★ 惑星ソラリス 1982.7.16 Fri 関西テレビ
宇宙的映画を期待するとバカを見る。スタートレック(宇宙大作戦)でSF的映像心を鍛えたボクは根負けなどしなかったが、ちょっと頼りないものを感じていた。
A・タルコフスキーは初めて見た。さほど巨費を投じたわけではないようだ。登場人物ケルビン、ギバリアン、サルトリウス、スナウトの四人の博士と、ケルビンの妻・ハリーと他1人ほど、宇宙シーンなんかなく、ほとんど宇宙ステーション内でこの物語は終始していた。
地球、池があり、流れ、林。その中にケルビンは立ち、今から惑星ソラリスに行くのだと語る。その惑星ソラリスというのは、2~30年くらい研究されているが、プラズマの雲がうずまいていて、まるでつかめていないという。
あっという間にソラリスの海(という宇宙空間)近くにある宇宙ステーションに着く。そこは全くの荒れ放題で、スナウトとサルトリウスの2人しかいなかった。ギバリアンは自殺したという。事情はわからない。女の子が鈴を鳴らして歩いている。サルトリウスは確かにその女の子を囲っていた。
いったい女の子はだれか? 宇宙ステーションで何が起こっているのか、まるでつかめないままに、疲労ためケルビンは眠る。するとどうだろう。十年前に自殺した妻が現れ、ベッドに横たわってしまう。扉はちゃんとカギをして閉められたままなのに、全く突然に彼女は目の前に現れた。
スナウトの説によると、いつも流動しているソラリスの海にレントゲン照射の働きかけをして以降、宇宙ステーションの人々の潜在意識にあるものが宇宙ステーション内に現れだしたのだという。
信じられないケルビンは、目の前に現れた過去の女をロケットで放出させるのだ(亡くなった妻が目の前にいてはいけないと思ったのかもしれない)。ところがまた次の夜、ちゃんと自殺した妻は姿を現す。
この奥さんは人間じゃないのだから、徹底解剖して調べようとサルトリウスとスナウトは言う。ケルビンも確かに彼女は人間ではないのだと理解した。けれども、何しろこれは自分の妻なのだから、そんなことはさせない。けれども目の前の女はいったい何なんだ……不思議な苦しみがつづく。
今、目の前にいる亡くなった妻・ハリーに、ハリー自身が自殺したときのことをケルビンは話して聞かせる。そして、この超現象下のハリーは、ケルビンに愛されたいと自殺をしてしまう。ところが自然蘇生してしまう。人間ではないのだから、当然なのだけれど、観客としてはビックリしてしまう。
その後、ソラリスの海に、他の2人の学者は働きかけていた。夜眠ると個々の潜在意識を掘り起こされる。だから、昼間の意識をソラリスの海へ伝えるなら、この超現象も収まるだろうというのだ。そして、ハリーは消えた。結果は成功だった。
ケルビンはこうしてまたもとの流れを見つめている。地球へ帰ってきたんだという。物語はこれでおしまい。さあ、カメラはどんどんケルビンから遠ざかり、池、家、流れ、林がパノラマになる。どんどん小さくなる(視点が空に引き寄せられていく)。そうすると、さっきケルビンがいた原野の外がソラリスの海であることにボクたち映画の観客は気づく。とても悪趣味な結末のような気がして、嫌だった。折角、ソラリスを去って、心の平安を得たと思ったのに……。 評価としては、64点
以上が32年前に私の書いた映画評です。評じゃないですね。あらすじですね。
とてもあこがれていた映画でした。先見性のある友人が、どこかのホールで公開される映画を見に行くのだと言い、それをうらやましいとは思いつつ、物好きなことだと冷ややかに見ていた私は、やっと彼のお話を聞いて数年後に、テレビの短縮版で見ることができました。そして、あまりいい印象を持たなかった。それから4年後の1986年に監督のタルコフスキーさんが亡くなってしまって、何回か見るチャンスがありました。改めて映画を見直して、再評価した今では、好きな作品として自宅の本棚にDVDが飾られています。
タルコフスキーさんは、「鏡」が世界の映画トップテンにランクインしていました。イギリスのどこかの機関が世界中の映画から選んでいました。ナンバーワンは小津安二郎の「東京物語」で、それは納得するものの、だれがどういう基準で選んでいるんだか……。
とにかく、タルコフスキーさんの「ソラリス」は好きな作品になりました。後にフルバージョンの字幕版を見て、東京で撮影した首都高速道路を未来都市に見立てているような微笑ましい部分もあったり、ケルビンが亡くなった妻(今さらどうしようもないのに)をふたたび愛しようとしている様子が、そんなのはニセモノであり、現実の妻はいないにもかかわらず、自己満足の愛なのかもしれないけれど、今折角与えられたチャンスに、突然現れた妻のニセモノと交流する姿! そこに何か心打たれるものがありました。
といっても、なかなかDVDを見ないでしょうね。ウチのDVDも、買ったのはいいけれど、たぶん見ていません。所有することで満足して、ソラリスがすぐそばにいてくれて、私はしあわせになります。これも自己満足というか、お金の無駄づかいというか、ですね。
いつか、子どもと一緒に見られたらと思いますが、どうもそういうチャンスが訪れません。
というわけで、お盆休みは家のかたづけをずっとしています。今日の午後、木製コンポストを作ろうと思います。
