私みたいな迷いの多い、いい加減な人間が口にすることばではないのかもしれません。
まあ、それは分かってはいるのです。でも、無理だからと、遠ざけていては何にもならないのです。霊魂やら、オバケやら、妖怪やら、そういうのは敬して遠ざければいい。触らぬ神に祟りなしでした。
それ以外の、日常的なことや、日々努力していること、それらであれば、もう埋没しまくるしかありません。とことん、それらと関係を持つしかないのです。その中で、ごくたまに光明が見えるか見えないか、人生におけるチャンスなんて、ほとんどないのと同じでしょう。でも、諦めずに求め続ける、この姿勢がきっと大事なんだと思うんです。
それで、孔子さんは何と言われてたんですか?
どんな時だったのか、そんな時がやってきたのか、たぶん、永遠の未完成老人である孔子さんは、いつまで経ってもやってこない自分の究極の姿に、そんなの簡単には無理だよと諦めつつ、でも、突然ひらめくかもしれないから、いつがその時なのか、それは本人次第だよと思い、こんなことばを残されている。
42【朝(あした)に( )を聞かば夕べに死すとも可なり】……朝、人間としての生き方を聞いて正しく理解し、自分のものとすることができたならば、その日の夕方に死んでも少しも悔いはない。または、生きているうちに真理を学ぶことが大切だという説もある。〈里仁〉
私は、孔子さんの足元にも及ばない、とんでもないただの孔子さんのファンですけど、このことばも好きなことばの一つなんです。
突然にその時はやってくるかもしれないのです。
そして、もしその時がやってきたら、もう死んでもかまわないのだ、とお弟子さんたちに言われていた。
お弟子さんたちは、そのことばを、どんなふうに聞いたらいいのか、わからなかったでしょうね。先生は、どういう意味で言われているのか、先生の求める境地って、一体それはどこなのか、そんなところに自分たちはたどり着けるのか、先生でさえたどり着けていないところに、どういうふうにして行けばいいのか。
雲をつかむようなお話でした。
でも、希望は捨ててはいけないらしい。老先生でさえ、そんななのだから、自分たちも、自分たちのやり方で、求めていたものをどこかから手に入れなくてはならない。
そのありかは、全く分からないし、明日突然手に入れられるものなのかもしれないし、一生かけても見つからないのかもしれないのです。
考えてれば、ストレスの多い探求ではあるのですね。
何を求めておられるのか、それは人それぞれなのか。
私は、いい加減な思いつきで考えるわけですけど、ああ、この瞬間、というのを別の自分が教えてくれる時、そんなの、めったにないけど、昔、どこかで感じたことがあったような気がするんです。
ああ、このしあわせな、何とも言えない時間、これは永遠ではないけれど、とにかく今、たまたまそこに居合わせて、何かを見つけたような気分でいる、すべてが見通せるし、心は穏やかだし、背すじを幸せ感が行ったり来たりしていて、ものすごく心身ともに充実していると感じる。
それをうまく冷凍保存できたらいいんだけど、しばらくしたら、その気持ちはすぐに輝きを失い、どこかへ消えてしまう。
そして、思うのです。今何か充実していた。おそらく、これが自分の求めていた何かなんだろう。そのまま突き進んでいたら、違う次元にいけたかもしれないのに、それを保持することができなくて、またいつものつまらない自分に戻ってしまったけれど、次こそ、新たな、よりハイレベルの自分になるため、またしばらくコツコツやっていこう……と。
夢なのかもしれないし、二度と来ないのかもしれないけど、私たちは理想の一瞬を手に入れるため、ずっと努力していくんでしょう。
漢字一字でいうと?
私の勝手な解釈なのかもしれません。
でも、このことばには、そんな意味合いがあるものだと思っています。
そして、「朝聞道」というのは、私の一つのテーマでもあるんです。
答えは、42・道 でした。