新宮駅を出たら、電車はずっと海側に走ります。どうしてこんなに海が近いの? キレイだけどあまりに近すぎて怖さも感じます。
それくらいに、海と町が隣り合っているのが新宮という町でした。
紀伊半島の水をかき集めて熊野川はやっと海に抜けていく、その入口に新宮があります。昔は木材の集積地でした。山々からいかだで木材を運び、いかだ師たちは新宮まで届けたら、今度は歩いて山に帰る、その前に一晩だけでも街の雰囲気を味わう、そういう歓楽地でもあったんでしょうか。
山は、ほとんど平地を許さなくて、海沿いに少しだけ人の住むスペースが用意されていて、人々はあちらこちらに分散して住んでいました。
九州からヤマトに攻め入ったニニギノミコトは、生駒の山の戦いに敗れ、ぐるっと南回りで相手の背後をつく作戦に転じ、上陸した地点は三輪崎というところだそうですが、それくらいに安心して船を落ち着ける場所がありませんでした。
和歌山や御坊、田辺あたりはヤマトの勢力圏だったんでしょうか。そんなにガードしてたのかどうか。八咫烏(やたがらす)という三本足のカラスさんに導かれて、やっとここから攻めあがることにした。
考えてみたら、遠い作戦です。新宮に到着したとしても、今でもここからヤマトに攻め入るには、十津川村という巨大な山々の集落を抜けるか、熊野市から大台ケ原の方に抜けるか、どっちにしても進軍するのは大変です。ゲリラならそれもありだけど、本当にそんなことがあったのかどうか、ファンタジーとして受け入れていたらいいのかな。
新宮から勝浦の町まで、電車でもクルマでも30分くらい、わりと近いんですけど、ここまでは来れたとしても、ここから先は少し遠くなります(三重県から来た場合の気分です)。
温泉とマグロの町の勝浦の次の駅が「湯川」の駅でした。
ここに「ゆりの山温泉」という隠れた名湯があります。料金は300円で、何にもしないでもただひたすら1時間くらい湯につかる、そういう温泉です。洗い場もあるけど、そういうのを利用するのは邪道だと思われるくらい、お湯の中に入らないといけない温泉があります。
お客がそんなだから、施設としては大変でしょうね。回転が悪いし、みんなカラスの行水でスイスイ入れ替わってくれないと、儲からないと思われます。なのに、お客は黙々と体を浸している。
三重県の南に昔住んでた時、月に一回はこちらに行かせてもらったでしょうか。それくらいに頼りになる温泉でした。
何がいいというのではなくて、この安心感と停滞感、もうハンナリしてしまうんでした。沸かしていないのか、冷たくもないし、熱くもないけれど、何だかあたたかく、いつまでも入っていられました。
夏になると、海水浴客が間違ってやってきて、浴槽がザラザラになるのがイヤだったけれど、それ以外はそんなお客さんもいないし、常連さんたちが自分のペースで延々と入り続ける場所でした。
うちの奥さんも、うちの子も好きでした。うちの子なんて、昔は外に鳥小屋があって、トリたちもいたから、「コッコの温泉に行こう」なんて言ってたものでした。
もう二人とも二十何年行ったことないんだろうな。私もそれくらいぶりでした。でも、何も変わっていなかった。
ゆりの山温泉に行くんだと降りた湯川駅は、最近のアートプロジェクトで壁画がいっぱいでした。
和田さとこさんという方が描いたみたいだけど、ネットには彼女の情報が見つかりません。また、これから気にしながら、見ていきたいと思います。
駅のホームからは、対岸の太地のくじら博物館などが見えました。そこもうちの子のお気に入りの場所だったけれど、これももう何十年も行けていません。いつか、うちの子自身がまた誰かと行ってもらったらいいんでしょう。
私たちの楽しい時間は、その時確かにありました。家族三人で、紀伊半島の南に暮らしていた。そこから今は離れてしまって、簡単には行けなくなっています。けれども、それぞれの思い出の場所は今もあるし、いつだって行ける。
でも、私たち自身が年を経てしまっているから、そこに行けたとしても当時の若い私たちではなくなっている。それは当たり前のことなんだけど、それをわざわざ感じなくてもいいんだけど、思い出の場所に立てば、あれこれ思い出してしまいます。
そんなの普段は必要のない感傷です。今は、今の課題をクリアすればいい。でも、私はそれなりに生きてきたわけで、それを時には確かめるのもいいのかもしれない。
そして、何十年前とまるで変わらないところもあるので、そういうところで過去と現在未来に思いめぐらすのも、これまた人間らしいことじゃないですか! 昨日、長時間電車の往復したんですけど、今日は割と元気です。
さあ、年賀状と庭仕事しなくちゃ!