甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

石川啄木「一握の砂」(1910) その3

2015年07月08日 22時03分15秒 | 一詩一日 できれば毎日?
 啄木のフィクション、歌の物語の世界を味わっています。時々ホンネが出たり、時々変に気取っていたり、若き天才の作品を1つずつ取り上げています。

 今日は、彼の出会いを探っていきましょう。

手が白く
且(か)つ大(だい)なりき
非凡なる人といはるる男に会ひしに 


……正しい語順なら、非凡だと言われている男にあったら、手が白くて、しかも大きな手だった、という感想です。非凡な男は、もっと繊細な手を持っているはずだろ。ばかでかい手の、色白の手は、あまり非凡には見えないね、というような何だかイジワルな視線を感じます。

 すぐに反省した彼は、つづけて書きます。

こころよく
人を讃(ほ)めてみたくなりにけり
利己の心に倦(う)めるさびしさ


……人を小馬鹿にするようなところのある生意気な自分を、啄木は反省できる人でした。素直に他人の力を認めてしまいたい気持ちもあるんだよ、と彼は言います。でも、それを認めてしまったら、自分が壊れていきます。まわりのヤツらはだめなヤツらばかり、鈍才で、愚鈍で、ウスノロで、ただ黙々と仕事ができるヤツらが、着実に社会を築いている。

 それに比べて自分はどうだ。中等学校を退学してから、転落の人生でした。本来ならエリートコースを歩いて、その道の大家としてみんなに認められねばならないはずなのに、借金したり、仕事にあぶれたり、なかなか自分の道が見つからない。

 だから、素直に人をほめることができないのだ。それをしてしまうと、自分の惨めさがドーンと押し寄せてくるはずだから、とにかく自分が社会の壁を突き破るその日まで、まわりの人を認めず、唯我独尊、おれだけがビッグだと思ってやっていくしかないのだ、と彼は言っているのかもしれません。

大いなる彼の身体(からだ)が
憎かりき
その前にゆきて物を言ふ時


……北海道の放浪が1年くらいで、このままではいかんと決意した彼は、上京します。仕事の当てはなく、朝日新聞の校正係という仕事にありつきます。そこでバッタのように働いていると、立派な風貌の男が来て、彼を威圧したのかもしれません。とにかくバイトさんは、頼りない立場なのです。

 家ではどんなに気炎を吐いても、職場ではヒーコラしなくてはならない。当時の朝日新聞主筆(デスク)の池辺三山さんを見て、心の中では「憎らしいオヤジだ」と思いつつ、素直に返事をしている啄木さんが見えるようです。


実務(じつむ)には役に立たざるうた人と
我(われ)を見る人に
金借りにけり


……皮肉を歌っています。短歌なんて、商売にはなりません。だれもそんなものにお金は出さない。それは昔も今も同じです。平安時代の貴族のみなさんはお金に余裕があって短歌を作っている。それを明治のビンボー人の啄木がしてもお金にならない。でも、彼は自分をアピールするには、しばらくは短歌で売るしかないと考えている。ある程度名前が売れたら、小説で儲けようとは思うけれど、そこまで来るチャンスが来ていなかった。

 だから、他人にどう言われようと、とにかくお金にならない「うた人」として少し名前が知れた啄木としてお金を借りて、いやーな気持ちのまま帰ってきたところなのですね。




それもよしこれもよしとてある人の
その気がるさを
欲しくなりたり


……ほら、こんなに素直に人にうらやましさを言える人なのです。自分は気軽じゃないし、ドローンと重い性格で、何事に付けてつっかかってしまう。そして、深く悩みをかかえてしまうタイプだというのを意識しています。

 自分の天才であるのを信じているけれど、その天才がどうしてこんなにビンボーしなくちゃいけないんだよ。おかしいじゃないか! と思いつつ、でも、とにかく家族を養わなきゃいけないから、お金はいるし、カラリとした切り替え上手になりたいと思っています。でも、全くそれができない限界も感じている。



気の変わる人に仕(つか)えて
つくづくと
わが世がいやになりにけるかな


……いやな上司はどこにでもいます。それを嘆く部下というのもどこにでもいる。まさか啄木さんがそんなことを書くなんて、らしくないじゃないですか。

らしくなくても、そういうことを口にすることは大切ですよね。黙ってためこむのが1番いけない。だから、彼がこんなことを書いているのであれば、読者の我々としては、「啄木さんも人の子なんだね」と、ホッとしてあげなきゃいけません。なんてったって、彼はまだまだ若いんですから。

 今日のラスト、とても悲しい歌です。私はそんな男がいる、だれかモデルがあるのだと思っていました。

よく笑ふ若き男の
死にたらば
すこしはこの世のさびしくもなれ


……そんなモデルがいるのだと思いつつも、ひょっとして自分の死の予感なのかなという気もしています。どっちにしろ、人の死を仮定し、そうしたら世の中は少しはさびしくなるよ、なんて、そりゃ当たり前だけど、死は悲しいもので、あまり歌の中でむやみに取り上げてはならないものです。

 死を歌にするのなら、その人を悼むものでなければならない。この歌も、「世の中がさびしくなっちゃうよ」というノリで書いてますけど、読者としては、「そんなこと書かないでくれよ」という気持ちと、「啄木さんって、未来が何となく見えてたのかな」とか、「ありあまる才能と、それを発揮できないもどかしさで、いつも引き裂かれていたのかな」とか思ってしまいます。


あのひとを
社会が認めてくれてたら
私は彼を知らぬままかも

 啄木さんみたいに三行書きしてみました。もっと世の中に認められていたなら、彼の文学性はもっとリッチで、ゆったりとした作品が書けたでしょうか。出版会社を興して、菊池寛くらいになれたかもしれないですね。

 本人は成功したかもしれないけれど、百年経ったら歴史の彼方に消えていってたかもしれません。何が幸いするのか、それがわからないところです。




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