たとえば、「あ」の組み合わせを考えてみましょう。
あい、あお、あか、あき、あこ、あさ、あす、あつ、あぬ(ん)、あの
あっ、「あのちゃん」も、あ音のお名前でしたね。続けてみましょう。
あみ、あむ、あめ、あも、あや、あゆ、あよ
「あよ」なんて、そんな名前は聞いたことないですけど、可能性の問題ですから、「あし」「あに」「あね」「あほ」なども名前にできないことはないですけど、他のものとつながってしまうので、避けることはあるでしょうね。
あら、あり、ある、あれ、あろ
ら行は、可能性はありますけど、「どうしてそんな名前を付けたの?」と親のセンスを問われるかもしれないな。でも、他のどこにもない、ステキな名前を親としてはつけてあげたい。それが私たちの最初の贈り物。なんて思うんでしょうね。親としては必死でつけてあげる名前なんです。
あわ、あゐ、あゑ、あん
わ行も可能性はありますけど、やはり、そういう名前を付ける親たちには、「本当に子どもさんのことを考えているの?」と訊きたくなるだろうな。
何をやってみたのかというと、二音の名前は広く、深く浸透しているのかもしれないな、と思ったからです。次も「い」の組み合わせを考えたら、
いあ、いお、いか、いき、いく、いけ、いこ
少し苦しいけど、可能性はあります。こうして音が決まれば、漢字を想像を絶する漢字を組み合わせればいいのだから、無限に広がっていきます。
昔だったら、かね(金・加根・花音)、かめ(亀・鹿目)、かず(一・和・佳津)など、どんどん作れていきます。けれども、具体的なモノがあって、それを名前にしたという由来がわかりました。
男の子でも、仁(じん)、徳(とく)、大(だい)、連(れん)、英(えい・あきら)、央(おう・ただし)、開(かい・ひらく)など、親の願いを漢字に託し、そのまま名前にしてしまった、というのがありました。
今もいろんな漢字が採用されて、名前を付けるときにも漢字の範囲は広がっていますので、組み合わせは親のセンスなのだと思われます。親や祖父祖母など、一族が総力をあげて名前を付けてあげるんですもんね。
昔、うちの父が名付け親になって「陛一」で「のりかず」とつけてあげたときがありましたが、当時は「天皇陛下」の「陛」は人名漢字としては使えなくて、父に依頼した親戚の人は、役場の窓口で父の名前をもらって、ポイッとつけたということがありましたが、今は「陛」も使えるようになっているみたいです。お父さん、先取りしすぎでしたね。
でも、息子の私は、「お父さん、そんな陛下の陛って、何だかイヤだな」と思ってたんでした。申し訳ありません。お父さんがせっかく考えたのにね。
そんなこんなで、二音の名前は今急速に広がっています。三音が面倒になるくらいに、二音で本人のアイデンティティが決まります。昔なら、男の子なら「〇〇し」「〇〇お」なんて言いましたが、「し」も、「お」も取り払われてしまいました。女の子なら「〇〇こ」「〇〇み」などの「こ」「み」が不採用になりました。
そう考えると、音の響き優先の今のネーミングは、二音で自分を決められるから、便利といえば便利です。自分のことを「ボクは」「わたしは」なんていわなくて、二音で自分を伝えられます。王様が自分を「朕(ちん)」としたように、自称は二音が便利で、相手にも伝わるのです。
これから、男の子でも、「アカは思う」「アツはこうする」なんていう言い方が出てくるでしょうか。便利といえば便利、変だといえば変ですけど、二音名前全盛の時代ですから、それはそれでみんな受け止めるんでしょうね。
私は、クラシックなほうがいいんだけどな。スペイン語系の人なら、男の子は「o音」で終わる、女の子なら「i音」「a音」という法則性みたいなのがあるとか聞いたけど、アンドリアなら女の子で、アンドローなら男? とか、ある程度のルールがあればいいのになあ。