今ここにある私の時間は、どんどん過ぎ去っていきます。つい何時間か前、お昼ごはんを食べて、そのあと、あろうことか、禁断のシュークリームをいただき、「あらまあ、濃厚な、ずっしりのクリームだね」とか言いながら食べてたけど、それはもう過去の時間です。
シュークリームは戻ってこない。「おいしい」と思って食べたのだから、それで満足しなくてはならなくて、もう一度食べたかったら、買いに行けばいいはずですが、たぶん、これから何年も食べることはないでしょう。クルマでも、歩いてでも行けるところにあるお店なのに、経済的なこともあるし、毎日シュークリームを食べるわけにもいかないから、もうしばらくは食べられない。
そんなことは百も承知、二百も納得なのです。でも、「おいしかったなあ」という記憶は残るでしょう。ホントなら、おいしいと感じられることを強烈な思い出として刻み付けられたらいいのだけれど、とてもそんな演出方法は見つけられないし、基本的には私は味オンチでした。どんなにおいしいものも、普通のものも、全部「おいしい」で済ませているようなところがあります。
お酒は酔ったらそれで終わり。ゴハンは満腹になったら、それでいい。微妙な味の違いはわからないし、これがおいしかった、というものはないみたいです。でも、思い出に残る食事はあるから、味よりもそのシチュエーションが大事なんでしょう、私にとっては。
すべては過ぎ去っていく。昨日は二度とやって来ないし、十年前も、二十年前も、三十年前も、四十年前も、もうやって来てはくれません。
そんなのわかっています。今、ものすごい時間の流れに翻弄されていて、三月も、二月も、一月もあっという間でしたし、楽しい二月だったなとか、三月は充実していたなんていう思い出はありません(能登地震の被災者の方々には申し訳ないし、ガザの人々、ウクライナの人々、ミャンマーの人々、すべての虐げられている人々に申し訳ないけど)。
ただ、失敗がないように、人に失礼がないように、なるべくウソをつかないように、家族を大事にするように、そういう気持ちで一瞬、一瞬を過ごすだけでした。
とはいえ、私のことですから、日々に手抜かりがあり、ミスがあり、いい加減にしてしまうこともたくさんある。こうして杜撰な私の暮らしは続き、まわりの人からは「もう、あの人は……」と思われながら過ごしている。
この前、学生時代を過ごした街にひとりで行ってみて、誰にも会わないで、ただテクテクしたことがありました。学生も誰もいなくて、昔だったら、もっと変な人たちがウヨウヨ歩いていた気がするんだけど、それも時間の流れとともに、変な人たちもどこかへ消え去ってしまっていました。
そこには、新たなスタートをしようという若い人と、静かな町と、外国の人たちで大混雑のまま通り過ぎていく電車と、ちゃんと目的をもって通り過ぎていくクルマたちと、全国チェーンの店のいろいろと、そういうのがあるだけでした。
新しい生活を始めるといったって、簡単なことではないような気がする。こんな寂しそうな町で、どんなにして人と出会うんだろう。人と出会うことで人は成長させられ、励まされもするのに、誰もいないじゃないか! みんな人間たちはどこにいるんだろう? そして、ここに住む人たちは何を目的に生きているんだろう。……私が疑問に思うことではなかったですね。そう、ここの学生とinstagramで友だちになったけど、その人にも言えないな。
何十年ぶりかでここに戻って来た私は、生活する場所はないし、ただ昔の仲間がいたところを確認して、みんなはここにはいないけど、みんなそれぞれに生きているはずで、私もそのみんなのうちの一人で、今はたまたまここを歩いて、同じ方向に向かう親子を後ろから撮ってみるだけでした。申し訳ないです。
お父さんは、たぶん、ずっと私なんかより若いのです。そりゃ、そうだよな。私はトッツァンなんだから。仕方がないや……。
時の流れを嘆いても仕方がない。今ある一瞬を生きていこう。ただ、ナマケモノで、チャランポランの私を励ますには、時々は昔の気持ちを想い出して、今を生きる力にするしかないのです。
そういう意味の旅でしたね。たぶん、そうなんだと思うな……。