お釈迦さまのこと、もちろん私は何も知りません。いい加減なものです。でも、父の誕生日の一日あとにお生まれになっています。だから、父とお釈迦さまが関係がある、ということはありません。ただ近いだけです。
でも、四月の最初にお寺に行くと、春ということもあって、お寺は華やかな雰囲気になってたりします。ちょうどその日に当たったら、みんなで誕生仏にお水をおかけしたりする、そういう行事がありますね。
一度だけ、東大寺でそういうチャンスがあったけれど、私はお水かけをしたんだろうか。たぶん、しなかったと思われます。並ぶのがイヤだったのか、そんなのしたくないもん、というひねくれ者を気取っていましたか。
誰もいなかったら、お客さんが少なかったら、やったかもしれないし、本当はやりたくてしょうがないはずです。
もう心で、お水をかけた気持ち、素直にお釈迦さまがいてくださったことを感謝する気持ち、みたいなのは心の中に抱えています。
廃仏毀釈から、現代の日本まで、本当の日本らしさとは何か、そういうのを求めているつもりの私は、仏教に関しては、結局、ご先祖様の宗旨である「ナムナミダブツ」からは出ていません。
そのワクの中で、華厳宗の東大寺も、法相宗の興福寺も、律宗の唐招提寺も、どこもかしこも、なんとなく有り難いと思って、何度か行かせてもらっています。
これは宗教なんだろうか。宗教って、ただの葬式仏教をいうのだろうか。
東大寺などの奈良のお寺、京都のいろんなお寺(清水の観音さんとか)、行かせてもらうのは、ただ有名なところだから、何となくお参りするという感じではなかったかな。金閣寺・銀閣寺なんて、お参りした記憶がなくて、写真を撮ることに夢中ではなかったかな。
これは、宗教ではないですね。高野山は、なかなか行けないけど、奥の院の広大なお墓の数々などを見せてもらうと、宗教にふれた気になります。そうですね、空海さんの関連するお寺に行くと、少しだけ宗教に近づける。
そして、鎌倉仏教があり、室町時代の禅宗があり、戦国時代の一向宗が、やがては私のご先祖様まで覆ってくれた。そう、私みたいなカゴシマの末端に生まれた人間は、なかなか仏教にふれるチャンスはなかったのですね。
そして、そんな私が、唐突にお釈迦さまにぶつかってしまう。それが花まつりの季節でした。
青森の人たちは、どんなにしてお釈迦さまにふれているんだろう。地獄絵を見させられて、幼い子たちを震え上がらせたのは、東北の村々の仏教だったでしょうか。太宰さんはそんなこと、書いてなかったっけ?
うちの奥さんのふるさと(岩手県)からすると、東北は曹洞宗のお寺があるようです。ご近所のお寺さんでは、永平寺に修行に行かされて、和尚さん修行もしているみたいでした。
だから、東北では、仏教としてではなくて、ドラマチックな一コマとして、お釈迦さまの誕生の場面があるんじゃないか? もっと東北のお寺を回らないと、本当のことはわからないですね。
人々がみんな、こんな飛び跳ねてるお釈迦さまをイメージしているとは思えないのです。
お釈迦さまと、曹洞宗は、何だか違う気がします。仏教なんだけど、阿弥陀様とか、薬師如来さまとか、観音さまとか、必要ないような気がする。お寺に本尊って、あったんだろうか。ああ、あんまり見てないですね。
また、見て来なくちゃ!