宣長さんは、まだ奈良盆地に出ていません。三輪山の南をあっち行ったり、こっち行ったりしています。それはもう、みんなで古事記ゆかりの土地を歩かなくてはならないし、古代の天皇様たちのお墓とか、関係のある所を踏破しなくてはならないという、使命感に燃えているのです。
春のいい陽気だし、どこまでも歩けそうな気配です。とことん地元の人に取材して、千数百年前の日本の歴史があった土地を解明したい気持ちでいっぱいです。
今の私たちは、なかなかそういう気分になれなくて、もう奈良盆地も、奈良の山々も現代のあれこれに占領されているけれど、宣長さんのころなら、古代の息吹きは感じられたことでしょう。
くらはし川は。やがて此(この)いほりのうしろをながれたり。すべてこゝは。山も川も名ある所ぞかし。
くらはし川は、この庵(宿を借りた人に教えてもらったお寺)の後ろを流れておりました。すべてここは、山も川も、いろいろと古代からのいわれのある所でした。
さきの家にかへりて。また御陵(ミササギ)【倉梯岡(クラハシノオカノ)陵崇峻天皇】はいづこぞととへば。
崇峻天皇の陵(みささぎ)は見つかりませんでした。それらしい雰囲気のある所もありません。もう一度、先のお宿に戻り、別の崇峻天皇のお墓とされる、「くらはしの丘」というところを知りませんかと、ふたたび訊ねてみました。
そは忍坂(オサカ)と申す村より五丁ばかりたつみの方に。みさゞき山とて。こしげき森の侍るなかに。洞(ホラ)の三ッ侍る。ふかさは五六十間も侍るべし。
それは忍坂(おさか)という村がありまして、そこから数百メートルばかり南東の方角のところにみささぎ山と呼ばれる山があります。木が茂った森の中に掘られた穴が三つほどあり、そこにおまつりされているのかもしれません。その穴の深さは、百メートルくらいもあります。
きっと、そこが天皇様のご陵墓なのかもしれません。どうぞ、そちらにお参りくださいませ。と、宿の人が言うのです。
こゝより程はとほけれど。そのあたり迄(まで)も。なほくらはしの地(トコロ)には侍る也といふ。
ここからは少し遠いんですけど、その辺りも「くらはし」という土地でございます。あなた様が探しておられる崇峻天皇のゆかりの地ではないですか、と宿の主人は言います。
もう、そこまで言われたら、後戻りであろうが、行くしかありません。行っても、ただの野山と、森と、石の構造物があるだけかもしれないけれど、それでも、それらしい形跡を見つけておきたかった。
さあ、どうしますか?
いでその忍坂は。きしかたの道なりしに。さることもしらで。過こし事よと。いとくちをし。こゝよりは廿町あまりもありといへば。えゆかでやみぬ。
さあ、その忍坂は、すでに通り過ごしてきたところで、そういうことがあったとは知らないで、過ぎてしまったことでした。とても残念ではあります。
今、私たちがいる所から二キロほどもあると言いますし、その「くらはしの丘」というところには行かなくなりました。
ああ、確かに二キロあと戻りするのは気乗りがしませんし、テンションが下がりますからね。賢い選択だと思われます。これからの道々を大切に歩くことの方が大事です。
つくづく、ガイドというものがない時代の旅の難しさみたいなのが出ています。そのためにたくさんで連れ立って出ているのに、それでも、うまく見つけることはできなかったのか。
かの音羽山といひつる山。こゝより東にあたりて。いと高くみゆ。倉梯(クラハシ)山は。ふる(萬葉)き歌共によめるを見るに。いとたかき山と聞こえたれば。これやそならんとおぼゆ。
東の方(私たちが歩いてきた道)を振り返ると、音羽山という山があります。とても高く見えるのですか、万葉集などで歌われている「くらはし山」は、とても高い山ということになっていて、この音羽山が、古代の「くらはし山」なのだろうと思われ、少しだけ私どもは、古代の雰囲気にひたるのでした。
さあ、もうすぐ奈良盆地です。めざす吉野のお山はまだ遠いし、取材しながらではありますが、早くそこにたどりつかなくてはなりません。
道を少しだけ急ぐことにしようと思います。
★ という形で、次へとつなげようと思います。宣長さん、寄り道しないで、さっさと南に向かってほしいんです。多武峰の談山神社だって行くんでしょ。
私は、一度だけ行ったことがあるので、当時の写真を掘り出さなくてはなりません。早くそちらへ行きましょう。よろしくお願いします。