。
それをベースにして動いたり歌ったりするのは
原初的なシャーマニズムの技法である。
シャーマニズムには歌も踊りは欠かせない。
出来るだけ微細に自分自身の身体感覚を喚起する。
身体感覚があってこそ、動きが生まれ出ずる。
そのように生まれてきた動きは
とても繊細でぎこちなくもあり、そしてみずみずしい。
その感覚は子どもの頃に我々は体験しているはずだ。
それを新しく体験するのだ。
そしてシャーマニズムの目的の一つには
「治療」がある。
つまりはセラピーの原点であるとも思っている。
それこそが踊りの稽古でもあり
それこそが自分自身の身体感覚を取り戻すことであり
感覚のネグレクトから内的な身体を取り戻す
セルフケアへの道の第一歩であると思うのだ。
他者はそこにはいない。
他者ありきの身体であってはならない。
他者ありきの世界で生きているならば
自分の身体感覚と自分の動きを発見することから
始めなければならない。
みずみずしい、あの感覚を。
そういう稽古を続け
そしてあらゆる興味の対象に観察眼を磨く。
虫の動き 水の滴り 風に飛ばされるコンビニ袋
猫の歩み 風に吹かれる若竹
例えばそれらの質感と動きを
微細に再現する試みを続けるのだ。
そこには何があるか。
世界が立ち現れてくるか。
その試みを続けて初めて
「世界内存在」としての身体となる。
瞬間のことであっても
その時こそ
大きな自然の一部となるのだ。
それはアニミズムにもシャーマニズムにつながるのものと思うのです。
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