TVで見た北芝健氏の話が面白かった。刑事になって1年か1年半すると、所謂「刑事の勘」が高まって来る輩が必ずいるそうだ。それは生死の境のような現場を踏んでいるうちに野生の勘を取り戻してくるようなもので、スピリチュアルなものかもしれない、と言っていた。すごく分かるな、それ。
@body_wisdom (承前)殺人事件で納得の行かない、恨みの残る死に方をされているとその顔は苦痛に歪んだままだと言う。が、そこに手を合わせて「必ず捕まえて恨みを晴らすから、力を貸してくれ」と拝むと、その顔がみるみるうちにほどけていくことがあるという。
@body_wisdom (承前)そして同僚の刑事はある殺人事件を担当しているときに夢で(殺された方の視線になって)どういう凶器が使われたか、目の前に出てくるのを見たという。それを元に捜査をして見事凶器を見つけ、調べてみると符合したとのこと。
@body_wisdom (承前)そして公には出ないけれど、所謂霊能者の許に刑事が出向いて見てもらうことも(彼の体験として、また出向いた先に他の刑事が来ていたことも)あったという。
@body_wisdom (承前)生死の境で仕事する人は、こういう体験が多いだろう。北芝氏の母堂は医師で、霊感も強かったとのこと。そしてその遺伝子を受け継いでいると自分も感じる、とのこと。私の家も町医者であったけれど、そういう話は日常の中に自然に織り込まれていた。
@body_wisdom 昨日から風邪なのか、体調を崩しているが、そういうときはものの感じ方が「彼岸モード」に近くなる。現実から離れて、中空から何かを見たり感じたりしているような。鏡花の「春昼・春昼後刻」のような、茫洋とした空気の中にいるようで。こういうときは「夢」も侮れない。
@body_wisdom この「彼岸モード」を分かち合える生身の人間は、残念ながらなかなかおらず、やはり今まで訪れた山や山岳信仰の神社仏閣を思いつつ、その「場」と言葉にならないものをシェアするしかない。あとはある種の瞑想。この「彼岸と此岸の間」は本当に心地よいのだが。
@body_wisdom 奇しくも「万聖節」(ハロウィン)は「あの世とこの世の境目が薄くなる」ときでもある。そして誕生日前は何故か体調を崩すことが多いが、それにも意味があるので、今年はじっくりと、境目の薄明に浸ってみるのもいいかもしれないと思う。じわじわと。見えないものを見る。
@body_wisdom (承前)反対に、手を合わせても何の反応もしてこないご遺体もあり、そういう場合は「ほっといてくれ」という気を出しているとか。「(ほっといてくれれば)家族に保険金が入ってくるんだから」というようなことがあるらしい。ううむ。すごいな。
議論に慣れよう。相手があなたにきつい表現で意見を言い、あなたはそれを悲しく悔しく失礼に感じたとしても、それはあなたの人格否定ではなく、ただの意見です。相手の意見を冷静に見つめ、自分の意見を返せばよい。一度きつく感じただけで関係を切らず、もう一度ボールを返すと、その先に進める。
さみしがりやのリストカッターの、何人の友だちをもってももっても充たされることのない渇きのようなものは、核の家族の「非在」に向かってとめどもなく注がれつづける熱情の、中心を失って散会するさびしさの洪水であるもののように、わたしにはみえる。 -見田宗介『社会学入門』
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