ちっとも進まないけど、無理矢理に進めます。宣長さんは三重県から見たら、桜井市までは来ています。でも、まだ奈良盆地には進出していない。その手前であっち行ったり、こっち行ったりしている。
早く行けばいいのに、少し原稿用紙を増やしているというのが、場つなぎというのか、あんまり文学的ではないモタモタ歩きをしている。
本人も、このあたりは、内容はイマイチだなと思いつつ書いていたんじゃないだろうか。
芭蕉さんには、こんな無駄な記述はないと思うな。
さてこの里を出て。五丁ばかり行て。土橋(ツチバシ)をわたりて。右の方におりゐ(下居)といふ村あり。その上の山に。こだかき森の見ゆるは。用明天皇ををさめ奉りし所也と。かの家のあるじの教へしは。所たがひて覚ゆれど。猶あるやう有るべしと思ひて。のぼりて見るに。その森の中に。春日の社とて。ほこらあり。
さて、この里を出て、数百メートルを行き、土橋を渡ると、右手におりいという村がありました。
その村には少し高い山が見えて、うっそうとした森になっているところが見えます。宿の主人は、それこそが用明天皇様のお休みになっておられるところだと教えてくれた場所になりますが、何だか違うのではないか、という気もいたします。
そこに行けば、詳しいことがわかるだろうと、山を上り、森の中を進んでいきますと、春日の社というほこらがありました。
聖徳太子さんのお父さんのお墓が、こんなところにあるんでしょうか。明日香とか、斑鳩にあるのではないのか。
この春日のお社というのは、どういういわれのある神社なのでしょう。ちっともわからないし、お客としてはモヤモヤがたまりますね。何だか痛快さが足りない。
ただ、あっちに行きなさい。古代と関連あるよ、と言われるままに、ホイホイ歩いている感じです。ちっとも主体的ではない。
そのすこしくだる所に。山寺の有けるに立ちよりて。たづぬれば。あるじのほうし。かれは御陵にあらず。用明の御(オホン)は。長門(ナガト)村といふ所にこそあなれといふに。さりや。かのをしへしは。はやくひが事也けりと。思ひさだめぬ。
森から少し下ったところに、山寺がありました。江戸時代には、お寺と神社とは同じ敷地内にあるのが基本形だったのです!
そこに立ち寄ると、寺の住職は、あちらは御陵ではありません。用明天皇様のお墓は、長門村というところにございます、と言うのです。
ああ、やはりそうか。教えてもらったのは間違いではあった。それもまあ、仕方のないことだ。私どもは、何も知らないままに、「古事記」などの記述をもとに歩いているのであり、案内書もなければ、詳しい歴史地図も持っていない。ただ、人から聞く情報を頼りに歩いているのであり、古代の歴史をたどる旅は、こうした失敗ばかりがあるもののようです。
と、宣長さんの気分になってみました。
されど此森も。やうある所とは見えたり。ふるき書(フミ)に。【文徳実録九又神名帳】椋橋下居神(クラハシオリヰノカミ)とあるも。此里にこそおはすらめ。かの土橋を渡りては。くら橋川を左になして。ながれにそひつゝのぼりゆく。
間違いだったのかもしれない。けれども、この森も、何かゆかりのある所というふうに感じられる。
ここらあたりを古代の人々が行ったり来たりしたのは確かなのです。ここの「おりい」という地名も、古い文書などに出ていたりしますし、奈良時代などにもそれなりに歴史があった土地なのでしょう。
土橋を渡り、倉橋川を左に見つつ、流れに沿って上ることにしました。
奈良盆地ではなく、山ルートで多武峰をめざす作戦なんでしょうか。
ああ、歩いてみないと、宣長さんたちの気分は味わえないもんでしょうか。
一度、チャンスがあれば、行ってみないといけないです。
こちらが、今日、うちの奥さんが近所の小学校の図書館に持っていったタンポポの切り絵完成品です。
朝の薄暗い時間に撮ったので、光が足りません。