作家・陳舜臣さんの「儒教三千年」という本を読んでいます。もう何日もかけて読んでいます。最後の方まで来たんですけど、そこに孔子さんについてまとめてくれていたので、これはメモしておかなきゃと打ち込んでみました。
陳舜臣さんの作品をこんなに真面目に読んだのって、私は初めてです。何冊かかったことはありますが、たいてい挫折してみんな売り飛ばしてしまいました。今回こそは、やっと家に置いてもいいかなという感じなんです。
ここで儒の流れを、もういちどふり返ってみましょう。
儒の先史時代は、まじない師、祈祷師(きとうし)のすがたが見え隠れします。
孔子が登場し、春秋の諸子百家の有力な一家として、儒家が認められたころの儒を「原始儒教」と呼ぶことにしましょう。
漢代にはいって、為政者に保護され、国教化したあとは、「訓詁儒教(くんこじゅきょう)」といってよいでしょう。
宋代になって、体系化のうごきがあらわれ、朱熹(しゅき)によってそれが集大成されましたが、これは「思弁儒教」とでも命名することにしましょう。
儒の先史時代は、まじない師、祈祷師(きとうし)のすがたが見え隠れします。
孔子が登場し、春秋の諸子百家の有力な一家として、儒家が認められたころの儒を「原始儒教」と呼ぶことにしましょう。
漢代にはいって、為政者に保護され、国教化したあとは、「訓詁儒教(くんこじゅきょう)」といってよいでしょう。
宋代になって、体系化のうごきがあらわれ、朱熹(しゅき)によってそれが集大成されましたが、これは「思弁儒教」とでも命名することにしましょう。
三千年ほど中国で広がってきた儒教とは、宗教なのか、それとも学問なのか。儒教というものにあまりなじんでいない私たちには、どちらとも言えない感覚がありました。でも、ともかくも中国大陸で根付き、広がってきたものでした。とりあえず教養人やエリートになるためには必要な知識でした。
古代の儒教というのは、儀式を大切にするところがあり、祈祷・まじないみたいな要素があったというのです。(たぶん五経などの書物とかにあるんでしょうか?)それが少しずつ広がり、研究され、為政者や人々から利用されていき、国の骨格をなすものに変わっていきました。
そんな中で、何かが失われ、形式的なものがどんどんと付け加わり、原点にもどれという原理主義が生まれたりし、孔子やその後の人たちがどう考えたかの研究が進み、学問的な要素や哲学的な要素も加わったというのです。
宗教が広がる中でのいくつかの運動があったんですね。すべての宗教というものは、その原点になる人がクローズアップされますが、その人に至るまでの助走みたいなのは、そこにあったんでしょう。
キリストさんも、単独であるのではなく、ユダヤの人々、パレスチナの人々、アフリカ系の人々、いろんな人たちの祈祷や祈り・儀式を踏まえ吸収して大きくなっていったはずです。
いくつかの神話・伝説がありますが、それらも土地土地であったり、うまれたものが自然に取り入れられたりしたでしょう。そして、その後のたくさんの宗教に生きた人たちの歴史が重なって今に至っている。すべての宗教が、始めた人たちとそれを信じた人と、それが生まれた土地の力を吸収し、歴史を重ねて今に至っている。
日本のあやかし気功師が暴力的組織に変化したこともありましたが、あれは不自然に拡大しようとしたからです。そして、無理矢理奇石でも起こそうとして、過激なものになってしまいました。あれはニセモノだったのかもしれない。それなりにしっかりと歴史を重ねて行けば、それなりのものになれたんだろうか。それはわかりません。
とにかく、中国においては、儒は深く静かに浸透していったようです。
この流れには、ドラスチックな断絶はありません。いくら訓詁に熱中し、また思弁に熱中した時にも、先史時代から原始儒教にうけつがれた祭祀(さいし)を廃棄することはなかったのです。
鬼神は敬して遠ざける、といった原始儒教時代は、太古の鬼神に満ちた世界から、人間的な世界にぬけ出そうとしていたのです。遠ざかったとはいえ、鬼神を敬うことはやめませんでした。孔子が重んじた礼楽は、なによりも祭祀のためのものでした。
訓詁儒教は本質的に、正しく継承して伝えようとする努力のあらわれで、とうぜん祭祀も丹念に解釈され、伝承されたのです。
思弁儒教は、「理」という絶対者をつくりあげました。理の内容のなかに礼があります。礼が表現される祭祀もまた、批判をこえたものになります。
鬼神は敬して遠ざける、といった原始儒教時代は、太古の鬼神に満ちた世界から、人間的な世界にぬけ出そうとしていたのです。遠ざかったとはいえ、鬼神を敬うことはやめませんでした。孔子が重んじた礼楽は、なによりも祭祀のためのものでした。
訓詁儒教は本質的に、正しく継承して伝えようとする努力のあらわれで、とうぜん祭祀も丹念に解釈され、伝承されたのです。
思弁儒教は、「理」という絶対者をつくりあげました。理の内容のなかに礼があります。礼が表現される祭祀もまた、批判をこえたものになります。
そもそも儒とは何なのか? それは儀式やおまつり・儀礼を大事にするところからスタートしているようです。
だったら、どうして儀礼を大切にするのか? 儀礼は何のためにあるのか? 儀礼をおこなう時、どのような言葉が必要なのか? この儀礼を支える考え方とは何か?
「仁」というものが大切にされ、「君子」となることを孔子さんはあんなにこだわったけれど、それがどんな意味があるのか? それで世の中が治まっていくのか? 確かに国家があるということは、いろんな儀礼が行われるということになるし、儀礼を取り仕切る人が必要だから、そういう人々も養成しなくてはならない。
儒とは、国家の活動を円滑に行うための油みたいなものなのか? もう何千年と試行錯誤が繰り返されてきたようです。朝鮮半島にも広がったでしょうし、日本にも少しだけ影響は及んだでしょう。日本は、あまり熱心に採用してこなかった。
たぶん、国家として安定させるための道具として儒というものを採用するやり方がわからなかったんでしょう。日本では、国が混乱した鎌倉時代から江戸に至るまで、ずっと仏教中心でやって来ていて、広がる隙間がなかったんでしょう。
日本が社会として安定した江戸時代に、やっと儒教を採用・普及・研究が進みます。
堯・舜・禹・湯・文王・武王・周公から孔子にうけつがれた聖人の系譜は、おなじく絶対視されます。そのなかで周公より上は伝説時代であり、聖人像なるものがはっきりしません。たとえば堯と舜とは、ほとんどおなじで、禹以下は世襲王朝の創設者で、おなじ姿にみえてしまいます。
儒教が大切だと模範に取り上げた人たちというのは、すべて孔子さんが推薦した方たちです。
ということは、三千年どころか、四千年とか、はるか昔で、どこにいたのだか、所在もわからない、とりあえず名前だけが伝わっている人たちです。
だから、孔子さんの創作であってもいいわけです。
古代の聖王たちって、イマイチわからないんです。いつもモヤっとしてしまう。
それで、イマイチわかりません、とボンヤリしていると、先生がもう少し優しくかみくだいて教えてくださるから、少しだけわかったような気になれるようです。
ああ、よく分からなくなってきました。