(この本堂の中に観音さまがおられます。とても大きくて、それこそ人々のことを見てくださっている感じ、あとは本人の努力次第、気持ち次第!)
長谷寺を訪れると、お客さんがいないことが気になります。こんなに人がいなくては、参道の商店街は苦しいだろうなと心配になります。
中国からの観光客が来ていた頃は、なんとかごまかせたかもしれないけど、コロナの嵐が来てから、いろんなところが本当に人が来るような、人が楽しめるところなのかを問われているようです。
私は、長谷寺に対して、もっとゆったりするところとか、休憩するところとか、そういうのがなくては困るなあと思っていました。
2019年の5月の連休には、そういうことを書いています。お客さんはそれなりに来ていたようです。
2018年の4月には、咲き乱れる春の花たちを追いかけて行っています。でも、休息されるところではなかったようです。参道のお店も、サッと相手をして、サッと帰っておくれ、というお店が多くて、立ち寄ってゆっくり時間を過ごしてみなさい、というお店がなかった気がする。
2015年の1月は、冬だから閑散とはしていましたけど、もう少し活力があったように感じたけど、それは見ている私自身の変化でもあるのかもしれません。
風景に対して関わる力みたいなのは弱くなっている。もともと他者に対して働きかけようという気持ちがあまりなかった私は(関わるのが怖かった、めんどくさかったナマケ心もあったけれど)、今では他者に対して、そこから何かを引き出そう、というのを諦めて、適当でいいやと切り上げているところがある。
かくして、淡々と歩き、何のとっかかりも得られないままに帰って来る。写真は撮ったけれど、対象に迫ったものも得られず、ただのつまらないものしか得られなくて、悶々とする、そんなことの繰り返しでした。
今も同じ。いや、それ以下で、どんどん元気はなくなっている。それなのに、焦りつつ何かしなきゃとつぶやいている。
そんな私であってみれば、とりあえず行ってこい。そして、何かのとっかかりを見つけて来い。見つからなくてもいいから、とりあえず、足だけ運べ。
くらいの気持ちで行くしかないのです。そうですね。
この前は、本堂の前の空間に、こんな大きな木があるんだと初めて知りました。そして、ちゃんと天狗杉という名前もあるのだとあとで知りました。
登廊を上がってく時に、曲がり角に大きな木があるなあというのは見つけていました。その上がどんなになっているのか、そんなことを考えられないままに本堂にたどり着いて、ふと見下ろしたら、ニョキッと空間に突き出ているのを見つけられた。
木は、思い思いに伸びて行ってくれる。そうすると、歳月の間に、一人の人間にははかり知れない高さまで達している、そういうことがあるみたいでした。
1 長谷寺の木枯らしに立つ天狗杉
2 常夜灯明治三十二年の賀名生(あのう)の人
3 冬の山観音様に問われてる
4 こもりくの長谷寺伽藍冬の山