もう3週間前の写真です。あのころは暖かで、上着が1枚でも大丈夫でした。でも、もう今は大変です。上着を何枚も重ねて、ダウンまで着ることもあります。そうだ、ネックウォーマーも探さなくちゃいけませんね。どこに行ったんだろう。
3週間前、母のカゴシマ行きの予行演習で新大阪駅に行きました。だから、てっきり新幹線で行くと思っていたのに、高速バスだ、飛行機だと母は言っています。そんな、バスは年寄りには大変なんだし、飛行機は乗り方があれこれ面倒なんだし、新幹線が一番! と、私は思うんですけど、また電話しないといけないです。
そして、12月の半ばの今です。あと2週間したら、私は18キップでカゴシマまで行くことになります。ちゃんと行けるだろうか。風邪ひかないだろうか。あれこれ心配なのに、あんまり深く考えていません。とにかく電車に乗って遠くまで行くのが、ただただうれしい。……楽天的のオプティミスティク!?
それは楽しいけれど、渡し船のこと、心にとめておきたいのです。
渡し船に乗ると、親戚のおばさんたちの住むところでした。何度か行ったことがあるはずですが、あまり記憶はありません。おばさんたちはどんなところに住んでいたんだろう。古い写真を見ると、ものすごく古典的な、明治・江戸の風情の路地に住んでいたみたいですけど、やがて家を建てて郊外に引っ越していきましたっけ。
私たち家族は、大阪の離島の大正区にずっと住んでいました。南と中央ばかり埋め立てを進めて、離島のままの私の住んでた町は、そのまま放っておかれました。だから、路面電車は昔は走っていたのに、21世紀の今も、区内を貫く電車は一本もなく、バスだけが私たちの町と大阪市をつなぐ交通でした。それで、罪滅ぼしに大阪市は、無料の渡船を7路線今も継続しています。
確かに、それは有難いし、風情もあるし、船にも乗れるし、タダだし、乗組員のみなさんは穏やかだし、いいのだけれど、それでも大阪市の無策が腹立たしくなる時もあります。
大阪を離れて30年近く。相変わらず渡船は動いているし、川のそばは、貴重な財産なのに、あまり開発されることもなく、ずっとそのままにされている。海のど真ん中の無理矢理作った埋め立て地(大阪市のゴミ捨て場で、使いみちがなくて、カジノにしかならないとされていた埋め立て地です!)は、万博騒ぎがあと7年は続くだろうけど、私の町がスポットライトが当たる時は、この7年ではこないんでしょう。まあ、それもいいんですけどね。
イケアはあります。海遊館が来るといううわさがありましたが、港区に持っていかれました。戦前は空港だってありました。工場群は少しずつ縮小しています。私が育った町、これからどうなるんでしょう。
弟たち家族、母は、今もこの浮島のような区に住んでいます。父もここで人生を終えました。
私は飛び出て、三重県にいるけれど、母を訪ねて、これからも行くでしょう。
この渡し船、前にも書いたかもしれないけど、となりの区に渡り、衣料スーパーに行く時に利用していたようです。もう50年くらい前です。
「私たちの住むところには、服を買うところがなかったから、渡し船に乗って、となりの区に行ったんだよ。」
母は言ってました。そうか、お隣の区の方がお買い物するところがあったのか。それから、自分たちの区でお買い物できる時代があって、21世紀の今、母たちがいろいろと買い物をした商店街は開いているお店が、もう数軒あるかないかという状態にまで追い込まれています。
少しずつ私たちが住んでいたコミュニティが縮小している。
家は、空き家もあるだろうけど、それなりにたくさんあるし、空き地はあまりないのです。でも、人口は減りつつあり、少しずつ外国の人たちが入り込んでいるようです。観光ではなくて、住んでいる感じ。これからどうなっていくのかな……。
そうでした。切手集めをしていた小5のころ、渡し船に乗ってずーっと歩いて行った先に、子どもたちあこがれの切手やさんがありました。もう、カタログでしか見たことがないよう切手が、次から次と出てくるし、いろんな人たちが次から次とやって来る夢のようなお店でした。
お金もないし、めったに行けないのだけれど、ごくたまに誘い合っていく時、あれは楽しかったですよ。そのころ、子どもたちはみんな歩きでした。自転車で移動すれば早かったのに、みんなごく当たり前にテクテク歩いていました。
あのお店、今はないだろうな。切手に子どもたちが夢中になった時代があったなんて、信じられないです。
あの頃の私たち、何がしたかったんだろう。とにかく好奇心はありました。