紀貫之さんは、延喜5年(905年)、醍醐天皇の命により初の勅撰和歌集である『古今和歌集』を紀友則さんたちと一緒に編さんしたそうです。もう1100年以上も前の人です。そこに、仮名による序文の仮名序(かなじょ)というのを書いていて、「やまとうたは人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」という理念は、後代の文学に大きな影響を与えたということです。
文学史的には有名な人です。でも、あまりグッとくる作品を残してなくて……、というよりも、あまりに私たちが知らなすぎて、どんな人なのか、いまいちイメージの湧かない人です。
←ユリの木の花だそうです。
散文作品としては『土佐日記』があって、娘さんが亡くなったことを書いていて、短歌よりもこちらの方がしみじみさせる力があるような気がします。
任務が終了して、土佐を離れようとするときに歌を詠みます。
都へと思ふをものの悲しきはかへらぬ人のあればなりけり
[さあ、都へ帰ろうとは思うのだけれど、ふと心のどこかで悲しい気持ちが起こるのは、私たちと一緒に帰らない人がいるからなのです。]
都へ帰ったら、『土佐日記』の最後の所で、
生まれしもかへらぬものをわが宿に小松のあるを見るが悲しさ
[この家で生まれた子どもは、ここに帰ってきていないけれど、その私たちの昔のすみかには小さな松が育っている。それを見ていると、どうしてあの子はここにいないのかと悲しくなるのです]
そうした優しい気持ちをかかえたオジサンで、ものすごい有名な文学者です。お墓は京都の山奥にあるとウィキペディアには書いてありますが、三重県にもなぜかあって、お寺の敷地内にあるようだけれど、駐車場とか不安だし、道も不案内で、なかなかいけないなと思っていました。
←白山町時代のマンホールふた! ウグイスがかわいい。
それが、何気なくパソコンを見ていると、JAの角っこにありますというのを見つけました。地図でも確認してみました。ネットを駆使してくわしい位置を探ろうとしたけれども、よくわからない。ならば近ごろ街道ブームの私なので、初瀬街道のそばに止めて、そこから歩いたらいけるかもしれないと思って、行ってみることにしました。もう夕方ではあったのですけど……。
←左の小さい石が紀貫之さんのお墓です。
↑榊原温泉口から歩いて10分くらいです。
そして、そのお墓の前に立ちました。いつごろのものなのかよくわからないし、文字も表しか見えません。何か由来などが書いてあればいいのだけれど、そういう情報一切なしで、突然に存在しています。三重県にあるのは知っていましたが、もう少し立派なところにあるのだとずっと思っていました。それが、なんと近鉄の榊原温泉口から少し南のJAの敷地の裏手にひっそりと、お地蔵さんのようにコーナーが設けられていて、何だか居心地のわるそうなお墓でした。訪ねる人もあまりないでしょうし、JAの職員さんたちが手入れをしているのでしょうか? 貫之さんも何だか複雑な気分でいるのではないかと思いました。
←シャスターデージー
お墓を見つけるまでに、麦畑を見たり、鉄塔を見上げたりしました。お墓を探しに来たのか、お散歩に来たのか、何だかよくわからなくなってしまいましたが、やっとお参りできたので、短歌でもひねってみますかね。
貫之さん布引山地のその裾に 忘れられずにひっそり眠る
★ それから、このあたりと平安文学の平安文学の関連では、もちろん清少納言さんで、「枕草子」にお湯は、有馬温泉と玉造温泉(島根県)と七栗の湯と書いておられます。
七栗の湯とは、三重県の榊原温泉で、うちはふた月に1回くらいは行きます。なかなか効能のあるお湯で、とてもすばらしいお湯で、そこにはズバリ「清少納言」という旅館だってあります。とはいうものの、清少納言さんがわざわざこちらまで来たようには思えません。単なる平安貴族の常識だったんでしょうか。彼女は、勉強ができて、中国のこともあれこれ話題にできる人だから、きっとお勉強・聞き込みをして、常識として提示したのではないかという気がします。
それから、三重県の海側から見ると、きれいにそそりたってる青山高原の向こうあたりに、兼好さんの塚というのがあるようです。地元の人は兼好さんのお墓だと大事にしているようですが、そういう伝説は江戸時代に起源があるそうで、全国のいろんなところに、そうした伝説の地が作られたらしいです。
中世から近世にかけて、流れゆく人たちというのがいて、その人たちがあちらこちらでそのまま亡くなることがあって、別に亡くならなくても、地元の人との関わりの中で、おもしろいお話をしてくれる風変わりな法師姿の人って、いたのではないかと思われます。そういう人たちが、兼好さんや長明さんや、有名な文学者になぞらえられて、あちらこちらで顕彰されて、あちらこちらに塚ができて、その1つがある、ということになっています。
