6年生の担任の先生は、ユキノというお名前で、ある時、お話の中で自分の小さい頃のことを語ってくださったんだ。
それは、何の授業?
歴史だったのか、道徳だったのか、ただの話の流れだったのか、憶えてはいないんだ。
授業って、どんな話を聞かせてもらったか、ホントにつまらないことだけが残って、教わった内容は憶えていないよね。憶えてないけど、体か頭の片隅に残ってて、何かの拍子にプイと出て、「あなた、よく憶えてたね。偉いねえ」なんて褒められたら、それが自分のものになるなんていうこと、あるだろ。だから、つまらないお話だったんだけど、もう数十年記憶している。
このつまらない誰かの話というのが、私たちを育ててくれるんだと思うし、大事にしたいものなんだけどな。
ここでその「つまらない、大事な」話をしたら、これから先に忘れてしまうかもしれないけど、とにかく、話してみるね。
ユキノ先生のユキは「征服する」の「征」の字が使われていた。先生はそれも話してくれて、イチイチ子どもたちは納得していくんだ。
へーっ、征伐・征服の「征」は、「ゆく」というふうに読むんだってね。
どうしてそんな攻撃的な文字を使ったのかというと、それは戦争時代に生まれたから。先生のご両親も時代の流れに合わせて、勇ましい文字を使ったお名前にしたんだって。
担任をしてもらった時、お誕生日をお祝いして、「とうとう30になったね」とか、まわりの子たちが言ってたから、先生は新採からずっとボクの学校にいてくださって、最後は校長先生にもなられたという話だった。
30歳の先生が、「一番最初の記憶って、みなさんは何を憶えていますか?」なんていう問いかけをしてくれてた。
それで、6年生のボクは、幼稚園を出てから後のことを思い出してた、たぶん、そんなだったと思うんだ。昔っから、「あとのまつり」みたいなものは好きだったから。今さらどうにもならないところに出掛けて、それで変に納得する子どもだったのかなあ。
ユキノ先生はその後にね、「私の最初の記憶は四歳の時です。私は、大阪のアベノに住んでいて、アメリカ軍の空襲を受けたんです。空襲というのは、空から大きな爆撃機がいくつもやってきて、その飛行機からたくさんの爆弾が落とされるんです。
私は四歳だったけれど、隠れることにして、近くにあった防空壕というところに入ろうとした。すると、すぐ目の前で爆弾が破裂して、私は無事ではあったけれど、とても恐ろしい思いをして、それから二十数年経っても、あの音と光はとても鮮烈で、ずっと憶えているんですよ。とても怖かった。
私の名前は、征服する・征伐するという勇ましい文字の入っているものだったけれど、気づいた時には、こんな恐ろしい体験からスタートしていったことになるんです。戦争は、小さな子どもの心にも大きな傷あととして残っていくんです。」
そんな話だったと思うな。
それでヒトコマの授業が終わったのかなあ?
よくあるように、「それではみなさんの最初の記憶を文章にしてみましょう」というのはなかったと思うよ。あったとしても、なにも思い出せなくて、何も書かなかったと思うんだ。
大阪のお母さんのハゲはどうだったの?
ユキノ先生と母とはだいたい同じくらいの年齢だったと思うんだ。少しだけ母の方が上になるのかなあ。
6年生で爆弾の話を聞く前に、母の頭でハゲを見つけてたと思うし、もっと小さかったはずなんだけど、母はね、小学校に通ってる頃、海沿いの道が通学路になってて、あわてんぼうでもあったから、そこから転落したことがあって、頭の横をケガをして、そこがそのまま小さくハゲになったという話だった。
今は国道だから、どんどんクルマは走っていく道なんだけど、母が小学生の頃は、そんなにクルマも走らなかっただろうし、崖沿いの通学路だったんだと思うんだ。どうしてそんなところで足を踏み外すようなことがあったのか、それは母には記憶がなかったみたい。
ボクと弟は、それから母にはハゲがあって、別に隠すほどのことではないし、目立ちもしないし、気にならないのだけれど、あえてそれを取り上げることもしないで、それも母の一部として受け入れることにした。
母のハゲに出会い、父の盲腸炎の手術のあととも出会っていくんだ。まわりの人のいろんなトラウマの縁に近づいて、質問できる時には質問して、そこから少しだけその来歴を聞いて、そこから自分の肥やしにしていったというところなのかなあ。
以上で「ハゲと爆弾 最初の記憶」は終了です。こんな昔話を書いてちゃ、ダメだよね。もっと今を生きたいな。でも、時には昔にも戻りたい。一体どっちなんだろう。