五月一日が終わらないうちに、もう少し芭蕉さんと旅をしておくことにしました。1689年、元禄2年、三月の二十七日、芭蕉さんは江戸深川の芭蕉庵を旅立ちました。みんなに見送られながら、千住まで来たんでしたね。うれしいような、悲しいような、旅立ちでした。
芭蕉さん本人は、いつ死んでもいいし、とにかく自分の芸術を完成させたいという強い信念で歩いておられます。だから、本当は立ち寄ったところだって、芸術には関係なければカットしてしまう非情なところも見せます。
旅の行程だって、カットしたり、創作したり、ほとんどフィクションの旅になってしまっている。あの太宰さんが、『津軽』という半分ウソのふるさと訪問記を書いたのと構造としては似ています。
いや、リアルにこだわる私たちが凡人なのであって、芭蕉さんに「作品の中の世界こそ真実なのだよ」と言われたら、「ハイ、おっしゃる通りで、私たちって、ホントにダメですね。現実から飛び上がることができなくて、いつも地べたをはいつくばってますもんね。」と弁解しないといけないくらい、アーチストと凡人の高さは離れています。
それで、作品を読ませてもらって、少しだけその芸術の世界を見させてもらって、「すごいですね」と感心したらいいのかな。
もう言い訳はいいですね。とにかく、見させてもらって、少しでも近づきたいな。
草加に行くんですね。千住からそんなに離れてないのかな。土地勘がなくて、イマイチぴんとは来ないんですけど、とにかく埼玉県におられるらしい。
ことし元禄二とせにや、奥羽長途(おううちょうど)の行脚(あんぎゃ)、ただかりそめに思ひたちて、呉天(ごてん)に白髪の恨(うらみ)を重ぬといへども、耳にふれていまだ目に見ぬ境(さかい)、もし生きて帰らばと定めなき頼(たのみ)の末をかけ、その日漸(ようよう)草加といふ宿にたどり着きにけり。
元禄の二年です。私は四十三歳です(『おくのほそ道』が出るのは、この旅から十三年後の1702年になります。それくらい練りに練られた作品集なわけですね。もうびっくり!)。
ただの思いつきで奥州への旅を思いついた私です、と口では言いますが、本当は長年自分の中で温めてきた計画であり、とうとうその旅を実現できるところまで来ています。
でも、いや、ふと思いついて旅に出たのですよ、と言うのがカッコイイのだとは思います。
そんなただの俳諧師の私を、奥州の人たちはどれくらいの思いをもって接してくれるのか、そこはまだまだわからないのです。
西行さんも行かれ、能因法師さんも白河まで行ったとか行かなかったとか、いろんな旅人たちのあこがれと未知の土地、そちらに私は向かおうとしています。
旅の苦労で頭が真っ白になるというお話だってあちらこちらで聞いてたりします。私の旅はどうなるのか、全く先は見えないのです。
でも、見たことも聞いたこともない世界に行きたい。そこにはたぶん、人間たちが当たり前に暮らしているのだろうけれど、その中で自分たちがどんなふうになるのか、それが予想がつかなくて、怖さと不安はたくさんあります。
もし自分が旅先で行き倒れになるのではないか、なんていう最悪の事態もないではないですけど、たぶん、何とか帰って来られるだろうと(執筆している時にはもう旅は終わっているんだから、その辺は余裕ですけどね)思って旅をしようと思います。
そして、草加の宿にたどり着きました。
痩骨(そうこつ)の肩にかかれる物、まづ苦しむ。ただ身すがらにと出立(いでたち)侍(はべ)るを、紙子一衣(かみこいちえ)は夜の防ぎ、浴衣・雨具・墨筆のたぐひ、あるはさりがたき餞(はなむけ)などしたるは、さすがにうち捨てがたくて、路次(ろし)の煩(わずらい)となれるこそわりなけれ。
ここまで歩いてみたところで、痩せた私の肩に荷物の重みがものすごくこたえていました。とても苦しかった。
体一つで旅立とうとしていたのに、宿でのふとん代わりの紙子一衣の防寒着、浴衣に、雨具に筆と墨、みんながはなむけの道具として授けてくれたものですし、とても捨てるわけにはいかないし、旅には欠かせないものなのです。でも、重い。でも、捨てられない。
これら旅の道具たちが、旅するときの悩みの種となるのも、仕方がないこととはいえ、困ったものなのです。
何度も旅をしている私ですけれど、どうにかならないのでしょうか。いや、何とかなるのだという気分もあるのです。
ただ旅の初めに弱音を吐いておいて、そこから巻き返すことの楽しみみたいなのをお見せしようという気分もあるのかな。
草加宿にたどり着いたんですね。
鹿沼を通って、あとしばらくしたら日光に着いちゃいますよ。そうした名所にたどり着いたら、荷物の重さも忘れてしまうのかな。
旅慣れた人ですから、その辺の悩みはクリアしていくことでしょう。
先ずは、少ししんどいよ、と弱音を吐いてみせたというところかな。