私たちは、時間とともにあるような気がしています。私たちのいろんな行動はいつも時間とともにあるし、時間とシンクロして行動できるのが私たちの理想像でありました。うまく時間を使いこなしたいといつも思っています。
けれども、実際は、「時間」は人間とともにあったことなどなく、勝手に行き過ぎるだけです。いや、そもそも時間なんていうものは、ないのかもしれないのです。ただ、人間が過ぎていくものすべてを「時間」という言葉でまとめただけであって、そんなものはなかったのです。
少し無理があるけど、地球だって50億年という時間を経過しているわけだし、すべてものに時間というものはあるはずです。でも、そんなの見えないし、あるのかないのか、イライラするだけだし、そんなのはないと言い切りたいのです。
そうだな、「時間がない」なんて言うのは乱暴ですけど……。でも、時間なんてないのだ、そんなのつかまえようなんて思うのが間違いだ! というのは言えるんじゃないかな。
今ここにあるのは、私とそのまわりと、いろんな人たちのそのまわりと、いろんな生き物たちのそのまわりと、それぞれの環境があるだけです。その空間を確かに時間が過ぎていくようにいわれるけれども、それは私たちの感傷なんでしょう。やはり時間というものはない?
人間たちはほんの一瞬に全精力を傾けたり、延々と続いていく今の環境に手持無沙汰になったり、何にもできなくて、ふがいない自分に腹立ててみたり、時間と格闘している気分になっている。
確かに、一人の人間の持ち時間というのは有限で、その時間内でやれることを精一杯やるしかないのです。考えてみれば、できないことばかりを夢見ているのが人間という愚かな生き物のようです。
ということは、やはり限られた時間というのがあるんじゃないのか? コントロールできる時間は欲しいみたいだな。
時間というのはないのか。ないとしたら、とりあえず、自分のやれることを落ち着いてやったらどうだろう。その方がストレスもないし、穏やかな気持ちでいられる。
でも、人間というのは、ひとりで生きていけない。ひとりだったら、自分ですべてやればいいし、その環境に働きかけるだけです。時間だって、ひとりでいると焦らなくて手元にある感じ。それをみんなと共有したら? そうしたら、人間のわがままなところが顔を出して、ひとりでいたいなんて言い出す。コントロールできてる時間は暴れ出してしまう。
人間は、ひとりで時間というものを消費したがる生き物でもあるらしい。
人間は群れなくてはやっていけない。人間たちの活動の結果・過程が、家族となったり、会社を生んだり、学校を作ったり、組織を運営したりするわけです。人間は、群れと共に時間を過ごしていく生き物であったりする。
群れ・集団がないと生きていけないのが人間でした。取り締まり、ルールを作り、人が人をコントロールすることになってしまう。そして、そのときに時間というのは大事な基準として使われている。
そう、群れの中で使われている「時間」というのは、厳しいものでもありました。ひとりだと自由だし、コントロールできてる気がしてたのに、みんなと共有しようとしたら、手に負えなくなる。……扱いにくいものなんだなあ。
人が自然と向き合うだけであれば、太陽さえ見ていれば、移り変わりには対応できるし、疲れたら寝るし、ゴハンを食べたら仕事をするでしょう。ひとりで生きていけるのなら、時間なんてあまり関係がないみたいです。
農業をしていたら、季節の移り変わりは大事だろうけど、基本は朝から晩まで、疲れるまで働くということだけで、時間はなくなってしまう。
私は、時間とは関係のない生活を送りたいという夢があったのですね。だから、無理やりに「時間」というものを否定し、そんなものはないのだと強弁しました。
でも、結局は私たちは時間には縛られる存在ではある。その一方で、そういうのを超越した生き方も、どこかにあるような気がする。
黙っていても時間は過ぎていきます。川を眺めていても、一生懸命に仕事をしていても、何にもしなくても。
充実、ボンヤリ、何も考えない、いろんな精神状態で日々を過ごしているだろうけど、つかみがたいものが時間というものらしい。
手にしたいのに手に入らない。このまま永遠に続いてほしいと思っても、すぐに終わってしまう。
どんなにもがいても、たいていは虚しいことだから、あんまり考えないで過ごす。なんとそれが時間から解放される唯一の方法となっていて、私たちは明日も、とりあえず、目の前のことに明け暮れるんでしょう。そうしていたら、すぐに夕方がやって来てくれる。
もっとムチャクチャ「時間」と対決したいけど、ずっと時計を見てたとしても、何にも起こらなくて、悲しくなるだけだから、忘れて目の前のことだけに集中する。ああ、時間、どうしてつかまえられないのかなあ。
★ 結局、結論は無しでした。なあんだ、つまんないの!