宇宙的映画を期待するとバカを見る。スタートレック(宇宙大作戦)でSF的映像心を鍛えたボクは根負けなどしなかったが、ちょっと頼りないものを感じていた。
A・タルコフスキーは初めて見た。さほど巨費を投じたわけではないようだ。登場人物ケルビン、ギバリアン、サルトリウス、スナウトの四人の博士と、ケルビンの妻・ハリーと他1人ほど、宇宙シーンなんかなく、ほとんど宇宙ステーション内でこの物語は終始していた。
地球、池があり、流れ、林。その中にケルビンは立ち、今から惑星ソラリスに行くのだと語る。その惑星ソラリスというのは、2~30年くらい研究されているが、プラズマの雲がうずまいていて、まるでつかめていないという。
あっという間にソラリスの海(という宇宙空間)近くにある宇宙ステーションに着く。そこは全くの荒れ放題で、スナウトとサルトリウスの2人しかいなかった。ギバリアンは自殺したという。事情はわからない。女の子が鈴を鳴らして歩いている。サルトリウスは確かにその女の子を囲っていた。
いったい女の子はだれか? 宇宙ステーションで何が起こっているのか、まるでつかめないままに、疲労ためケルビンは眠る。するとどうだろう。十年前に自殺した妻が現れ、ベッドに横たわってしまう。扉はちゃんとカギをして閉められたままなのに、全く突然に彼女は目の前に現れた。
スナウトの説によると、いつも流動しているソラリスの海にレントゲン照射の働きかけをして以降、宇宙ステーションの人々の潜在意識にあるものが宇宙ステーション内に現れだしたのだという。
信じられないケルビンは、目の前に現れた過去の女をロケットで放出させるのだ(亡くなった妻が目の前にいてはいけないと思ったのかもしれない)。ところがまた次の夜、ちゃんと自殺した妻は姿を現す。
この奥さんは人間じゃないのだから、徹底解剖して調べようとサルトリウスとスナウトは言う。ケルビンも確かに彼女は人間ではないのだと理解した。けれども、何しろこれは自分の妻なのだから、そんなことはさせない。けれども目の前の女はいったい何なんだ……不思議な苦しみがつづく。
今、目の前にいる亡くなった妻・ハリーに、ハリー自身が自殺したときのことをケルビンは話して聞かせる。そして、この超現象下のハリーは、ケルビンに愛されたいと自殺をしてしまう。ところが自然蘇生してしまう。人間ではないのだから、当然なのだけれど、観客としてはビックリしてしまう。
その後、ソラリスの海に、他の2人の学者は働きかけていた。夜眠ると個々の潜在意識を掘り起こされる。だから、昼間の意識をソラリスの海へ伝えるなら、この超現象も収まるだろうというのだ。そして、ハリーは消えた。結果は成功だった。
ケルビンはこうしてまたもとの流れを見つめている。地球へ帰ってきたんだという。物語はこれでおしまい。さあ、カメラはどんどんケルビンから遠ざかり、池、家、流れ、林がパノラマになる。どんどん小さくなる(視点が空に引き寄せられていく)。そうすると、さっきケルビンがいた原野の外がソラリスの海であることにボクたち映画の観客は気づく。とても悪趣味な結末のような気がして、嫌だった。折角、ソラリスを去って、心の平安を得たと思ったのに……。 評価としては、64点
以上が32年前に私の書いた映画評です。評じゃないですね。あらすじですね。
とてもあこがれていた映画でした。先見性のある友人が、どこかのホールで公開される映画を見に行くのだと言い、それをうらやましいとは思いつつ、物好きなことだと冷ややかに見ていた私は、やっと彼のお話を聞いて数年後に、テレビの短縮版で見ることができました。そして、あまりいい印象を持たなかった。それから4年後の1986年に監督のタルコフスキーさんが亡くなってしまって、何回か見るチャンスがありました。改めて映画を見直して、再評価した今では、好きな作品として自宅の本棚にDVDが飾られています。
タルコフスキーさんは、「鏡」が世界の映画トップテンにランクインしていました。イギリスのどこかの機関が世界中の映画から選んでいました。ナンバーワンは小津安二郎の「東京物語」で、それは納得するものの、だれがどういう基準で選んでいるんだか……。
とにかく、タルコフスキーさんの「ソラリス」は好きな作品になりました。後にフルバージョンの字幕版を見て、東京で撮影した首都高速道路を未来都市に見立てているような微笑ましい部分もあったり、ケルビンが亡くなった妻(今さらどうしようもないのに)をふたたび愛しようとしている様子が、そんなのはニセモノであり、現実の妻はいないにもかかわらず、自己満足の愛なのかもしれないけれど、今折角与えられたチャンスに、突然現れた妻のニセモノと交流する姿! そこに何か心打たれるものがありました。
といっても、なかなかDVDを見ないでしょうね。ウチのDVDも、買ったのはいいけれど、たぶん見ていません。所有することで満足して、ソラリスがすぐそばにいてくれて、私はしあわせになります。これも自己満足というか、お金の無駄づかいというか、ですね。
いつか、子どもと一緒に見られたらと思いますが、どうもそういうチャンスが訪れません。
というわけで、お盆休みは家のかたづけをずっとしています。今日の午後、木製コンポストを作ろうと思います。