でも、兼好さんには三重県に来てもらえてたら、私はうれしいんですけどね。
文学史的には有名な人です。でも、あまりグッとくる作品を残してなくて……、というよりも、あまりに私たちが知らなすぎて、どんな人なのか、いまいちイメージの湧かない人です。
←ユリの木の花だそうです。
散文作品としては『土佐日記』があって、娘さんが亡くなったことを書いていて、短歌よりもこちらの方がしみじみさせる力があるような気がします。
任務が終了して、土佐を離れようとするときに歌を詠みます。
都へと思ふをものの悲しきはかへらぬ人のあればなりけり
[さあ、都へ帰ろうとは思うのだけれど、ふと心のどこかで悲しい気持ちが起こるのは、私たちと一緒に帰らない人がいるからなのです。]
都へ帰ったら、『土佐日記』の最後の所で、
生まれしもかへらぬものをわが宿に小松のあるを見るが悲しさ
[この家で生まれた子どもは、ここに帰ってきていないけれど、その私たちの昔のすみかには小さな松が育っている。それを見ていると、どうしてあの子はここにいないのかと悲しくなるのです]
そうした優しい気持ちをかかえたオジサンで、ものすごい有名な文学者です。お墓は京都の山奥にあるとウィキペディアには書いてありますが、三重県にもなぜかあって、お寺の敷地内にあるようだけれど、駐車場とか不安だし、道も不案内で、なかなかいけないなと思っていました。
←白山町時代のマンホールふた! ウグイスがかわいい。
それが、何気なくパソコンを見ていると、JAの角っこにありますというのを見つけました。地図でも確認してみました。ネットを駆使してくわしい位置を探ろうとしたけれども、よくわからない。ならば近ごろ街道ブームの私なので、初瀬街道のそばに止めて、そこから歩いたらいけるかもしれないと思って、行ってみることにしました。もう夕方ではあったのですけど……。
←左の小さい石が紀貫之さんのお墓です。
↑榊原温泉口から歩いて10分くらいです。
そして、そのお墓の前に立ちました。いつごろのものなのかよくわからないし、文字も表しか見えません。何か由来などが書いてあればいいのだけれど、そういう情報一切なしで、突然に存在しています。三重県にあるのは知っていましたが、もう少し立派なところにあるのだとずっと思っていました。それが、なんと近鉄の榊原温泉口から少し南のJAの敷地の裏手にひっそりと、お地蔵さんのようにコーナーが設けられていて、何だか居心地のわるそうなお墓でした。訪ねる人もあまりないでしょうし、JAの職員さんたちが手入れをしているのでしょうか? 貫之さんも何だか複雑な気分でいるのではないかと思いました。
←シャスターデージー
お墓を見つけるまでに、麦畑を見たり、鉄塔を見上げたりしました。お墓を探しに来たのか、お散歩に来たのか、何だかよくわからなくなってしまいましたが、やっとお参りできたので、短歌でもひねってみますかね。
貫之さん布引山地のその裾に 忘れられずにひっそり眠る
★ それから、このあたりと平安文学の平安文学の関連では、もちろん清少納言さんで、「枕草子」にお湯は、有馬温泉と玉造温泉(島根県)と七栗の湯と書いておられます。
七栗の湯とは、三重県の榊原温泉で、うちはふた月に1回くらいは行きます。なかなか効能のあるお湯で、とてもすばらしいお湯で、そこにはズバリ「清少納言」という旅館だってあります。とはいうものの、清少納言さんがわざわざこちらまで来たようには思えません。単なる平安貴族の常識だったんでしょうか。彼女は、勉強ができて、中国のこともあれこれ話題にできる人だから、きっとお勉強・聞き込みをして、常識として提示したのではないかという気がします。
それから、三重県の海側から見ると、きれいにそそりたってる青山高原の向こうあたりに、兼好さんの塚というのがあるようです。地元の人は兼好さんのお墓だと大事にしているようですが、そういう伝説は江戸時代に起源があるそうで、全国のいろんなところに、そうした伝説の地が作られたらしいです。
中世から近世にかけて、流れゆく人たちというのがいて、その人たちがあちらこちらでそのまま亡くなることがあって、別に亡くならなくても、地元の人との関わりの中で、おもしろいお話をしてくれる風変わりな法師姿の人って、いたのではないかと思われます。そういう人たちが、兼好さんや長明さんや、有名な文学者になぞらえられて、あちらこちらで顕彰されて、あちらこちらに塚ができて、その1つがある、ということになっています。
でも、兼好さんには三重県に来てもらえてたら、私はうれしいんですけどね。