
昨日、もらってきた本に「三重の文学」を見つけたので、打ち込んでみます。
歌う生物学者の本川達雄さんの『時間 生物の視点とヒトの生き方』(1996日本放送出版協会)という本からです。
生命とは永遠を目指すものだと私は考えています。そういうものだからこそ、私たちはみな、不老不死を願ったり、それがかなわなければ、自分を永遠にこの世に刻印しようと不朽の墳墓をつくったりし続けるのでしょう。
生物は永遠を求める。でも、それはどうしてもかなわないことでした。わかってるんだけど、納得できないですよね。だったら、どうするんだろう?
すぐに思いつく答えは、絶対に壊れない体をもてばよいということです。
ということですが、それも無理な気がします。建物だって、巨大なプロジェクトだって、いつか壊れる日のために作っているんでした。
永遠に残る建物をつくるには、じつはもっと別のやり方があるのです。形あるものは壊れるにきまっているのですから、絶対壊れないようにするのではなく、定期的にまったく同じものを建て替えていけばいいでしょう。これが伊勢神宮方式です。
1300年前から遷宮は続いているそうですが、20年に一度建て替えています。そのたびに神様はお引越しをしなくてはならないのですが、新しい建物に入ればリフレッシュはできそうです。
これは永遠に壊れない建物をつくる、じつに現実的な優れたやり方だといえましょう。でも建築史上では、ほとんど他に例を見ないものです。伊勢神宮方式を編み出した私たちの祖先は、きっと独創的でじつに頭のいい人たちだったのですね。
建築物としてはめったに例のない伊勢神宮方式なのですが、身のまわりでは、ごく普通に見られるやり方です。じつは生物がこれを採用しているのです。生物は設計図を残し、それにもとづき定期的に体をつくり替え、永遠に続くことを目指しています。自分そっくりの子をつくり、自身は土に還っていきます。
これが生物たちの求めた「永遠」だったのですね。個々の命は有限だけど、活動としては永遠をめざす。けれども、絶えてしまう命もあるわけで、自然環境の流れの中でつながらない時もあった。

私が初めて伊勢神宮を訪れたのは一昨年のことでした。内宮の拝殿でお参りをし、人気の少ない裏手のほうにぶらぶらと歩いて行ったところ、「踏まぬ石」の石段に出ました。段の途中にたたずんで「なぜ式年遷宮などというめんどうな建て替え作業をするんだろう?」とぼんやり考えていた、そのときです。ハッと生命と伊勢神宮の類似に気づかされました。
伊勢神宮こそ、まさに生命の本質を衝いたものなんだ! 神道には聖書のようなしっかりした書物もなく、宗教として一流とは言いがたいと思っていたけれど、こんなふうに目に見える形ではっきりと生命の本質を教えてくれている。これは並々ならぬ宗教だし、このようなやり方を生み出した私たちの祖先は、独創的で、じつに確かな生命観をもっていたわけだ。日本人の生命観を形に表したものが伊勢神宮なんだ! ――これこそ神のお告げというものなのだろう。私は椎の梢を通して来る金色の光の中で、長いこと、じっとたたずんでおりました。

そういうことでした。ありがとうございました。生命と時間に関して、まだまだお話は続くみたいなので、続けて読んでみたいと思います。